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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

神秘の島「屋久島」

2010年09月26日 | ガリバー旅行記
 友人で旅行社をしているTさんからの通信が届いた。

 秋分の日が過ぎて、気候がガラッと変わって「秋の風情」となると、なにやら「旅に行きたい」という虫が動き出すのだが、彼の筆による「屋久島・縄文杉」を巡る旅を巡る感想やら、問題指摘などが書かれていて、しばし私も屋久島に旅した気分になった。

 三十代の頃、その当時に関わっていた「子どもたちの遊び場活動」で、夏休みに企画して実施していた「無人島冒険学校」と言う名の子どもたちとのキャンプ生活で、この屋久島の東に位置する「種子島」の西之表市の沖合い12キロにある「馬毛島」という無人島で約一週間を過ごしたことがあり、その準備のためも含めて、種子島には数度通ったというか旅したことがあるのだが、向かいに見える九州一の高い山「宮の浦岳」を眺めても、屋久島に行く機会はなかった。

 そこで、それ以来「屋久島」には一度は行ってみたいと今でも思っているところに、世界遺産という称号をいただいた「縄文杉」をはじめとする「屋久島の自然環境」が観光客のお目当てで、多くの旅人が「縄文杉」に会いに出かける様になっているのである。

 ともかく樹齢7200年と言われているので、ほんとうに屋久杉の親玉の様な「縄文杉」と呼ばれるこの杉は由緒あると言うべきか、神秘的な植物の代表の様な姿で、多くの観光客、登山客を見守っているのだろうと思うのである。

 この島には、私の学生時代の先輩が民宿をしているし、昨年まで私の八百屋さんのお客様だった一家が奥さんの病気治療と自然環境の良さを理由に移住されていることだし、また山尾三省さんが移住し生活している島としても有名なのである。

 現在は、大阪伊丹空港から直行便で屋久島空港までひとっとびで行けるようだが、自然豊かで、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほどの動植物の宝庫でもあり、亜熱帯から亜寒帯までの気候があるために、島の90%を占める神秘的な森では、九州から北海道に至る日本の全ての気候が体感でき、約1500種、日本の植物種の7割以上がひしめきあい、さらに固有種(世界で屋久島だけに自生する)が約40種、屋久島を南限とする植物が約140種もあるというのだ。

 そんな素晴らしい自然の宝庫が世界遺産と認定されてから、思い思いの観光登山客が大勢押しかけている様子であり、太古の森のままだった屋久島の森林地帯が荒らされたり、異常な人並みで変化していないかと心配になるほどである。

 しかし、私自身もそうなのだが、一度は行ってみたい島「屋久島」となっているために、益々ツアー客やトレッキング企画に人がわんさか集まって行くのが続いているらしく、自重した方がいいのかなとも思ってしまうのである。

 T氏は、まるで「伊勢詣で」の様で、神秘的な島「屋久島」の「縄文杉」詣でが続いていて、そのマナーや服装、心遣いが軽装過ぎるし、ガイドに頼り過ぎた登山ツアー客が遭難した、昨年の夏山登山で起きた「北海道・トムラウシ山遭難」を連想さす危惧を指摘している。

 九州一の高峰、宮之浦岳は1935mもあるし、1000mを超す山々が46座もある洋上のアルプスとも言われている「高山の島」であることも熟知した上での観光ツアーであってほしいと警告されている。
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子どもの村通信。

2010年06月09日 | ガリバー旅行記
 久しぶりに、北海道紋別郡滝上町滝西の森に住む「徳村彰さん」主宰の「森の子どもの村」発行の「子どもの村つうしん」が届いていた。

 題字代りに掲げた写真の、木、水、土の三文字で創作された「もり」という漢字が、この徳村彰さんの考える「もり」の字なのです。

 徳村彰さんと奥さんは、横浜で「子ども文庫」を主宰されていたのですが、約30年前に北海道のオホーツク海の見える紋別の町から国道273号線をバスで走って一時間余、また旭川からだとバスで2時間余かかる、滝上町に住居を構えて「もりの子ども村」を続けられているのである。

 「子どもの村」と称する活動や学校は日本のならず全世界に、多種多様な形であると思うのだが、私が知っているのは、タイのカンチャナブリにある「タイ子どもの村」と、和歌山県にある「きのくに子どもの村小学校」であるが、徳村さんが主宰する「こどもの村」の魅力は、なんと言っても徳村さん夫妻の存在と「もり」なのである。

 久しぶりに届いた「子どもの村つうしん」は、いつもの様に徳村さん自身の手書きによるシンプルな印刷物で32ページもあるのだが、その後半部分の多くは、子どもの村恒例の「夏のもりの子ども村」のあんないに関してのもので、ついでに「秋の集い」も書かれている。

 私は、1980年代に「子どもたちの遊び場活動」のリーダーとして10数年間従事していた某財団の職員だったので、その活動の関連もあって徳村さんならびに奥さんの活動と著書に興味を抱いて以来のお付き合いなのだが、そのきっかけは京都に移り住んでまもなくの頃に枚方で行われた徳村さんの講演会での出会いであった。

 それ以来、彼の自然との付き合い方、子どもたちの見方、その自由な発想と温かい眼差しや考えに共鳴する部分が多くあって、この「つうしん」を楽しみにしているファンのひとりとなったのである。

 今から十数年前に、突然当時のANAの一万円ポッキリチケットで、国内の何処へでも行けるとのことだったので、北海道の女満別空港への航空券を手にして、四月初旬に紋別から滝上の「こどもの村」に徳村さんご夫妻を訪ねたことがあった。

 その時は、おじじが採ってきた「行者にんにく」と偶然手に入ったという「鹿肉」のご馳走に預かって一泊したのだが、夜半に手作りの「五右衛門風呂」に入る際に足の指を切ってしまって、止血するやら痛むやらでとんだ負傷をした記憶が思いだされる。

 それから十数年経って、おじじも体調を壊したり、間違いない高齢に達しておられるのだが、未だに「もりの生活」を積極的にされていて、いのち、木々、草木、風、高木などに感謝しつつ「生きる」ことを続けておられる姿を思い浮かべて、「ねばならない」を捨てて生きると題された、今回の村のつうしんのメッセージを読んだのである。

 ブナの森を歩いて気づかれたという徳村おじじの言葉ですが、「イノチは本来自然で、楽に生きることを求めている」と書かれていました。

 私たちは、現代を生きるときに、あまりにも「ねばならない」という生き方を続けている様で、自然に生きることは、「ねばならない」を捨てて生きることだろうと言われているのです。
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「硫黄3島クルーズ」

2010年06月03日 | ガリバー旅行記
 世界自然遺産推薦地でもある小笠原諸島の南に位置する、太平洋戦争当時の激戦地「硫黄島」への船旅の案内が来た。

 今年の6月、7月の出発で東京竹芝桟橋から、定期船「おがさわら丸」が一般観光客を乗せて硫黄島海域へ行くのは、今年はこの機会だけらしく、「一名から参加できる、最低催行人員50名」の企画である。

 あの太平洋戦争の激戦地としても名高い「硫黄島」だが、「硫黄島への手紙」など映画や第二次世界大戦の歴史上で話は聞くが、実際の島は見たこともなければ、想像にも限りがあるが、自然の宝庫として現在は残っている島で、テレビや雑誌でしか見たことがない島である。

 太平洋上に浮かぶ小笠原の父島、母島が東京か約1000キロあるのだが、父島から更に200キロ以上南に位置する硫黄列島は火山列島とも呼ばれる火山で出来た群島であり、今回のクルーズでは、南硫黄島、硫黄島、北硫黄島の各島のまわりを船で周り上陸はできない様だが、自然豊かな群島の風景は素晴らしい景色だと思う。

 太平洋戦争では、わが国初の地上戦が行われた島であり、日米両軍あわせて2万人以上の尊い命が奪われた島であり、現在は海上自衛隊の基地が設置されているらしい。

 激戦の島「硫黄島」から南約50キロにある「南硫黄島」は、原生自然環境保全地域に指定されていて、現在は無人島だが戦前は住民が多数住んでいて小学校もあったそうです。

 また8世紀から15.6世紀頃の土器や石器が発掘されていて、明らかに本土の縄文、弥生時代ののものとは異なり、ミクロネシア文化圏の影響を受けて、中国大陸や朝鮮半島経由の文化とは異なるマリアナ諸島から日本列島に繋がる、海上文化伝播ルートがあったと思われる痕跡がある島です。

 南硫黄島には漂着者が発見されたという記録もありますが、人の生活の影響をほとんど受けておらず、本当の意味での手付かずの自然が残されている島です。

 1975年に鹿児島県の屋久島と共に「原生自然環境保全地域」に指定されて、特別な調査船を除いて、人の立ち入りが一切禁止されているそうです。

 今回のツアーは3コースあり、五泊六日のコースから、のんびりとクルーズを楽しむ11泊か12泊のコースもあり、いずれも小笠原の父島や母島でのフリータイムがあり、ドルフィンスイムや体験ダイビングなど海のアクティビティやハイキング、戦跡めぐりなど陸のアクティビィテイも楽しめるそうです。

 バードウォッチングを楽しむことも出来、アカオネッタイチョウやクロアジサシ、クロウミツバメなど、本土では見られない海鳥を見るチャンスもあって、愛鳥家にも好評で伊豆諸島近海では、より多くの海鳥と遭遇できるようにと通常ルートよりも島寄りのルートを航行するそうです。

 費用は6日間で103000円から406000円かかるので、私自身は残念ながら日程の都合も悪く行けません。

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第二京阪道から紀三井寺へ。

2010年03月22日 | ガリバー旅行記
 京都府南部の京田辺市に居住する私にとって、一昨日に全面開通した「第二京阪道路」は、いろんな意味で関心のある有料道路である。

 数年前に枚方東から久御山までの一部は開通していたのだが、大阪府下の交野市、寝屋川市、、四条畷市、門真市を通って、中央環状線の近畿自動車道に接続する肝心要の約16キロ強は多くの反対もあって完成に時間がかかったので、総工費も20数キロの三車線を中心とした大動脈となったとはいえ、1兆円を超す巨費が投じられた道路なのである。

 私自身は、既に京田辺松井から八幡東の上津屋までの第二京阪道路の側道部分を既に毎日の通勤で使っているのだが、先週末からは木津川にかかる第二京阪道路の側道部分の「新木津川大橋」が開通して、従来の有料部分の150円の通行料がかからなくなって便利に活用しているのである。

 この「第二京阪道路」の大阪門真東ジャンクションまでの開通で、国道一号線の渋滞緩和が図れるとのもっぱらの予測なのだが、一昨日の開通以来、物見遊山の自家用車などが連休ということもあって側道には集中し、相当な渋滞が起きていた。

 今朝は、枚方東から第二京阪道路に入り、門真東を経由し近畿自動車道、阪和自動車道を南下して、なんと約一時間で和歌山市へと車を走らせたのである。

 特に目的地はなかったのだが、「桜前線」は、日本列島の場合は南からという常識的イメージもあったので、とりあえずは「第二京阪道路」を使って和歌山県へという感じて100キロ近くを走って、紀ノ川サービスエリアで休憩して、観光情報などを精査した結果、「早咲きの桜」があるとのことで、和歌山市の「紀三井寺」を目指すこととなった。

 さすが、新聞の「桜便り」などでいつも和歌山県の「桜の開花」の基準木が境内に植わっている「紀三井寺」だけあって、いたるところに「ソメイヨシノ」を主とした桜の木が植わっていて、三分から二分咲きといった感じのサクラが多かったが、十分「早咲きのサクラ」を満喫することができた。

 せっかくの和歌山県だったので、お昼ご飯も海の幸を戴こうということになって、「海鮮問屋」と称する大きな生簀で鯛や近海魚を見せながら料理している大型店に入って、「初カツオ」のたたきや「海鮮釜飯」、「ホタテの釜飯」、「海鮮寿司の海苔巻き」などを食した。

 天気も良く順調に高速道路をひた走って着いた「和歌山県」であったが、帰路は同じ道を帰るのは面白くないと思って、和歌山県橋本を経由して奈良に抜けて京都へと国道を中心に走ったのだが、さすが連休、祝日の午後は車が混んでいて、帰りは約三時間もかかってしまった。

 生活道路としての機能はそれほどではないだろうが、仕事や運搬に今後、この「第二京阪道路」がどれほど機能して、1兆円強の設備投資が意味あるものとなるのかどうか、立派過ぎる片側三車線で高い防音壁のある高規格道路の行く末を見守りたいと思う心境である。
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『センバツ』開幕!

2010年03月20日 | ガリバー旅行記
 今日の京都はすっかり春を感じさせてくれる温かさで、いよいよ明日から高校球児の憧れの地、新装なった阪神甲子園球場で、「第82回選抜高校野球大会が開幕する。

 野球ファンのみならず、「球春」を告げるプロ野球は今日パリーグが開幕し、明日のセンバツのスタートで本格的な「野球シーズン」に突入といった感である。

 我が阪神タイガースは、大阪ドームでセリーグ開幕戦は「横浜ベースターズ」を相手に来週の金曜日から開幕である。

 話は戻って、明日から開幕のセンバツ高校野球だが、京都は「立命館宇治高校」が出場し、沖縄県からは大会史上初の二校、興南高校と嘉手納高校が出場し、全32校が12日間の日程で日本一を競うわけだが、史上5回目の夏春連続制覇を目指す、中京大中京(愛知)や甲子園通算勝利歴代トップの59勝を狙う智弁和歌山の高嶋仁監督、21世紀枠の18人しか部員のいない徳島川島高校など、話題が尽きない。

 実は、このセンバツのシーズンになると、いつも思い出して友人、知人に語ってしまう「私のセンバツ経験」がある。

 今から45年前の「第37回センバツ」に私も参加し甲子園球場の土を踏み、入場行進ではマウンドも踏んだのである。

 小学生の頃からの野球少年ではあったが、我が高校は野球部員がたった8人で、試合の時には柔道部やホッケー部から選手としての応援が必要な弱体チームだったので、決して野球では出られない高校だったので、私はボーイスカウトの入場行進のプラカード持ちで出場したのであった。徳島海南高校のエースは、後にプロゴルフで脚光を浴びるジャンボ尾崎こと、尾崎将司であった。

 1965年3月27日の開会式に、私は前年度優勝校の「徳島海南高校」、後にプロゴルフで名を馳せるジャンボ尾崎こと、尾崎将司がエースであった高校の名板を持って入場したものだから、当時のスポーツニュースでは、どのチャンネルにも自分の姿が映像として流れたので、帰宅後の夕刻からのニュースを片っ端から観ては、ハーフサイズのカメラでテレビの画像を撮影した記憶が鮮明であった。

 実は、その自分の映像の記憶よりも鮮明な記憶として、とんでもない事故を見てしまっていたのであった。

 前日の甲子園球場での開会式の予行演習の際に、主催の毎日新聞のカメラマンがヘリコプターで取材に来ていて、我々の予行行進などを甲子園球場上空から何度も旋回しながら撮影していたのだが、何回目かの撮影直後に舞い上がった際に、カメラ部員のカメラの紐がヘリのドアの取っ手に引っかかって、何と扉が開いて、写真部員が墜落し、その反動でヘリも阪神国道線の上に墜落し炎上してしまったのであった。

 私たち高校生らも含め多くの大会関係者が目撃してしまった「松田写真部員」の殉職事故は、翌日の「センバツ」を告げる朝刊に「最後の写真」として掲載されたのであった。

 この1965年、第37回センバツは、後に大洋ホエールズのエースとして活躍する岡山東商の平松政次と同じく阪神タイガースの名ショートで後に監督もした藤田平を中心とする和歌山市立商が決勝戦で延長の末、平松の岡山東商が優勝したのであった。
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時には母のない子のように。

2010年03月08日 | ガリバー旅行記
 昨日の夜、久しぶりにライブコンサートで、あの「カルメン・マキ」を聴く機会があった。

 数日前にジャズライブなどを自分の店で時々やっている友人から電話があって、日曜日の夜に「カルメン・マキ」をやるから来てくれないかとのことだった。

 「へぇー!、あのカルメン・マキ」なら一度聴きに行こうと思って、一ヶ月に一度の大阪にいる年老いた母の顔を見に行った帰路にちょっと不便な田舎町の友人の経営するライブ喫茶へと小雨の中向かった。

 大阪から約一時間で最寄の駅には着いたのだが、バスの時間では間に合わないので、タクシーでライブ会場の「ナーダム」に開演前になんとかたどり着いた。

 「カルメン・マキ 歌手生活41年目のうた・歌・唄」と題したライブ演奏で、ヴァイオリンの太田恵資とギターの桜井芳樹がバックミュージシャンとして来演する演奏会であった。

 あの伝説とでも言うべき「時には母のない子のように」で、1969年に17歳で鮮烈なデビューを飾った彼女だが、父がアイルランドとユダヤの血を引くアメリカ人で母が日本人と言う混血児で、エキゾチックな顔立ちの美人であったと記憶しているのだが、果たして今晩現れる彼女の風貌は如何にといった感じで登場を待った。

 七時半前に二人のバックミュージシャンの前演奏の中、登場したカルメン・マキさんは若き頃よりも失礼ながらどっしりとした感じの熟女といった感じの風貌であったが、歌声は若き頃と変わらぬ美声と歌いこんだ熟練のボーカルといった感じに変貌した部分も感じられた。

 昨年暮れに突然の訃報が届いた、先輩歌手の「浅川マキ」さんに触発された面もあったというカルメン・マキさんは、あの浅川マキさんの名曲「かもめ」も歌って、彼女の追悼的気持ちも込めて歌っていたが、浅川マキも好きだった私にとっては、とってもラッキーかつ思い出深い曲に何十年ぶりに出会えた感じで嬉しかった。

 カルメン・マキさんは1968年にあの寺山修司さん主催の「演劇実験室・天井桟敷」の『青髭』公演にいたく感銘し即入団し、その年の8月に新宿厚生年金会館での「書を捨てよ、町へ出よう」で初舞台を踏んで、芸能界に足を踏み入れたという経歴の持ち主である。

 その翌年に、CBSソニーから前述の「時には母のない子のように」で歌手デビューし、1972年には、「カルメン・マキ&OZ」を結成し、1977年までに4枚のアルバムと3枚のシングルをリリースして解散している。

 その後は、ロックやフォークにとらわれず、ジャンルを超えたフィールドで活躍するミュージシャンたちとコラボしつつ、ソロの音楽活動を続けていて、今回のヴァイオリンの太田恵資らの協力を得て、2009年に歌手生活40周年記念アルバム「ペルソナ」をリリースしている。

 何処となく「寂しさと憂い」を含んだ独特の語りとバラードっぽい歌声に魅せられた約2時間のライブは、私自身の70年代の東京での音楽事務所での仕事や時代を髣髴させてくれて、とっても懐かしく思い出す機会となった。
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「山谷のキリスト者」

2010年02月21日 | ガリバー旅行記
 先日、私の古い友人の一人であるT氏から一冊の小さな自費出版本が届いた。

 その書名は「山谷のキリスト者」-1960年代の隅田川伝道所-

著者であるT氏の喜寿の祝いを兼ねた自費出版ということで「謹呈」としたちいさな紙が入っていた。

 皆さんは、東京の「山谷」をご存知であろうか。

 大阪では「釜ヶ崎」と同様の底辺労働者の町であり、安い宿泊施設である「ドヤ」と称する小さなベッドや部屋がたくさんあるビルがひしめく独特の雰囲気のある町である。

 そこに1960年代後半に出来た、日本キリスト教団「隅田川伝道所」と称するちいさなキリスト教の教会の出張所のような場所があり、当時著者のT氏はそこの「書記」をしていたのであった。

 私は写真に掲載した「山谷ブルース」というフォークソングの神様と一時期呼ばれた岡林信康のデビュー曲の背景にある、この「東京・山谷」に、彼より少し遅く1967年の2月から3月まで約一ヶ月半滞在したことから、彼と出会って以来の仲だから、かれこれ40数年が経過しているのである。

 当時、同志社大学の神学部の学生だった岡林信康が、近江八幡の父が牧師を勤めていた教会での「被差別出身の女の子」に対する差別事件の矛盾と問題提起から、混沌とした精神状態で訊ねたのが、東京の日雇い労働者の街、「山谷の近くにあった中森幾之進牧師の教会」であった。

 その夏の「山谷体験」を秋口に、京都御所の芝生の上で聞いた私は、初めて日本の資本主義社会の底辺で、過酷な労働を日雇いという形態で働きながら、日々ドヤで暮らし、酒やギャンブル、女に明け暮れている労働者がいることを明確に知ったのであった。

 まじめな学生生活を目指していた私自身も、強く岡林からの情報とメッセージに触発されて、翌年の後期試験が終わった、その夜の夜行列車で東京・山谷へと出向いて行ったのであった。

 それから毎日、毎日、山谷は「泪橋」という都電の電停前で、早朝からの「立ちん坊」を繰り返して、日々の労働を得て、その日暮らしの体験を続けたのであった。

 何処からか流れついた様な「ホームレス的労働者」の群れが山谷には集まっていて、多種多様な人間の坩堝であったのだが、非常に人間的な優しさも持ち合わせた「素敵な一面」も兼ね備えた社会的弱者の町でもあったと思い出すことが出来る。

 その地に流れ着いたひとりの青年が「隅田川伝道所」書記としてガリ版刷りで発行した「山谷のキリスト者」というミニコミ紙に私たちの同窓生でもあった平賀君が投稿した詞が「山谷ブルース」として、岡林信康のデビュー曲となったのであった。

 その当時の青春真っ只中での、苦い思い出、楽しい体験を思い出させてくれる数々のエピソードは、この本の著者であるT氏なくしてはあり得なかったと思うものが多い。

 彼は、今後も命のある限り、山谷、岡林、高石ともや、キューバ、革命、震災などをテーマに書き続けるだろうと推測している。

 Tさんのご健康を祈る者である。
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「冒険遊び場」

2010年02月14日 | ガリバー旅行記
 今日は亀岡に準備中の冒険遊び場に若いリーダーのこうしろう君を訪ねた。

 昨年の秋に仕事で亀岡市内を外歩きしていた時に偶然前を通りかかった自然な農園だったのだが、よく見てると小さな看板にチラシが貼ってあって、何やら子どもたちの若いお母さんたちの遊びと学びの集いの様だったので、遠慮なく入って行って主催者を訪ねたことがあった。

 私自身が三十代から四十代にかけて、京都南部の幼稚園と併設されたプレイスクールと称された「子どもたちの遊び場」活動のリーダーを十数年していたこともあったので、何やら「面白そう!」と鼻が利いたというべきか好奇心が沸いたのことが出会いのきっかけとなった。

 隅田農園の若い奥さんが応対して下さって、今春から若い青年がリーダーとなって「冒険遊び場」を開園するという話を聞いたので、機会を作って是非若い青年に会いに行こうと思っていた。

 昨年暮れから連絡をいただいていたのだが、なかなか日曜日の時間が取れず、ようやく今日の午前中に亀岡の現場にお邪魔することが出来た。

 日曜日の十時前に車が通る街道筋のような道から少し入った畑とちょっとした林とも言うべき空間に「ぼうけんあそびば・そとベンチャー」という小さな看板が立っていて、周辺の畑に囲まれたスペースに、木を組み立てた手作りの遊び場と机や小屋があった。

 私が車を入れて停車してすぐに小学三年生の女の子が手に手作りのチョコを持って現れて、この看板の前で友達と会う約束をしているというのであった。

 いわゆる「友チョコ」と思われるバレンタインデイのチョコを女友達に手渡すために、今朝いくつかのチョコを作ったらしく、少ししてやって来た同級生の男の子には手渡すそぶりもなく、一緒に遊んでいた。

 しばらくすると小学生の男の子と幼稚園児を二人自転車に乗せた若いお母さんがやってきて、初めて出会うお目当ての若いリーダーも姿を見せた。

 とっても自然な中で子どもたちとの会話が始まり、こうしろうリーダーは大工道具や必要な備品を乗せた一輪車を押してやってきて、常連さんと思われる子どもたちの輪の中に溶け込むように入って行き、その日の活動がいつの間にか始まっていた。

 私も全て初対面の子どもたちだったが、昔とった杵柄とでも言うべきか、あつかましくおっさんリーダーの如く子どもたちと交わりながら遊んだのである。

 若い「こうしろう君」ではあったが、なかなかのセンスとかっこよさで、子どもたちの人気者となっていて、「かぶとハウス」と称する「かぶと虫の幼虫」のいる場所の看板作りや大工こ゜っこ、焚き火、走り回る鬼ごっこと多彩な遊びに自然に興じていた。

 あっと言う間の二時間余が経って、近くの農協が正午に鳴らすサイレンの音で十二時になったことに気づかされ、各々子どもたちも片付けを手伝って、短い半日の冒険遊び場の活動は終わった。

 全国各地に少しつづできつつある「冒険遊び場」ではあるが、人手や資金繰りなどの課題が厳しいが、子どもたちにとっては自由な発想で遊べる素敵な場が、またひとつ亀岡に誕生することは大変喜ばしい。
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「URCレコード」

2010年01月28日 | ガリバー旅行記
 昨日、私が最初に就職した?昔の職場である「URCレコード」の先輩から、一枚の葉書が届いていた。

 1970年代当初に、大阪の北区兎我野町という雑踏の中にあつた小さな「アングラレコードクラブ」と言う、自主制作を基点としたマイナーレコードを製作、販売する会社だったのだが、かつては「フォークの神様」とまで呼ばれた、岡林信康をはじめ、五つの赤い風船、加川良、高田渡、遠藤賢司、はっぴいえんど等のデビューレコードを発売した、今や歴史的になった会社であり、高石友也などを有した高石音楽事務所が発展したプロダクション「音楽舎」と同じ秦政明氏が社長の会社であった。

 そこに当時務めていた数人の仲間のひとりが昨年亡くなったことで、前述した先輩が、これを契機に「同窓会」を開いてみようと呼びかける葉書だったのである。

 何とほぼ40年の歳月が流れていて、あの頃の仲間、同僚の消息も分からない人もいるのだが、とりあえず連絡がつく人同士が都合をあわせて、故人となった仲間の奥さん、彼女もそのレコード会社の職員であったので、私もよく知っているので集まれる者同士で連絡を取り合って、是非会いたいものだ。

 年に一度の年賀状しかやり取りのなかった先輩が音頭を取ってくれたことをきっかけに、ほぼ40年近い「ご無沙汰の同窓会」が実現しそうである。

 「URCレコード」という小さな会社で仕事をしたのは、私の青春時代と重なっていて、大阪での仕事は、当時のフォークグループ「五つの赤い風船」のバンドボーイ兼運転手的仕事から、当時のアングラレコード的LPやシングル盤を車に積み込んでの「レコード店」回りなど、電話での受注から包装、発送、宣伝、営業と何でもやっていた。

 現代の音楽業界の実態は、既にCDやDVDからネット配信や携帯やI PADなどの通信機器やダウンロードで「音楽」を聴く、買う時代となっているので、全くアナログ全盛だった、あの時代の「レコード商売」とはまったく違った感覚で「音楽が製作」されていたり、発表されたりしているので、今や昔の感が強いし、現代の若者たちには想像できない世界になりつつあると言っても過言ではないだろう。

 そんな時代の若き仲間が何人集まれるかは知らないが、お互いの人生の半世紀近い道程を語りながら、ひと時を過ごせるとすれば、一人の職場の同僚だった仲間の死が取り持ってくれた「贈り物」という感じになるであろう。

 岡林信康の「友よ」や五つの赤い風船の「血まみれの鳩」、加川良の「教訓Ⅰ」など、懐かしい曲や歌声を思い出しながら、若きよき時代の「青春」を再び語ったりしながら、お互いの健康を感謝し笑える時にしたいものである。

 ほんとうに良き時代だつたとしか言いようのない「若き時代」を振り返りながら、お互いの歩みを称えあいたいものである。

 当時の社長や実質的な統括責任の弟さんは、既に他界されていると聞いたのだが、「URCレコード」は、永遠成りである。
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「トイレの神様」

2010年01月20日 | ガリバー旅行記
 今日は午前にお約束したお客さんの家が京都市役所のすぐ近くのマンションだったので、ゆったりとした気分で伺って、子犬のかわいらしさも手伝って気持ちよく仕事を済ませた。

 午後からのいつもの北区方面へと車を走らせながら、1人だったので久しぶりに車のラジオをオンにして、いつも聞いている京都のアルファステーションではない大阪のFM局にチューナーを合わせた。

 すると、「トイレの神様」っていう面白いタイトルの曲を弾き語りで歌う、「植村花菜」というシンガーの歌声と歌詞に魅せられてしまいました。

 「トイレの神様」って曲は10分近くある曲で、彼女自身の生い立ちから今に至るルーツを語る様な歌詞の部分もあって、「小学三年生からおばぁちゃんと暮らしていた」という歌い出しで始まるストーリーソングだったのである。

 「トイレの神様」というタイトルは、女の子が「トイレ掃除」をし続けると「べっぴんさんになれる」という昔から言い伝えとも言うべき、関西独特の「迷信?」を語るおばぁちゃんの言葉を信じて、毎日、毎日、トイレをピカピカに磨いていた彼女自身の生活が綴られていたのである。

 澄んだ美しい声で語るように歌う「自叙伝」的、「私小説的」歌詞は、延々と続き、年頃になって、おばぁちぉゃんとぶつかることも多くなって、家族ともうまくやれなくなって、居場所がなくなり、家を遠ざける様になって、五目並べをしたり鴨なんばを一緒に食べた「おばぁちゃん」と離れ、一人きりになった。

 それから彼女は上京し二年の歳月が経ち、おばぁちゃんが入院したことを知り、痩せて細くなったおばぁちゃんに会いに行ったそうな。

 「おばぁちゃん、ただいまー!」って、わざと昔みたいに言ってみたけど、ちょっと話しただけで「もうお帰りー。」って、病室を出された。

 次の日の朝、おばぁちゃんは静かに眠りについた。

 まるで、私が来るのを待っていたかのように逝ってしまったおばぁちゃんだが、「トイレにはキレイな女神さんがいるんやで」と言っていたおばぁちゃんの言葉は、今日の私をべっぴんさんにしてくれるかな。

 おばぁちゃん ありがとう。おばぁちゃん ホンマにありがとう。

 このように綴られた「トイレの神様」っていう曲を書いて歌う「植村花菜」というシンガーは、兵庫県川西市生まれの27歳。

 8歳の時に「サウンド・オブ・ミュージック」を観て、その世界観に感動し、主演のジュリー・アンドリュースに憧れ、幼い頃から「音楽には人と人を繋ぐ力がある」、どんな辛い時でも歌を歌えば元気がでると、歌手になることを決意したという。

 一時は吉本新喜劇が大好きで、歌手か吉本に入るか悩んだらしいが、ある時友達がストリートで歌っているのを見て、私もあんな風に外で自由に歌いたいと思い、いきなり曲づくりとギターを始め、オリジナル曲を作って歌い出だしたそうだ。

 「お笑いと音楽」をこよなく愛する「植村花菜」さんの歌声を聞いて嬉しかった。
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