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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

S君の命日。

2008年05月20日 | ガリバー旅行記
 今日は、私の親友のひとりであったS君が、ALSと呼ばれる筋萎縮側索硬化症という難病で亡くなった日であり、私にとっては心重たくもあり、彼を思い出す日でもあるのだ。

 ご存知の方も多いと思うが、この病気は写真にあるように著名な歴史的人物も、この病で倒れて帰らぬ人となったと言われる難病で、発生率は二万五千人に一人という統計があるらしいが、日本にも五、六千人の患者がおられ難病指定されているとは言え、経済的にも家庭的にも大変な苦労をご家族がされている。

 歴史的にはアメリカ・メジャーリーガーだった、ルー・ゲーリック選手が患った病気のために、ルー・ゲーリック病とも称されるが、運動性神経が次々とやられて、病気は早い進行性で、手足の不自由さから、言葉の不自由、そして食べ物の誤えんを起こし、ついには呼吸が自分自身で出来なくなるという難病であり、死に至るケースが多いとされている。

 私の親友であり、明るく元気な青年であったS君が、この難病を発症したのは、友人同士で結婚し、女の子を授かってまもなくの頃、すなわちまだ若い30代の前半であった。

 可愛い女の赤ちゃんがパパのお膝に座って、パパとスキンシップという親子の愛情が一番感じられる頃に、彼は発病していたらしく、しばらくは原因がわからなかったために、可笑しいなと周囲が感じるほど、対応がちぐはぐになっていたのである。

 大学病院に数ヶ月経って診察をしてもらって、このALSと言う名の難病だと判明した以降は、どんどんと病状が進行し、会うたびに体の自由を失って行く様子を見届けるような、つらい出会いが続いた。

 病院を転院したり、違う病院での診察、治療を願ったりと、奥さんはもとより、ご両親はじめ多くの友人たちもお見舞いを繰り返し、出来る限りのサポートを各々がしていたのだが、治療といえる顕著なものはほとんどなかったのではないだろうか。

 亡くなる十日前に私が彼を見舞った時には、既に彼に声はなく、集中治療室での約三十分ほどのお見舞いが、大変心重たかったことを今もはっきりと記憶している。

 というのは、病気で治療のために入院している方々を見舞う場合は、大抵の場合、「早くよくなってほしい」という願いから、声をかけながら励ますものだが、彼の病状、容態は、もう既にそういった状況ではなかったからである。

 集中治療室の扉を開けて消毒をして、お見舞いに入った私も白衣を着て、彼のやせ細った手首に手をやりながら、思いの丈を語っていたのだが、病室を後にする時の「後ろ髪をひかれる」思いは今も鮮明に覚えている。

 それから十日が経っての訃報に、愕然としつつも、それ以来、残された未亡人と幼きお嬢さんを少しでもサポートできる様にと心がけて、早14年が経ったのである。

 ギターやバンジョーを弾いて、フォークソングやカントリーの曲を歌っていた、大好きなS君の面影を思い出しながら、お嬢さんが今春元気に高校生となったこと喜び、彼の冥福と未亡人とお嬢さんの将来の幸せを祈らざるを得ない。
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「結婚しようよ」

2008年05月18日 | ガリバー旅行記
 今朝、車で約二十分ほど走ったところにある「けいはんなプラザ」という名の京阪奈文化学術研究都市と称された地域のど真ん中にあるセンタービルの中のホールで映画「結婚しょうよ」を鑑賞した。

 関西財界がバックで国家的プロジェクトと謳われた「文化学術研究都市」構想も、バブル経済がはじけ、関西財界の支えも政府の支援も厳しい中で、このセンタービルの維持管理運営も民間としては厳しく、京都府などの支援待ちといった状況であるが、ともかく「文化」と名がつくが映画館ひとつ近くにはない地域なので、毎月の企画映画上映は、中高年齢層を中心に人気を博している。

 今回の「結婚しょうよ」は、1971年にメジャーヒットした、吉田拓郎の「結婚しょうよ」にヒントを得て製作された映画なのだが、我々団塊の世代にとっては、何とも青春時代を思い起こさせてくれる「懐かしさ」を感じる映画だと予測して、家人と共に観に行ったのである。

 実は、吉田拓郎の「結婚しょうよ」がヒットした翌年に結婚式を挙げたものだから、若気の至りで式の入退場のどちらかに「結婚しょうよ」をBGMとして流した記憶もあり、うれし恥ずかしい思い出の曲でもあったのである。

 映画の方は、三宅裕二演ずる父と真野響子演ずる母に二人の年頃の女の子がいて、父の家庭のルールとしての「夕食は家族全員で必ず食べる」という暖かな約束が二人の娘の青春がリスクとなって崩れて行く過程で、父の自問自答が始まったのである。

 父の古いギブソンのギターを持ち出してバンド演奏のボーカルをする次女と駅前の路上ライブを聴いていた父が出会った青年と恋仲になった長女の結婚への道が絡んでいるのである。

 あの70年代の懐かし時代背景の中で出会って結婚した父と母だが、なぜに父がギターを押入れに押し込んで歌わなくなったのか、不動産会社のサラリーマンとして働き、夢を追いかけることを諦めた父が、娘の成長と共に父の権威と娘の将来に葛藤するのである。

 誰にとっても、娘も息子も成長すれば自立し、良き伴侶や仕事を見つけて「親離れ」して行くのだが、取り残された様に感じる「古い?父」が、まだ生きていたのである。

 「落陽」という吉田拓郎の名曲をテーマに、ラストシーンは、結婚式を挙げていない父と母が、娘のライブハウスでの結婚式で、突然ウェディングドレスの母とのダブル結婚式のようにされて照れながら、新婚旅行にと「つま恋野外コンサート」に娘たちから招待されて、青春時代を取り戻したかの様にインジョイするのだ。

 娘の結婚式で、何十年ぶりにギターを持って「結婚しょうよ」を歌う父を演ずる三宅裕二の声は、かすれて決してうまくないが味わいはあった。

 団塊の世代だけではないが、あの頃の学生時代、反安保や学生運動の時代を彷彿とさせてくれる「懐かしさ」と「家庭、家族の温かさ」、そして「結婚っていいなぁ!」って改めて思わせてくれる楽しくもあり、少し感慨深かげになる映画であった。
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旭山動物園

2008年05月15日 | ガリバー旅行記
 久しぶりの北海道旅行から、昨夜帰ってきた。

 今回の旅行は、私には珍しく、旅行会社の企画するツアーに参加したのだ。

 というのは、最近話題になっていた「旭川市旭山動物園」と世界自然遺産に登録されている「知床半島」と春を満喫できる「チューリップと芝桜」を何と、三泊四日で見れるという格安ツアーを見つけたからである。

 家人と共に参加を即決してから約二が月が経って、家人の出演する二つの合唱コンサートを終えた翌日からの日程で、関西空港から北海道は新千歳空港へと旅だったのである。

 三泊四日と言っても、集約すれば中二日間で主要な観光スポットを強行軍で巡るバスツアーであり、関西地方からの参加者が36名とバスガイドに添乗員とドライバーという総勢39名の旅であった。

 初日は午後に空港から大雪山系の層雲峡までを走り、二日目がチューリップ園、芝桜園、知床半島を巡って阿寒湖、そして三日目は旭山動物園から富良野、美瑛などの北海道の景色を楽しんで札幌へと走るコースで、最終日の新千歳空港までの距離をあわせて、何と1300キロを超える走行距離であった。

 何処も久しぶりの北海道らしさを味わう素敵な旅行となったのだが、最大の関心事であった「旭川市旭山動物園」では、約二時間を昼食もはさんで慌しく楽しんだ。

 修学旅行生や団体客も多かったが、平日ということもあって比較的空いているように感じるほど、最近の旭山動物園は超人気の北海道観光スポットとあって、話題が盛りだくさんであった。

 ペンギンの空中散歩に始まって、白熊の飛び込み、アザラシの遊泳、オラウータン
のもぐもぐタイムと、美味しいお弁当は約十分で平らげて、足早にあっち、こっちと動物園内を汗をかくほど動きまわったほど久しぶりにエキサイトした。

 中でもペンギンとオラウータンの「もぐもぐタイム」と称される「餌時間」が予告されていたので、たくさんの観衆が寄っていて、飼育員や解説員の話やパフォーマンスを見聞きしながら、動物たちの可愛く賢い習性と生き様の一部を観察することが出来た。

 しかし、北海道ツアー全体を通じて、私が楽しんでいたのは、旭山動物園も然りなのだが、私も含む総勢39名の「ニンゲン」の生態とでも言うべき、個性的な個々人の動きと言動、表情であったのではないだろうか。

 若い子連れの家族もいたが、ほとんどが年配のご夫婦か親子カップルなどであり、似たもの同士や、中には年の差夫婦?か言い知れぬ関係のカップルと思われる二人もいたので、毎日飽きることなく団体行動の中での観光地への立ち寄りを楽しんでいた。

 最期に内の家人と共に、仲良くおしゃべりするお友達になったAさんの奥さんとが、帰る日の早朝から、タレントの田中●●が経営する「お花畑特製生キャラメル」を求めて新千歳空港で走ったのだが、この日だけは入荷が午前中になく、残念だったと嘆きつつ、テレビで話題となった商品をゲットすべく走ったエネルギーには感服せざるを得なかった。

 

 
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「竹の子会」

2008年04月29日 | ガリバー旅行記
 春の竹の子のシーズンである。竹の子とは、もちろん孟宗竹の赤ちゃんの「タケノコ」なのだが、これを「筍」と書く謂れを、つい先日知ったのである。

 孟宗竹などの竹の赤ちゃんであるタケノコは、雨後のタケノコの如くとも称される様に、よく出て、よく伸びるものである。

 そこで、つまり「旬」といわれる十日間で「ぐんと伸びる」ものなので、竹冠に旬と書くのだと言うのである。

 なるほど、地中から少し気配を感じるくらいの「タケノコ」の出ばなを感じて「タケノコ掘り」の名人は、見事に大きなタケノコを掘り出すのだが、私が名づけた「竹の子会」とは、私たちの小学一年生の頃の同級会のことなのである。

 今から半世紀ほど前の、大阪市立長池小学校に誕生した、なんと「一年い組」の担任の先生が「佐竹先生」だったことから、十歳の頃に先生が他の小学校に転勤されることを知った時から、先生のお誕生日のお祝いを兼ねて始めた同窓生の会を「竹の子会」と名づけたものなのである。

 実は団塊の世代の真っ只中の我々のクラスは、たぶん出入りのクラスメイトは、のべ六十人以上いたと言われているが、その内の有志によるミニ同窓会が、今まで五十年近く続いているのである。

 最初の頃は、みんなで百円、二百円と出し合って、先生のお誕生日ケーキを携えて、先生のご自宅に伺って、みんなでご馳走になって帰ってくる様な同窓会だった。

 そのうち、みんな高校生、大学生と成長し、オリンピックの年には出来るだけ多くのクラスメイトに呼びかけての同窓会ととして発展して、ほとんどが結婚し、所帯を持ってからは、奥さんや子供さんも同伴でのにぎやかな集いも何年か持った。

 野山に「竹の子」が顔を出す頃に集うことが多かったためと、「佐竹先生の教え子」ということでの「竹の子会」なのだが、みんなは「筍」のようには成長していないかも知れない。

 しかし、今年の先日の集いには、何と半世紀ぶりの仲間が東京から駆けつけてくれるという「楽しい集い」となった。

 広島から毎回顔を出してくれるT君をはじめ、男子七名と女子一名の総勢八名のミニ同窓会だったのだが、実は恩師の「佐竹先生」が三年前に亡くなられているために、恩師なき同級会となっているのである。

 消息も含めて、セピア色の小学入学式の写真を見ながら、話は尽きないのだけれど、大学の教授が判明しているだけでも四名いるし、日銀に就職した輩もいるらしい。

 しかし、団塊の世代の我々は、昨年から今年にかけて全て「還暦」を迎えたために、第二、第三の人生を歩む実態が見えてきていて、まだまだ心は若い連中なので、話は発展していくばかりであった。

 まだまだ「伸び行く」、育ち盛りの「竹の子会」であった。
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ケニア人と友達になった。

2008年04月16日 | ガリバー旅行記
 今日、前から電話で連絡をとっていたケニア人の男性二人と初めて会って、友達になった。

 彼らは大阪枚方に住むケニア人で、一人は7年前に来日し、日本人の奥さんとの間に二人のかわいい女の子がいる青年である。

 もうひとりは関西外国語大学に留学している独身男性で、何と身長は189センチとちょっとあるという長身のハンサムボーイであった。

 私にとってはアフリカ人の人と口を聞くのは、これで二回目ということで、以前に会った人はエチオピア人であったが、日本で英語を教えていて、やはり日本人女性と結婚している人であった。

 今回出会った二人の長身の黒人男性は、いずれも面白い大阪弁も話す青年であり、アフリカン太鼓を中心とするバンド演奏もお手のものというミュージシャンでもあるのだが、日本でアフリカ、ケニアの文化や民族性、国を知ってもらうためのあらゆる活動をしたいと言っていた。

 音楽だけでなく、料理、民族衣装、旅行、風俗習慣、子供たちの遊び、言語などの国際的交流をする中で、お互いの歴史や文化を尊重しながらお互いを理解できるようなイベントをしようと言うことになった。

 まず私の友人でもある宇治の小さな知的ハンディのある青年たちの作業所を拠点に、アフリカンリズムを楽しむ集いを企画して、その延長上で毎月か隔月に楽しく交流できるようにしたいとお互い話し合ったのである。

 そんな話の中に飛び出したのが、今年2月に起きた「ケニア暴動」の悲惨な被害者たちの救援活動であった。

 私たち日本人にとって、確かにアフリカ大陸は地理的には遠い大陸ではあるが、本当に海外のニュースも歴史的学習においても、そのほとんどが欧米とアジアを中心とする内容であるため、ケニアの暴動のニュースは、ほとんど記憶になかった。

 しかし、昨年12月の大統領選挙が発端で、再びケニアの主要部族である3部族間の対立が激化し、中には600人もの子供たちが親と離れ離れになったり、死に別れたために、雨季に入ったケニアの大地で悲惨なホームレス状態にあるというのである。

 食べるものにも事欠いて、首都ナイロビの街中でも餓死寸前のみ子供たちもいて、ビニール袋だけで雨と寒さを凌いでいる子供たちが多くいるというのである。

 如何に私たちは地球上の争いや悲惨な日々の生活に苦しんでいる人たちがいることすら、知らないで生活していることかと自問自答しながら、彼らの話を聞いていた。

 彼らと友達になって、これから少しでも私たちに出来ることをお手伝いしたいと思うが、彼らはとっても明るく元気なケニア人であり、かえって日本人の私たちが励まされる要素がいっぱいなのではないかと思うほど、彼らのエネルギーと感性は果てしなくある感じで、大変これからの交流が楽しみである。

 ケビンとエリック。これからもよろしく。ジャンボ、アサンテ。
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内モンゴルから初来日。

2008年03月17日 | ガリバー旅行記
 私が縁あって関わり出してから、早や20年になる「中国・内蒙古自治区」から、日本に留学している包海岩君と海霞さんのご両親が、やっとこさ日本に初めて来られた。

 一昨日の夕刻に名古屋国際空港に無事着いたというメールをもらっていたのだが、初めてのご両親の日本滞在は、彼らが現在居住する名古屋でのニ泊から始まり、今日の夕刻に京都に入られた。

 早速私は彼らの宇治のアパートに向かい、昨年の夏に内モンゴルでお世話になって以来の再会を果たした。

 親父さんは体重110キロもあるという大柄などっしりとした男で、まるで「お相撲さん」の様であり、奥さんも小柄ながらどっしりとした体格である。

 初めての日本の印象を伺うと、空気も町も綺麗だと嬉しそうに話されていた。

 今の季節は特に中国の全土が「黄砂」に覆われているわけではないだろうが、オリンピックの開催される「北京の汚染度」が問題になっているくらいだから、中国に比べれば、日本の空気の汚染はましなのかもしれない。

 今回の日本への初めての旅は2年ほど前から計画されていたのだが、なかなか中国・内モンゴル自治区から、普通の蒙古族の夫妻が、いくら息子と娘が日本に留学しているからと言っても、渡航目的の審査やらビザ申請など厄介な手続きが手間取って、やっとこさの来日となったのである。

 しかも、ご夫妻で中国国内もほとんど旅行されたことがないという包君のお父さん、お母さんだったので、これを機会に中国の首都「北京」で一週間を過ごされて一旦故郷シリンホトに戻られて、再びビザが下りたことを確認して北京経由で初来日されたのである。

 「お疲れ」だったと思うが、ニコニコと笑って私との再会を喜んで下さって、大きな体のお父さんとお互いに腕を回して再会を喜びあった。

 ささやかな歓迎の夕食の宴をと、近くの中国レストランに包ファミリー4人と共に出向いて、何で中国から来たお客サンなのに「中国料理」なのかなと思いつつ、美味しい中国料理をいただいた。

 モンゴル語で「イーアムテ」すなわち「美味しい」を連発しながら、お母さんもニコニコとお食事をされたのである。

 今回は観光ビザの期限が3ヶ月あるので、ゆっくりと日本に滞在されて京都のみならず、新幹線に乗ったり富士山を見たり、大相撲が観れたらいいなぁなんて話しながらの夕食となった。

 息子と娘に囲まれての久々の「水入らずの食卓」にお邪魔した格好になったが、楽しくお元気そうに食事をされていたので安心した。

 19日には同志社大学構内で歓迎夕食会をしたり、20日には京田辺および京都市内の案内を私がする予定なので、少しでも日本の春、京都の美しさを体験してほしいと願っている。

 ほんとうに、よく来てくださいました。熱烈歓迎致します。ごゆっくりと日本の春を楽しんでくださいね。
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文通の淡い思い出。

2008年03月15日 | ガリバー旅行記
 先日、昼下がりのローカルなラジオ番組で、「文通」という懐かしい響きの特集をやっていた。

 リスナーに呼びかけた「文通の思い出、記憶」に対して、多くのエピソードや経験談が寄せられていた。

 その中には、長年の海外との語学の壁を越えた「ペンパル」と呼ばれるお付き合いが続いている例や、「文通」がきっかけで結婚に至って、現在幸せに暮らしているというのもあった。

 携帯電話が普及して、現在では直接の電話機能よりも、「メール」で用件を伝えたり、逐次状況を伝えたりすることが「日常茶飯事」となっていて、彼氏、彼女への「メール」の返信がすぐに返って来ないと「不信感」を抱いたり、イライラすると言った「メール待ち症候群」も多くいる様である。

 確かに、携帯メールの場合、お迎えや待ち合わせ、またはちょっとした用件を伝えるには非常に便利なのではあるが、お互いの立場や感情によっては、使われたり、めんどくさかったりする場合もあるのではなかろうか。

 かつての「文通」の時代では、こちらから「お手紙」を出しても、返信が来るまで早くても3、4日はかかり、一週間程度返事を待つのは当たり前であった。

 なのに、現在は数分メールの返信がないだけで、「待つ」ことができなくなっている御仁がたくさんいるのではないだろうか。

 私も実は未だに誰が投稿したのかわからないのだが、中学3年生の頃に「中学英語」の雑誌だったと思うのだが、「ペンパル募集」のコーナーに自分の名前と住所が載って、それがきっかけで「北海道釧路市」在住の同年輩の女性と「文通」をした経験があるのだ。

 どれほどの往復の手紙が行き来したかは定かではないが、受験を控えた思春期の男女ではあったが、今と違ってのんびりと手紙のやり取りをした記憶がある。

 高校二年生の夏休みに、その当時入っていた「ボーイスカウト」のローバー隊が「北海道キャンプ」に出かけることとなって、その日程の釧路に滞在する日時に、リーダーにお願いして、ドキドキのペンパルの彼女と始めて会う機会ができた。

 今でもはっきりと覚えているのが、会った場所で「鶴舞公園」というところだったのだが、ベンチに座って約一時間、何を話したかは全く記憶にないが、「うれし恥ずかしい」一度だけの「文通」デイトだった。

 今でも、文通を始めてしばらく経ってから、お互いの写真を送り合いしたのだろうが、彼女のセーラー服姿の「学生証」の証明写真のごとき面影をくっきりと覚えていて、「青春だなぁ」と感慨にふけることができる。

 たぶん現代の若者たちは多くの友達らと「メール交換」をしていると思われるが、すぐに「写メ」を撮ったり、送りあっているので、あの時代のような「淡い思いや記憶」とは大違いの感覚ではないだろうか。

 「速さ」や「確実性」など、全く異なるツールの「文通」と「メール」の違いを改めて感じつつ、「手書きの文字」の持つ「温かさ」と「個性」を感じていた「文通」を懐かしく思い出しながら、たまには「メール」ではなく、「手紙」や「はがき」を手書きで出してみたくなった。
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春の芸術を楽しむ。

2008年03月09日 | ガリバー旅行記
 数日前「啓蟄」という「春が近くなって虫たちが地中から出てくる」日があったが、まだまだ虫たちにとっても、今年の寒さは厳しいと思えて、春の兆しが近いことは間違いないのだが、2月には花を咲かせる近くの「青谷梅林」も、まだ満開とはなっていないようだ。

 しかし、昨日からの春の陽気に乗せられて「花粉」が大量に飛び出して、花粉症攻撃が始まっており、私もご他聞にもれずに「鼻水」や「くしゃみ」に責められ出している。

 そんな三月第二日曜日の今日、いつもの様にいろんなイベントや集いのお誘いの中で、「芸術の春」を感じる友人たちの絵画展と合唱フェスティバルに足を運んだ。

 京都駅に降りると、たくさんの「京都」観光を目当ての旅行者が駅周辺に群がっていて、やはり「春」を感じずにはおれなかったが、私は駅南側のひっそりとした京阪ホテルのロビーへと足を向けた。

 数年前に一緒に中国・内蒙古に旅した仲間のひとりで、定年後の趣味をかねて「版画」にチャレンジし、相当な秀作の数々を創作しているKさんのロビー展示を鑑賞した。

 落ち着いたテーマを、丁寧な観察力でひとつひとつ削った上に、微妙な着色をして作品を生み出す世界は、私のような「おっちょこちょい」には真似のできない繊細な世界であり、私より一回りは高齢のKさんの心境と集中力には敬服の至りである。

 その後、何年ぶりかの個展の案内をいただいた「おしゃれなフランス帰りの姉妹」の「ふたり展」は、和紙に描かれた洋風のレディを中心とする色彩豊かな絵画に加えて、ワンピース、ティーシャツ、バッグ、小物に至るまでデザインされた作品が並んでいて、知り合って10年ほどになるS&Mの独特の世界に魅了された。

 たぶん、私が女性ならば身につけてもお洒落と思える作品があったのだが、なにぶん中高年のおっさんには、ちょっと似合わないものなので購入は断念せざるを得なかった。

 日曜の午前ということもあって、作者自身は両方とも不在だったので、署名録に氏名を描いて一言感想を添えて、会場を後にした。

 久しぶりの京都市内、御池、三条だったので、春の陽気とともに他の観光客の足取りにも影響され、京都文化博物館をぶらりと散策したり、新風館でお茶したりして、八幡市文化センターでの「やましろ合唱フェスティバル」へと向かった。

 午後の部が始まる時間に会場に入ることができて、京田辺市の4つのグループを含む11団体の合唱舞台を鑑賞することができた。

 全体的には高齢者が中心の「合唱祭」となっていることは否めないが、わが家人の所属する二つのグループも含め、日頃の練習の成果をじっくりと聴けた。

 人間の肉声、特に「アカペラ」の歌声には、ほんとうに聞き惚れるほどの魅力があり、音程やリズムの音楽センスや技術も大切だが、楽しく歌っているグループの歌声には大いに共感できた。

 花粉症で「鼻水」や「くしゃみ」に悩まされながら、「春の芸術」を楽しめた一日であった。
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うるう年の「おまけ」

2008年02月28日 | ガリバー旅行記
 世の中の出来事は全てきっちりと説明ができて、人類にとって分からないことはないと思っている人はいないだろうが、今晩のテレビニュースでは各局が、太陽系宇宙の惑星としてと、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星に続くⅩ星があると推測されると報道された。

 神戸大学の研究者が天文学的数値を計算した上で、太陽系の私たちの宇宙空間に数年前に惑星群からはずされた冥王星ではない、新たな地球規模の半径を持つ惑星が存在することが分かったというのである。

 そのX星は、いつごろ地球から確実な存在として発見されるかは、その軌道上の何処に現在存在しているかによって、太陽を周回する楕円形の軌道を一周するのに、なんと1000年かかるそうなので、ここ4.5年中に確認されるか、500年後になるかは不明だとのことであった。

 惑星天体としてX星は地上温度がマイナス260度とのことで、生命体が存在している可能性は薄いとの見解も同時に発表されている。

 こんな「夢」のような不確実でありながらも、何とも想像力を掻き立ててくれる様なニュースが何とも幸いだと感じるほど、イージス艦事故の防衛省、自衛隊を取り巻く事故への対応振りのお粗末さや、中国製餃子のまだ見えぬ毒物を入れた場所や犯人像が、中国と日本の警察当局では全く相反する見解が報道されていたりして、人間社会の勝手な現実がある。

 さて、明日はほぼ4年に一度の「うるう年」の閏月の「おまけ」の一日、すなわち2月29日である。

 地球が太陽を周回する平均回帰年は、現在365.242199日とされているのだが、素人的にはほぼ四年に一度、すなわち「オリンピックの開催年が閏年」と認識されている。

 しかし、①西暦の数字が400で割り切れる年は、閏年。
     ②400で割り切れなくて、100で割り切れる年は、平年。
     ③100で割り切れなくても、4で割り切れれば、閏年。
     ④4で割り切れない場合は、平年。

 という「閏年」かどうかを見極めるルール、法則がある。

 ということで、最近なら2000年、2004年、2008年と、五輪開催年が全て「閏年」となっており、平年の365日より一日「おまけ」の366日となっているのである。

 「おまけ」かどうかは考えようだが、私は「おまけの一日」と感じている。

 ついでに「おまけの一秒」もあって「閏秒」というらしく、原子時計の協定世界時と実際の「世界時刻」の差を時折修正しているのである。

 最近では2006年の一月一日の朝8時59分59秒に一秒加えられて、60秒と9時0分0秒を二度カウントして、7年ぶりの調整を行っているのだそうである。

 「閏秒」には「おまけ」の感覚はあまりにも短くてないが、明日の一日、24時間は、4年に一度の「おまけ」として、有意義に過ごしたいものである。

 2.29だから、二人で「お肉」でも食べる日にしようかな。(笑)

 

 

 
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偶然と思えない偶然。

2008年01月19日 | ガリバー旅行記
 皆さん、今までの人生で、いろんな「びっくり」体験を誰もが、一度や二度はされていることだと思います。

 今朝の新聞の「余禄」欄に、たとえば何年も会っていない友達のことを思い出していると、その人から電話がかかってくる。こんなとても偶然とは思えない偶然のことを「シンクロ二シティー」ということがあると書かれてあった。

 私にも多くの、この「シンクロ二シティー」と呼ぶにふさわしいのかどうかわからないのだが経験があるのである。

 先日、仕事で外回りをしていたところ。ある偶然と言えばそれまでなのだが、今まで全く知らなかった主婦の方が、「私がインターネット」や口コミなどの情報で探していたのをご存知で来られたのですか」と言われたのです。

 とんでもございません。そんな超能力の様な「予知能力」なんて、私にはありません。

 しかし、そのご婦人にとっては、「こんな情報がほしかった」と思っている、ちょうどグットタイミングで、私が「そんな情報」を届けたらしく、大変喜んで下さった上で、「なんと偶然とは面白い」と重ねて驚かれたのである。

 私は、以前から私の敬愛する人生の先達で、考古地理学の権威であられた元国立大学の名誉教授の0先生から、「偶然かと思うことも、全て歴史的必然性なんだよ」と教えられているし、私自身も全ての出来事が「起こるべきして起きた」ことなのだと確信しているのである。

 と言うのは、私たち凡人には、全く「偶然」としか思えないことであっても、神様の御旨なのか、運命なのか、それぞれは個人の心の内での思い次第なのだが、必然的なことなのだろうと思うのである。

 私がこの世に誕生したことに始まり、長い人生の中で、多くの選択を自分自身でしてきたと思っていることも、それはそう決断させられてきた、すなわちそういう生き方を歩むさだめにあったのである。

 人生には喜怒哀楽が付きまとう様々な出来事や時期がある。

 しかし、いいことも悪いことも、全て自分の人生のための「肥やしか栄養」と成り得る出来事なのである。

 ついつい、「何故自分がこんな経験をしなければならないのか」と自問自答せざるを得ない様な出来事も、時が過ぎて。ある時気づくのである。

 「そうか、こういうことのために、あの体験があったのだ」と。

 「シンクロニシティー」という概念は、スイスの心理学者ユングが唱えたらしいが、日本語では「共時性」と訳されているらしい。

 どだい科学的に同時発生の原理などは検証することが出来ないのだが、この「シンクロニシティー」を題名にした竹内まりやのラブソングがあるらしい。

 「素敵な偶然」というサブタイトルの曲はどんな曲か知らないが、恋人や夫婦、友人、知人、それぞれの「偶然の出会い」が、素敵な関係となっているのである。
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