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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

親友の奥さんの死の知らせ。

2007年02月19日 | ガリバー旅行記
 夕方、何気なく見上げた西の空に、キレイな「お盆の様な月」と言ったらいいと思える月齢2くらいの平たい月が上を窪みにして横たわっていて、その少し高い空に、宵の明星と言われる金星と思しき惑星が輝いていた。

 市内の友人と奥さんとの語らいの後、車を走らせて我が家に向かう途中、私は愛用の軽ワゴン車から、その見事と思えるような「絵の如き空の二つの明かり」に魅せられ釘付けになった。

 近くの住宅街の駐車場付近に車を一旦停めて、やおら修理が出来て手元に帰ってきたばかりの「デジカメ」を取り出し、遠くの空の二つの天体の光景を撮影しようと何度も試み、あまり上手に撮れなかったが、上記の写真となった。

 何とか、月と星がわかるかな。

 夕食を終えて、明日提出の定例議会の一般質問通告の作成をしていると、二度ほど携帯電話に着信があったが、仕事を続けていると、固定電話の方に別の友人からの一報が入った。

 大阪の同業者?でもあるT市の市会議員のN氏の電話であった。

 今は広島県福山市に住む、私と彼にとって共通の小学校時代からの親友のK.T君の奥さんが亡くなったという驚きの知らせだった。

 携帯着信にはK.Tの名前が二度記録されていたので、携帯電話を手に少し心落ち着かぬ思いで、幼さ馴染みでもあり青春時代も成人してからも、機会あるごとに交流のあった同窓生の友人の声を待った。

 今、彼は目の前に奥さんのご遺体があり、「今も眠っているようだ」と落ち着いて語っている。そして昨日は彼女の57回目のお誕生日で、子ども達や孫達がみんな寄って、病床で彼女のお誕生日を祝いつつ、天に召される時の近さを悟って、「お別れ会」となったと言う。

 彼女は息苦しい中で、か細い声だが意識ははっきりしていて、「私は幸せだった」と言ったそうで、今朝肺がんのため亡くなったのである。

 私は彼に、ありふれた「ご愁傷様」という言葉だけは言いたくなかったので、彼と彼女の30数年間に思いをはせながら、言葉を探して電話口の彼の言葉を聴いていた。

 明日のお通夜と明後日の告別式の時間や場所を確認した後、やっと彼女の明るい生前の面立ちを浮かべ、友達夫婦として住む場所は離れているが、何度となく出会った彼女の「幸せに召された」お別れを心に強く感じながら、「ご冥福を祈ります」としか言えなかった。

 彼への拙い励ましを言葉にしながら、今日の夕べに観た「お盆の様な月と星」を思い返して、彼女が天上に召されることを、私に告げたのではないかと思ったのである。

 2月の夜、そう寒さは感じなかったが、凛としてキレイな月と星が西空に輝いていたんだ。僕はその光景に強い力を感じてシャッターを押していたが、それが彼女からのお別れのメッセージだとは、その時は気づくはずはなかった。

「千の風になって」、私たちを見守ってくださいな。今日お別れに行きます。
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へらへら通信

2007年02月14日 | ガリバー旅行記
 年が新しくなって、節分、立春も過ぎで、世は地球温暖化の影響もあってか、早や春の暖かさが感じられる気候が続いて、そこら中で「おかしな天気ですね」「やっぱり地球は今世紀末まで持たないでしょう」とか、日常的会話として地球温暖化への危惧が語られ出している。

 確かに日中の気温が、まだ2月の半ばだというのに16度とかで、どう考えても春の気候であり、全国各地から桜が咲いたとか、何とも「ひまわり」が咲いたとか、とんでもない話題が伝わってくるくらいの天候異変は地球温暖化が原因だろう。

 そんな中、年賀状の整理もとっくに終わって、春の心の準備が始まっている今日この頃なのだが、タイトルにある「へらへら通信」なるものが、姫路のイラストレーターのおじさん、岩田健三郎氏から届いた。

 この岩田さんは、ほのぼのとした絵を描かれる画家であり、私は今から20年以上も前に、当時子どもの遊び場活動に関わっていて、「遊び場情報誌」の取材で、兵庫県姫路市に彼を訪ねたことから知人となった方である。

 その当時から独特の風貌と共に、現代社会の経済優先の、しかもバブル経済まっただ中での出会いではあったが、何とも微笑ましいと感じるような、のんきで楽しい生き方をされている方だとの印象を強く感じた人であった。

 それ以来、年賀状だけの行き来の関係なのだが、私にはほんとに心温まる便りを下さるアーチストのひとりとして、とっても親しみを感じつつ、楽しみながら彼の生き方、そして大切な価値観に学ぶところが多いのである。

 今回の便りにも、その日その日のなんやかんや「へらへら通信」と書かれていて、へらへらと縦書きすると、今、今通信とも読めるという、へらへらの意を改めて知らされたのである。

 封筒の裏に、自筆で「賀状いただいていて、わたしはいまごろに。こよみがほんとうに はるになって 今年もお元気で 岩田健三郎」とやわらかく温かいペン文字で書かれている、「心にコトンと届く」文面が添えてあった。

 年が明けて、ようやくに いまごろに わたしの今年。早々に賀状をいただき ありがとうございます。わたしは年末・年始、年ごとに かたずけものが増え、かたずかず ジタバタ。で、賀状がつくれませんでした。そのかわりに、このつうしんを。どうにかこうにか、元気にやっているという報告に。

 2007年 新しい年が明けた。ことさらに何をということもないのやが わたし、今年六十歳で。まだピンと来てへん。けれど「老い」への始まり。はて、どうなるのやら・・・が新しい。老いていく自分が新しい。

 と、掲載した写真の如き、最初のページに添え書きとして書いておられる。とってもゆったり、スローライフの典型の様な生き方を地でいく、岩田健三郎さんとの出会いに感謝である。
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自然・いのち・元気!

2006年12月31日 | ガリバー旅行記
大晦日である。2006年があと1時間ほどで終わろうとしている。

 テレビでは大晦日恒例のNHK紅白歌合戦を初めとして、各テレビ局が娯楽番組を放送している中で、世界的にはイラクのフセイン元大統領が死刑判決確定後4日目の昨日処刑されたというニュースが全世界に発信され、郷里に埋葬されたそうである。

 今年ほど、「いのち」を感じざるを得なかった年はなかったのではないかと思うほど、一年中、子どもから大人まで、いろんな人々の命が軽んじられてきた年ではなかったろうかと思うのである。

 一年を締めくくる今年の漢字にも「命」が選ばれたわけだが、私にとっても来年は何と「還暦」を迎えるという「いのち」の循環とも言える60歳になる年となるし、我が娘には二人目の子どもが授かり、来春新しい「いのち」が誕生する予定である。

 自然界に生き、生かされている我々「人類」だが、その生かされている宇宙空間の「地球」のエネルギーを得ながら、大切な地球、宇宙空間的には「地星」を余りにも無造作に痛めつけたりしているのではないだろうか。

 私達も含む、「地星人」の「いのち」は大きな生態系の中で、バランスを保ちつつ長き歴史を刻んできた永遠の命の連鎖であり、これからの「いのち」を育み続けるための責任をも、我々が担っているはずなのである。

 しかし地星人たちは、目先の物欲や金銭欲に翻弄されて、どんどん地星の地下資源を掘りつくし、CO2や放射能を初めとする有害物質の生産に一生懸命になっているのではないだろうか。

 私達の長くて100年前後の「いのち」だけが全うされればいいのではなく、これからの未来永劫の人類をも含む地星の生態系のバランスを何とか保って、「いのち」を育み、いのちが元気に生きる宇宙であり続けなければならない。

 大晦日に新しい年、新年を思いながら、私達の今年一年を振り返りつつ、全世界的に叫ばなければならない問題が山積していることに、改めて気づくのである。

 「勇気を持って、平和への努力と人間本来の優しさと愛情」を全世界に注ぐためのエネルギーが必要である。

 今晩の紅白歌合戦で布施明が歌っていた、「イマジン」は。まさに全世界の人々にビートルズのジョンレノンが捧げた「平和へのメッセージ」ではなかったか。

 ジョンレノンが凶弾に倒れて、早や二十年以上が経ったと思うが、2007年の新しい年を迎えるに当たって、敢えて「IMAGIN」が歌われた意義は深いと思うのである。

 想像してごらん、国と言う境目なんてないんだよ、世界は地星という宇宙のひとつの星に、ただ人類という生物が生きているだけなんだよ。

 争いや憎しみ、妬みや攻撃をやめて、みんなが共存し合える「平和な地星」を取り戻すために、みんなが素直になって愛し、愛され、生かされる元気を、もう一度取り戻そうではありませんか。

 
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内モンゴルつながり3連荘

2006年11月25日 | ガリバー旅行記
 今日は偶然が重なり、内モンゴルの「縁」で親しくなった三人の若者たちに、京都市内で続けて出会うという稀にみる半日となった。

 今日、結婚式をする青年から、数ヶ月前に披露宴への出席とスピーチを頼まれていたが、彼との関係が深まったのも内モンゴルへの旅であり、それも小学六年生と中学一年生の時に、連続して私達の企画に参加した縁からであった。

 彼は1991年に私達が企画した「内蒙古地球学校」と称する市民による子ども達の国際交流野外活動に参加したのだが、一週間の草原ゲル生活を中心とした野外経験も、考えてみれば日本人の参加者、スタッフに中国、内モンゴル側のスタッフ、交流学生も含めると200人近い人間がいて、彼はリーダーや前を行く子ども達の背中しか見ていなかったと言うのである。

 そのため中学生になった翌年の夏に、10数人の参加者のファミリーな旅に再度参加して、自分の目と足で内モンゴルを感じたいと思ったらしく、ご両親のご理解と財政負担の下で、二年連続参加したと言うのである。

 そんな彼の思いと共に、私はモンゴル草原で面白い体験を彼としたのだが、彼にとっては貴重かつ非常にインパクトのある印象の旅となった様で、それ以来言葉を交わす機会が増えた年下の友人となったのである。

 そんな彼が素敵な若き伴侶を得て晴れて結婚するというので、私は喜んで披露宴の席に参加させていただき、スピーチをさせていただいた。

 午後から始まった「宴」でモンゴルとの「縁」を語った後、同じ内モンゴルツアーで親しくなった、もう一人の娘さんが松本市で小学校の教師をしているのだが、先々週に長野に行った折は都合がつかず、25日に京都で家族全員が集まるというので、そこへお邪魔することになったのである。

 たまたま今日結婚した彼も、松本から京都にやってきた彼女も同い年の内モンゴル地球学校参加者であり、お互い15年の年月を経て京都で出会えたのである。

 そしてもう一人は、内モンゴルから京都に留学してきて6年になる兄と、まだ2年足らずの妹のモンゴル人兄妹が、同じ京都市内のホテルでのパーティーに招かれて、モンゴル舞踏と馬頭琴の演奏をするというので、会いに出かけたのである。

 約六年近く前にも、京都の地で蒙古人の兄と現在松本在住の彼女とお母さんも交えて夕食を共にしたので、お互いの存在と出会いからの六年近くを思い起こしながら、お互いの健闘を私が報告した。

 奇しくも今日結婚した新郎と、松本からやってきた彼女、そして内モンゴルから来て日本語を勉強しつつモンゴルの踊りを披露した彼女、この三人共が1980年生まれの26歳であり、モンゴルの旅を通して私と深く関わる若者達との再会であり、京都の半日は、モンゴル3連荘の刺激的で楽しい時となったのである。
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つくばエキスプレス

2006年11月16日 | ガリバー旅行記
 議員としての研修で、千葉県と埼玉県へと一泊二日で出かけた。

 東京、秋葉原から何と20分、昨年夏に開通した「つくばエキスプレス」という新線に乗って、流山市と三郷市へ行ったのである。

 埼玉県三郷市と千葉県流山市は共に、つくばエキスプレスの沿線にあり、秋葉原から東京都域の地下鉄路から高架線になり八潮を過ぎ、新中川と江戸川に挟まれた人口13万人余の細長い市が三郷市で、その先の江戸川を渡ったところが人口16万余の千葉県流山市である。

 流山市では農業施策と緑の施策が研修の主テーマだったが、やはり市の一番大きなプロジェクトである、つくばエキスプレスの開通により開発が進む市域の二割にもなる大規模の土地区画整理事業も説明を受けて、現地も見させていただいた。

 南流山、流山セントラルパーク、流山おおたかの森と三つのTX新駅が出来て、従来のJR武蔵野線、流山電鉄、JR常磐線や東武野田線などによる交通手段より、飛躍的に東京の中心部へのアクセス時間が短縮されたのである。

 160ヘクタールにも及ぶ殆どが市街地調整区域だった田畑や山林が市街地と変更されて、東京への通勤圏として30分前後と言う魅力的な住宅地として生まれ変わり、従来の一戸建て住宅が三千万円程度だったのが、4,5千万円から6千万円クラスの住宅となって分譲されても完売という状況になっていた。

 三郷市でも写真の三郷中央駅を中心とする沿線一体型の土地区画整理事業が展開中だが、大型一流企業の本社機能の立地やマンション、分譲住宅の建設が急ピッチで進められていて、バブル景気の再来かとも思わせるような活気が感じられるようであった。

 しかし、両市の関係者は市やUR(都市再生機構)が主体となって実施している大型の都市型開発を説明し解説されつつも、莫大な財政的負担の投資効果と返済など、まだまだ将来への不安も抱いておられるようであった。

 いずれにせよ、私は俗に言うところの「バブル経済」と呼ばれた15年程前までの国、府県、地方自治体の財政状況とは違った現状での、多大な財政負担による大規模開発の一例として、この「つくばエキスプレス」開通による開発プロジェクトに驚いたものである。

 一方、わが市の南部地域が属する「関西文化学術研究都市」構想は、「国家的プロジェクト」と言われつつも、「バブル景気」の破綻と共に、民間企業や財界の経済的余裕がなくなり非常に尻すぼみの状況で、クラスターと呼ばれる指定区域でも全く開発や誘致計画が進まない地区もあり、ほぼ「頓挫」している状態もある。

 やっぱり東京経済圏は違うのである。この「つくばエキスプレス」の建設には約1000億円以上の事業費がかかったそうだが、国と茨城、千葉、埼玉各県が4,3,2,1の割合で出資し、沿線市町が残りを配分出資しているのである。

 税金の平等、公正な歳出を疑いたくなるのは、関西人の僻みだろうか。

 
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長野電鉄に乗りました。

2006年11月14日 | ガリバー旅行記
 昨日から議会の研修で長野県の須坂市と岡谷市を訪ねました。

 京都から新幹線のぞみと中央線特急しなので長野に向かいましたが、途中の木曽川上流の山々の紅葉と南アルプスの冠雪がとても美しく見えました。

 長野駅前で「信州そば」を食した後、長野電鉄というローカル私鉄に乗車しました。長野から湯田中温泉へ向かう路線ですが昼間は乗客も少なく、のんびりした田園地帯を走って、まるで路面電車の如く駅間も短い鉄道ですが、沿線の庶民や学生、通勤客には欠かせない足となっている感じの電鉄でした。

 長野電鉄の普通列車で20分ほどで須坂駅に到着し市役所へと向かいました。研修を終えての帰路は、電車の車内は高校生や小学生で賑わっていました。

 長野市内から通学する高校生は、それぞれ帰宅の途中ということで、お喋りに花が咲いていましたが、一昨日には冬の到来を感じさせるような初雪が降ったこともあって、女の子たちの大半がマフラーを首に巻いているのに素足はスカート丈が短く寒そうな出で立ちでした。

 途中、付属中学校前からたくさん乗ってきた小学生達は、私服で思い思いの友達同士で語り合いながらも、信州大学付属小学校に通う小学生らしく何処となくエリート候補生と言った感じで、おてんば娘ややんちゃ坊主とは違った「賢そうな」少年、少女に見えました。

 須坂駅前には「チャレンジ学院」という名の「予備校」があって、その駅側の壁には、宣伝用の垂れ幕が貼ってあり、東大、京大と大きく書かれた下に、信大6名、慶応、早大各1名、計61名合格と小さく書かれていました。

 どうも東大、京大へは、チャレンジした学生はいたが「合格」したのかどうか不明で、下に書かれたように地元の信大に辛うじて6名が入学し、東京の私学で早慶に漸く各1名が合格したという実態と見受けられ、ちっとも予備校の宣伝にはならない正直さを感じました。

 その上「チャレンジ学院」と言う名は、地域では有名なのかは知りませんが、安いピンクキャバレーの店名のようで、一生懸命大学入試に頑張っている学生達を対象とした、成績優秀で一流大学入学必至の予備校という印象は薄いものでした。

 今日は、諏訪湖畔の岡谷市を訪問しましたが、駅前に「鰻の町」とのキャッチフレーズがあり、研修を終えての帰路の昼食に「うな重」を食したのですが、のんびりしたお店でゆっくり食べれましたが、「ご馳走様」と出る時、玄関に「当店の鰻は愛知県産です」と書かれてあり、何故「鰻の町」なのかと半身半疑になりました。

 また当地出身の著名な画家の作品展示を中心とした美術館や通りにも「イルフ」と言う不思議なネーミングがされており、職員に伺うと画家の造語で「古い」を逆に読んだだけとのことでした。

 旅の目的は議会の研修でしだが、地方都市で見つけた他愛無いことに、感心したり疑問や不思議を感じるのも「旅の楽しさ」だと思いました。
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赤い簪(かんざし)

2006年10月01日 | ガリバー旅行記
 とても色っぽく見える若い女性のうなじであるが、お話は彼女が黒髪につけている赤い簪についてである。

 赤い簪、かんざしと言う字は何と難しい字なんだろうか。こうしてパソコンや携帯で変換されなければ、きっと読めたりはしない人が多いのではないだろうか。書くとなると、竹冠の下にどう書けばいいのか検討がつかない字である。

 余談はともかく、実はこのかんざしは今夏私と共に中国内モンゴルへの旅人となった67歳の大阪にお住まいの小柄な女性、Nさんの若い頃の和服の装飾品のひとつだったものである。

 今回の旅には現在京都で日本語を学びながら、日本の大学への進学を目指しているナラングリと言う名の蒙古族の女性が、里帰りを兼ねて同行したのだが、関西空港でNさんは彼女に初めて出会った時に、娘時代から大事にしていた朱塗りの平打ち簪と実母の形見でもある黒い貝の蒔絵が施してある変形簪をプレゼントしようと思いついたのだと言う。

 約10日間の旅の行き帰りの5日間を一緒に行動した若いナラングリに、自分の娘時代からの大切な「飾り道具」を差し上げて使ってもらいたいと願い、彼女の民族舞踊やしぐさを見る度に、その思いが募ったと言うのである。

 旅から帰国して1ヶ月以上が経ち、久しぶりに旅の仲間同士が写真交換を兼ねて、大阪のNさんのお住まいの町で会うこととなった。

 内モンゴルへの旅を大変喜んでおられたNさんは、食事を共にした席で、持参されていた赤いかんざしと黒いかんざしを、おもむろに彼女にプレゼントされたのである。

 彼女は群馬県の桐生の製糸問屋のお嬢さんだったらしく、幼い子どもの頃から、和服や身につける装飾品など、結構上等な品を与えられて育たれた様子であるが、時代の変遷、時の経過を感じさせない、美しい赤いかんざしは、輝くような渋い漆塗りが施されていて、黒いお母さんの形見のかんざしも非常に良品であることが一目でわかった。

 蒙古族であるナラングリの長い黒髪を後ろに結わいて、赤いかんざしを挿すと、何とも和服を着ているわけではないのに、和服美人の如き黒髪の様に錯覚するほど似合ったのである。

 この「赤いかんざし」は、Nさんが娘時代にプレゼントされたものだが、黒いかんざしは明治生まれで平成の時代まで生きられた実母の形見として持参されたもので、ナラングリの黒髪に挿されて、これからどの様な歴史を刻むことになるのだろうか。

 立派な工芸品としても価値のある装飾品のひとつである簪ではあるが、人に歴史がある如く、物にも歴史があり、これからも人間の歴史を髪の隙間から眺めていくのだろうと思うのである。

 日蒙友好の印として、中国、内蒙古と日本を行き来することになるのだろう。

 
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大宇宙の中に

2006年08月29日 | ガリバー旅行記
 内モンゴル草原から帰って、多忙と言うべきか現代社会の中での仕事に戻りつつ、いつしか頭の中には、あの大草原の夜に展開された大パノラマ的満天の星空が思い出されてくるのである。

 ほんの数日前、真夜中の満天の星を見上げながら、いくつかの「流れ星」を見ては、子どもの様に「何かお祈り、願い」をと思ったり、3つ以上流れ星を見てからゲルに戻って眠ろうと心に決めて、モンゴルの初秋の草原の冷えを堪えて佇んでいたものである。

 あの草原の真上に展開する眼前の大きなパノラマの如き「満天の星」とは、我々の命が誕生した地球からの眺めなのだが、いわゆる太陽系と称される宇宙のほんの一角に過ぎないのである。

 銀河系宇宙と呼ばれる多数の星団の中の一つの銀河系の中に太陽系宇宙があって、その中に2000億個もの恒星を初めとする無数の星団があるのだが、人類はねその中で8つの☆だけに「惑星」という特別な称号を与えることを改めて確認したらしいのである。

 つまり水星、金星、地星、火星、木星、土星、天王星、海王星の8つを「惑星」と称し、今まで仲間として呼称していた「冥王星」は惑星外として「矮惑星」とすることを決定したのである。

 大きさが地球にとっての「月」の様に小さくて、周辺の星の中で群を抜く存在感が乏しいというのが、その理由らしいのである。

 まさに地球の人間どもの考えることは、小さくて勝手ではなかろうか。

 私は、内モンゴル草原の大海原を見渡しながら、特に360度地平線の闇の中に、無数の星がちりばめられていて、私達にとっては巨大なパノラマとしか表現できないスケールなのだが、この視界に入っている地球からの眺めも、まったく太陽系の一部であり、金星、火星はすぐに見つけることが出来るが、他の惑星すら肉眼ではなかなか見ることが困難なのである。

 そんな状況の中で、小学生の時代から親しんできた「水金地火木土天海冥」の9つの太陽系の惑星群の中の「冥王星」だけを、いまさら仲間はずれにすることなんて可笑しな戯言の様にも思えてならないのである。

 何を中心に、何を基本的な価値として『物』や『存在』を見るかは、見る人の勝手で自由ではあるが、この果てしない大宇宙の中にある多数の銀河系の中の、ひとつの太陽系宇宙において、その中のひとつの星である「地球」に生命体として生きる「人類」が勝手に、「冥王星」とある星を名づけた上で、惑星の定義からはずすという「仲間はずれ」を決定するなんて、どう考えても可笑しいのである。

 限りない宇宙、果てしない宇宙空間の中の小さなひとつの銀河系に存在している我々の「太陽系」というちっぽけな宇宙の中の一つの豆粒の様な「地星」に住んでいる存在でしかないのに、毎日、家庭、職場、地域で、偉そうなことを言い続けている人間が可笑しくてたまらなくなるではないか。

 小さな命を、この地星に与えられた一人として、果てしない大宇宙の中のひとつの存在であることを、改めて自覚したいものである。
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満天の星と内蒙古草原

2006年08月26日 | ガリバー旅行記
 18度目の内蒙古草原でのゲル生活の旅を終えて、昨夜帰国しました。

 現代社会で時間に追われ、車移動と携帯電話でコミュニケートに慣れて気づかなくなった「自然、時間、人間的出会い」などに対する普通の感性を再び感じる機会として、「命の洗濯」と自ら称する一年に一回の長期休暇であった。

 今年は5月に残念ながらご主人を見送られた高齢の女性と「乗り物」としての「乗馬」に魅力を感じた50代の男性と、里帰りを兼ね通訳も務めてくれた内モンゴル出身の若き女子学生と私の、たった4人の出発であった。

 内蒙古自治区の中央部のシリンホトから車で2時間ほどの草原に、中型のゲル(蒙古族の移動式住居)を二張り建て一週間以上の草原生活を展開した、同志社大学京田辺キャンパスの「エンパワメント・モンゴル」に参加した12名の男女学生と4名のスタッフが残したゲルを私達は生活の場とした。

 2つの新しいゲルで、私達とその後に草原に到着した大阪の会社員と同志社神学部の大学院に学ぶ韓国の青年などが、日本に留学して5年を経たB君一家とその親族に大いに世話になりながら、草原での牧民生活の一部を体験したのである。

 羊が300頭、牛が40頭、蒙古犬が4頭、黒豚が一頭、ネコが一匹いる草原で、B君のおじさんにあたるGさんと、二人の男の子を中心に遊びながらの生活であった。

 水汲みは谷あいの井戸まで、今回は古い北京ジープに大きな古い200ℓ入るいわゆる一斗缶と60ℓほどの青いプラ樽を積んで、バケツで何度も井戸のポンプを手で扱いで汲み上げるのである。

 食事はゲルの中央に土とレンガで造られた蒙古型「オクドさん」で、大きな鉄鍋を多用して、スーテー茶(蒙古風ミルクティー)を初め、羊の解体をして得た肉料理から水餃子や特有のパンまで作るのである。

 燃料は、周囲に適当な低木が結構ある丘陵草原で、適当に散歩がてらで薪集めをし、枯れ木や枝を集積し燃やしたが、牧民の多くはほとんどが家畜牛の糞を集めて乾燥させた無臭に近い燃料を使っていた。

 そんな水と食生活を基本に、彼らは多くの親族、友人、知人達の協力で大草原での厳しい生活を送っているのだが、「冬支度」の多忙なこの時期にやってきた我々日本人を中心とする訪問者を、フレンドリーな笑顔で歓迎してくれたのである。

 今回の牧民ガダさんの二人の息子たち、11歳のオシントゥーと15歳のシンジトゥーの男兄弟にとっては、つい2ヶ月前に突然の事故で38歳の母を亡くした直後だったが、我々と一緒に笑顔で遊んでくれたのである。

 内蒙古草原の魅力はたくさんあるが、今年の1週間は一日を除いて恵まれた晴天の下、月も夜明け前の新月前後の明かりだけのため、素晴らしい満天の天空を見ることが出来たのである。

 日本の都会からやってきた者たちは、「感嘆!」の一語を繰り返し言っていた。

 「天の川」が本当にミルキーウェイの如く、ミルクを溢した様に見えるほど、白く鮮明に見えたことに驚きを覚えたようであった。

 冷えた夜空の下で流れ星や大天体ショーを見ながら過ごしたゲル生活は、強い感動であった。
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地方色豊かな食べ物

2006年07月29日 | ガリバー旅行記
 いろいろと地方を旅する機会は多いが、なかなか地方の豊かな食文化に触れるような食事をとるには、地元の友人か関係者に連れて行ってもらわないと、出会えないものである。

 先日の博多では久しぶりに会った友人と夕食を共にすることとなり、「何が食べたい?」と尋ねられ、私はお酒は弱くてほとんど飲めないのだが「酒の肴」は大好きなので、ちょっと変わった魚肴料理をということとなった。

 博多の警固の「高仙」という屋号の小さな居酒屋に連れて行かれて、まずはビールで乾杯し、気前のいい大将の思いのまま、気のままの手料理が出てきたのである。

 そんな友人との心地よい食事の合間に、ホワイトボードの「今日のメニュー」を見ていて、ひとつわからない品書きがあったので、「がんづけ」って何ですか?と尋ねた上でオーダーしたのである。

 出てきた代物は何とも塩辛い、カニの甲羅をつぶした味噌仕立ての食べ物で、酒の肴かご飯に乗せて食べる「イカの塩辛」の如き食品であった。

 全く私には初物の食品であり、決して博多だけではない食品だそうだが、小さなシオマネキというカニを甲羅ごとすりつぶして、カニ味噌で塩辛の様に混ぜたものなのであった。

 昔同じく九州だが佐賀に出向いた際に、ご当地の佐賀料理をご馳走になったことがあり、ムツゴロウ、ワラスボ、ワケ、ウミタケ等、有明海にしか生息しない生物が次から次へと料理されて出てきたことがあった。

 とっても珍味あり、口に含むと何とも言えぬ、初めての歯ごたえや臭さの食物にも出会ったし、有明海から運んでも数時間でだめになるというエツなる代物の肴もあった。

 一般的には東北での「ホヤ」や「くさや」などの臭さや、琵琶湖の「フナ寿司」なども全く強烈な麹の作用で創られた食品で、どうも食べられないと言う御仁も多いときく。

 私の住む京田辺には室町時代からの食文化と言われる「一休寺納豆」があって、大豆から作るのだが、いわゆる糸を引く納豆菌の「納豆」やお菓子の「甘納豆」とは似ても似つかない「納豆」であり、保存食として珍重された食品らしいが、現代では、一休寺や大徳寺とその周辺の家で、伝統の味として作られているに過ぎないの食品で、塩分の多い保存食なので、最近の減塩志向では食されることも少ない。

 私は「一休寺納豆」を手に入れて、かつて子供たちに一粒、二粒と食べさせてみて、「これ何だと思う?」と聞いてみたが、誰も食材が何か判らなかったので、
冗談で「ねずみのフンだ」と言ったら、悲鳴を上げて吐き出した子もいたことがあったことを思い出した。

 博多の食卓には「きびなご」が焼き魚として、また「黒豚」がとってもジューシーなカツとして出されて、久しぶりに地方色豊かな夕食にめぐり合って満足だった。
(なお、写真はその夜のメニューとは関係ありません)
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