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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

古賀氏の退職。

2011年09月27日 | テレビマスコミ
 通産省時代から経済産業省に31年間勤務し上級官僚だった、古賀茂明氏(57歳)が遂に昨日9月26日に役所からの再三再四の退職勧告を受け入れて退職を余儀なくされ、たった5分足らずの手続きで毎日の様に勤務していた建物を去ったのである。

 民主党政権への政権交代が実現した頃から、民主党の主張する政治主導で従来の官僚主導からの脱皮を図って、公務員制度改革や上級官僚たちの政府支援の外郭団体などへの、いわゆる「天下り禁止」などの改革を進めるにあたって、役人である省庁の人間が改革の意思を持たないと出来ないとの大きな壁があったのだが、古賀氏はそうした壁を取っ払うべき手法と熱意を持った官僚のひとりとして、「行政改革」と「公務員制度改革」に率先して働く改革の人であったらしい。

 しかし、民主党政権が誕生した2009年秋のすぐ後に、なんと財務省官僚などの強い意向が働いたとされている抵抗があって、当時の仙石官房長官などが彼の経済産業省での仕事ぶりと国会での対応や発言などに反旗を翻して、彼を無任所の経済産業省官房付きという窓際族に左遷してしまったことに事は始まっているのである。

 彼が一体何をしたのか?は、多様な憶測や報道がなされているのだが、結局ははっきりとした根拠はわからないままに、省庁の主な官僚たちの圧力や批判、人事に対する提言などから、民主党政権のリーダーシップを握る閣僚たちから、彼は外した方が良いとの対応が生まれて、現内閣に引き継がれたようで、野田新首相も枝野経済産業大臣もほとんど罷免に近い、彼の退職を容認したという過程が見受けられるのであった。

 昨日から今日にかけて、各テレビ局は一斉に国家公務員でなくなった当の古賀茂明氏をゲストに招いたり、電話インタビューしたりと大忙しなのだが、まだ何故彼が役所を去らなければならなかったかの明確な因果関係と実際の問題点は説明されているとは言いがたいのである。

 つまり、政治家主導、官僚の言いなりにはならないと言って誕生した民主党の政権運営にとって、古賀氏のような公務員制度改革を実践しようとする実力者が邪魔になったという、皮肉な結末と言っても過言ではないような顛末がそこには潜んでいるようで、表向きは「改革」を主張し、マニフェストにも明記していた公務員制度改革をはじめとした一連の旧態依然とした、自民党政権時代からの障壁とでも言うべき壁を壊すどころか、守ることが自分たちにとっても利があるとの見方、身の処し方に終始しているといった実態が見え隠れしている。

 こうした改革や変化に抵抗する力とは一体何なんだろうか。

 日本社会だけでなく、人間社会においては必ず「変えなければ」と思っている人たちと、「今のままでいいのでは」と思っている人たちがいるものだが、実はその変化や改革をなそうとする時に、その抵抗をするのは必ず「今のままでいいのでは」と思っている人たち、すなわち「改革される」ことによって自分たちの身分の保障や仕事が見えなくなるという不安や恐れを抱く人たちがいるのである。

 
 政治家だけではないが、改革には犠牲や血を流さなければならないとまでは言ってはいるが、実際のところは多くの犠牲者や課題を新たに背負ったり、責任を追求される立場は出来るだけ回避して、平穏無事に過ごしたいという「普通の感覚」が優先されるらしく、政治家とて人間であるゆえに、知らず知らずの内にそういった自己防衛のわ方が勝っていて、少数派の行動や言動を抹殺してでも、多数派の意向を重視してしまうといった蛮行に出てしまうものなのだろう。

 今回の古賀氏の更迭に近い事件は、まさに「改革」という名を掲げながら「改革しない」という民主党政権そのものの実態を浮き彫りにしたと言ってもいい事象であり、野田新内閣のスタートに少なくとも改革、前進を期待している国民の多くの失望感が聞こえてきそうな事件となったと言えよう。

 経済産業省を退職した古賀茂明氏に対して、テレビマスコミを中心として、「今後の活躍に期待する」といったメッセージが多く語られてはいるが、本来ならば公務員制度や公務員給与および退職金、天下りなどの改革を自らが実態をよく知るものとして改革にメスを入れていくという立場での官僚であっていただきたかったはずなのに、近い将来は次官候補とまで言われていた古賀氏を政府は切ったことで、外国メディアや首脳からも「日本は改革の意思がない」とまで言われているのである。

 さて、私たちの日常生活においても、よく似た事象がいっぱい存在しているのではないだろうか。

 必ずしも少数派が正しいとは言わないけれど、表向きは民主主義の日本社会だが、多くの場合は「今のままでいいのでは」と言った意見や何も考えない、何も新たな挑戦やリスクは負いたくない人々の多数派のために、多くの場合は「改革」や「変える」ことすら難しいといったケースや場面が多いと思われるのである。

 ましてや、改革に熱心な人や言動を切るといった手段で、その場を取り繕ったとしても、いずれその実態はよけいに悪くなって、もっと大きな犠牲や血を流さなければならないといった大苦境がやってくることは間違いないのではないだろうか。

 一番難しいと思うのは、組織の存続を優先して、一人の職員や官僚の意見や身分は簡単に切ってしまうことができるといった、目に見得ない風潮、習慣、伝統などと言われる慣例ではないだろうか。

 冷静沈着に考えて、「この国を少しでも良くする」という目標に向かって行動する人、考える人たちが増えなければ「この国は変わらない」という絶望がそこにはあるようである。

 
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秋分の日

2011年09月23日 | テレビマスコミ
 台風15号が西日本から東日本を縦断する形で通り過ぎて、台風一過の秋晴れがやってきて、今日「秋分の日」は、とても気持ちのいい秋風が吹く秋らしい天気になった。

 気温も二十度前後という、つい先日までには考えられない様な過ごしやすい気候となって、「暑さ、寒さも彼岸まで」と昔から言われている如く、ちょうどお彼岸の中日にあたる秋分の日が、こんなにも清清しい日となるのは見事である。

 早朝の八百屋の仕入れのために車を走らせて京都市内へと行ったのだが、祝日とあっていつもの金曜日の朝と比べれば通勤や荷物を運ぶ車や単車の数も半数以下といった感じで、すいすいと仕入先へとスムースに行けたので、早く自宅へと帰ってきた。

 そこで、いつもは早朝に夏の間ずっと「朝シャワー」をしていたのだが、今日は久しぶりに「風呂に入ろう」という気になって、約四ヶ月ぶりに湯船にお湯を入れて、浴槽に全身を浸して、ゆっくりと入浴を楽しむこととした。

 居間のテレビでは、NHKの「なんなのうた」の50周年を記念しての特別番組を放映していて、郷ひろみ、平原綾香、アンジェラ・アキ、BEGINらが、歴代みんなのうたの中のリクエストが多かったと思われる人気の曲、誰もが一度は聞いたり口づさんだりした経験のあるような曲を歌ったりしていた。

 今朝の朝刊を読んでいた時に、妻が昨日昼過ぎに近くのJRの駅で飛び込みがあり、救急車が走っていたことを言っていたのだが、新聞によるとなんと19歳の専門学校生の女性が重体であるとの記事が載っていて、自宅からは遺書らしきメモが見つかったらしく、若い女性が自殺を図ったとらしいとのことで、なんともやりきれないという思いと共に、みんなのうた特集でやっていた、アンジェラ・アキさんの「手紙~拝啓十五の君へ~」の歌詞が強く心に響いた。

 風呂の浴槽に半分体を沈めながら、自分の十九歳、二十歳の頃を思い出して見ると、大学に入学してすぐの五月の連休頃には、あの「五月病」とまで言われる気分だったのかも知れないが、大学生活には慣れだしたものの、なにやら自信もなく、あてもないない旅へ出たくなって、京都駅から夜行列車で金沢へと足を向けていたことや、一年生の後期試験を終えた夜には、東京行きの夜行列車で何故か「山谷」を目指してちいさな冒険と社会体験の旅に出ていたことを思い出したのであった。

 自殺を試みた19歳の女性はどんな心境だったのだろうか。

 アンジェラ・アキさんの「手紙~十五の君へ」の歌詞には、十五の僕には誰にも話せない悩みの種があるのですとあり、未来の自分に宛てて書く手紙なら、きっと素直に打ち明けられるだろうとして、「今負けそうで、泣きそうで、消えてしまいそうな僕」が、誰の言葉を信じ歩けばいいの?
と自問自答し、ひとつしかないこの胸が何度もばらばらに割れて、苦しい中で今を生きているとありました。

 その自分の未来へ宛てた手紙に対する返信として、拝啓ありがとう、十五のあなたに伝えたいことがあるのですとして、自分とは何で、どこへ向かうべきか問い続ければ見えてくる、荒れた青春の海は厳しいけど、明日の岸辺へと夢の婦ね進め、「今負けないで、泣かないで、消えてしまいそうな時は、自分の声を信じて歩けばいいの。」、大人の僕も傷ついて眠れない夜はあるけど、苦しくて甘い今を生きていると続いています。

 人生の全てに意味があるから、恐れずにあなたの夢を育てて、KEEP ON BELIEVIG。 最後に、この手紙を読んでいるあなたが、幸せなことを願っています。と歌は終わっていますが、彼女も聞いたことがあるはずです。

 しかし、この気持ちのいい秋分の日の朝に、どこの誰だがは知りませんが、近くの若い女性が人生の初期段階で、何に悩んで何の夢を持っていたのかは知る由もありませんが、若いこれからの命を自らないがしろにする自殺を試みたという事実に新聞紙上を通じて接した私の心は、やるせなさと共に「もう一度このうたを聞いてほしかった」と祈るしか出来ません。

 いつの時代にも、青春時代だけでなく、人生に躓いたり死にたいと思った時期は誰にもあると思われますが、「生きてて良かった!」と感じる人生の喜びは、小さな出会い、日常生活の中にもたくさんあるのです。

 ぜひ、大きな夢や期待に添って歩むことだけではなく、自分らしくささやかでも日々の暮らしや仕事、勉学、人付き合い、自然とのふれあいなどの中に、ほんとうに生きている実感を感じる喜びを体験できる時が必ずあります。

 今朝の久しぶりの秋を感じた入浴で、青春時代と生と死を感じたことは、また私の喜びでありました。
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小松左京氏

2011年07月30日 | テレビマスコミ
 大阪が生んだいちびりなSF作家「小松左京氏」が7月26日に満80歳で亡くなった。

 現在の日本人の平均寿命は、女性は世界一で86.39歳だが、男性は79.64歳で世界で4番目の長寿ということだが、ちょうど現在の平均需要で彼は亡くなったことになるのだが、直接は存じ上げないのだが大変なヘビースモーカーだったらしく、タバコの害がなければもっと長生きされたかも知れないと思ったほどであった。

 少年時代は病弱で、スポーツには興味がなく、歌と映画と読書に明け暮れていたという彼だが、東京で歌舞伎を見たり、大阪では文楽に連れて行ってもらったり、古典芸能についての知識も身につけ、小学5年生の1941年、昭和16年には当時のNHK大阪放送局の子供向けニュース番組「子ども放送局」のキャスターに起用されたりした。

 1943年に第一神戸中学に入学し、小松氏は関西でいう「イチビリ」な性格で、笑い芸やユーモア歌謡が大好きだったために、友人たちからは「ウカレ」というあだ名をつけられ、戦中は教師からも睨まれることが多かった。

 一方、体が丈夫でなかったにも拘わらず、柔道部に入り、戦後はラグビー部に転部したらしく、終戦時には14歳となっていたため、「このまま戦争が続いて、自分も死ぬのだろう」と考えていたのだが、幸いにも徴兵されたり戦地に赴くこともなく終戦を迎え生き残ったという思いで、沖縄戦などでは同年齢の中学生の少年たちが銃を持たされて多数死んでいるのを知り、「生き残ったものの責任」を考え、文学をそして将来SFを書くという契機となった。

 戦後は、兄に教わったバイオリンの腕で、同級生の高島忠夫とバンドを組んだり、当時に読んだダンテの「神曲」の科学的な知見も組み込んだ壮大なストーリーに衝撃を受けて、後にSF小説を書く基盤となり、大学ではイタリア文学を専攻したらしい。

 1948年に中学を卒業し、第三高等学校、現在の京都大学に入学し、あこがれの「旧制高校」時代が「人生で一番楽しかった年」だと後に供述しているのだが、学制変更で京都大学文学部イタリア文学科に進学し、同人誌「京大作家集団」の活動に参加し、高橋和己などと交流し、当時デビューしたばっかりの「安部公房」の作品に熱中した。

 そのころ、日本共産党に入党し政治活動もしたらしいが、これは原爆を落としたアメリカに対する反感からね「反戦平和」を唱える「共産党」に共感したらしいが、三高時代の友人が勝手に小松の印鑑を偽造し入党届を出したらしく、本人は共産主義思想に信奉してのものではなかったので、そのため後にソ連の原爆開発にショックを受けて、共産党を離党している。

 この時期から、「小松みのる」「モリミノル」「もりみのる」名義で「おてんばデコちゃん」「イワンの馬鹿」「大地底海」などの漫画作品を雑誌「漫画王」に発表したりして、既にデビューしていた手塚治虫の影響が窺えるが、当時の小松の漫画を愛読していた松本零士とも後に親交ができ、「銀河鉄道999」の文庫版の解説を小松が記しているのである。

 大学卒業後は、マスコミ各社の就職試験を全て不合格となり、経済誌「アトム」の記者や父親の工場の手伝い、ラジオのニュース漫才の台本執筆などの職を経験し、産経新聞に入社していた友人の紹介で、産経新聞にミステリーなどのレビューも執筆した。

 アマチュア劇団の戯曲、演出、出演も担当していて、オーディションに来た女性に一目ぼれして交際し、1958年に結婚したが、生活は苦しく妻の唯一の楽しみであったラジオを修理に出してしまって、当時大阪に出現していた「アパッチ族」をモデルにした空想小説を書いて、妻の娯楽に当てたのが、後の長編デビュー作「日本アパッチ族」の原型となったという。

 1963年「日本SF作家クラブ」の創設に参加し、1964年にはラジオ大阪の「題名のない番組」や近畿放送の「ゴールデンリクエスト」などで桂米朝らと知的で快活なトークを交わし、常連のリスナーからの投稿のアイデアを得て、「蜘蛛の糸」「海底油田」「四次元ラッキョウ」などの多くの作品を掌編している。

 1965年には「べ平連」創立の呼びかけ人となり、小田実、開高健らと共に「ベトナム戦争反対論」を唱え、当時東京12チャンネルにいた「ばばこういち氏」が主宰した「ベトナム戦争についてのティーチイン」を行った際に、小松ら反戦論者があまりにも多くなり放送されなくなり、これがきっかけでばば氏は退社するという事態になったという。

 1968年の「日本未来学会」の創設に参加し、1970年には「国際SFシンポジウム」を主宰し、米、英、ソ等のSF作家を日本に招いたり、大阪万博ではサブテーマ委員を務め、チーフプロデューサー岡本太郎氏の太陽の塔の内部展示を彼と共に考え、DNAの巨大模型を作り、生物の進化を表現し、石毛直道らが収集した世界中の神像や仮面を展示し、後の国立民俗学博物館の元となったのである。

 その後の「日本沈没」をはじめとする「小松左京」のSF作家としての功績は言うまでもないが、大阪人としての「いちびり」根性と笑いのエッセンスが彼の幼少期から大学時代までに形成されていることを思うと、大成された中年から晩年よりも大作家となってしまうプロセスの方がとっても面白いと思ったのである。

当然、この記述はウエブの小松左京氏の紹介記事からの詳細を転記したものだが、要は小松左京という人物像を改めて確認したかったまでである。
 

 
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「地デジ化」完了!?

2011年07月24日 | テレビマスコミ
 2009年から騒ぎ出して、やんやで「2011年7月24日まで」と半ば脅迫気味にテレビ、マスコミ媒体を中心にテレビ視聴者に対して、「地デジ化」を強いてきた「日本の地上波のデジタル化」が、本日正午に完全実施されたという。

 東北の被災地である岩手、宮城、福島の三県を除く全国44都道府県では、今日の正午以降は、テレビのデジタル対応機種か付属機器、つまり外部チューナー設置がされてなければ、今までのアナログ波でのテレビ受像は出来なくなった模様である。

 そもそも、「テレビ地上波のデジタル化」なんてことは、何のために必要かつ強制されなければならなかったのかの説明や納得の行く解説はほとんどされないままに、「地デジ」への移行キャンペーンがNHKをはじめ民放各局でも一年以上なされ続けて、もううんざりと言った感じであった。

 1953年に放送が開始された日本のテレビ放送だが、アナログ方式なんてことに気づくまでもなく、当たり前にブラウン管テレビが普及し、その後液晶などの技術革新で、カーナビなどの車中も含め薄型テレビや携帯によるワンセグ受像が可能になり、テレビは大衆的娯楽ツールから多角的情報ツールへと変化して来たのだが、従来のVHF12チャンネルとUHF13-62CHの電波帯を使用し
てきたものを、「電波の有効利用」という主目的でUHFチャンネルのを利用するデジタル方式に置き換えるものと説明されてはいるが、どうも一般的には巨大資本と営業力の主要放送局と国、郵政省が結託した、新儲け戦術なのではないだろうか。

 ともかく、テレビはブラウン管時代はたぶん10年ぐらいで新商品への買い替えが必要なくらいの寿命だったと思うが、最近の液晶テレビや薄型新製品は、果たしてどれほど機器としては持続し使用続けられるのかは定かではないが、ともかく以前よりは耐久年数も増加し、しかも現代はテレビ受像だけが情報ツールの時代は終わって、PCや携帯、しかもiフォンやスマートフォンの時代に突入し、新聞やテレビ媒体の価値や存在感が薄くなりつつある現状からして、弱電メーカーなどのテレビの売り上げは下降の一途だったのではないだろうか。

 そこへ、政府、郵政省ならびに大手キー局のテレビ資本などの大企業が結託しての「地デジ化」という、新しいツールの様に見せかけた「新戦略」が打ち出されたと言っても過言ではないだろうと思うのだが、如何なものだろうか。

 1996年に郵政省は、世界のテレビのデジタル化に遅れないようにと、日本国内でのテレビのデジタル技術の開発とデータ
送信技術の高度化を鑑み、アナログ放送を念頭に開発されていた放送衛星の仕様の変更を検討し、衛星放送のデジタル化と共に地上波のデジタル化を検討し、2003年12月1日より「地上デジタル放送」を開始したのであった。

 このデジタル化による、視聴者ユーザーのメリットとしては、双方向交信、つまり放送されている番組などへの視聴者のアンケートやクイズ参加などが可能になる他、受像中の番組以外のデータや情報受信も可能にはなるのだが、あくまでインターネットとは違って、テレビ局が発信している情報に限っていて、さほど必要なのかどうか疑問を感じる面も多い。

 今回の地上波のデジタル化への全面移行によって、できる空き電波帯は、地上デジタルラジオや高度道路交通システム、携帯電話、業務用通信、公共機関向け通信などに活用される予定だといわれているが、果たして国策としての「デジタル化」によって、もたらされるメリットは庶民にとっては少ないのではないだろうか。

 結局、エコポイントなどという「おまけ付き」で、新しい地上波対応の大型テレビを買わされたり、付随してDVDデッキやレーザーディスク対応型の付属録画機器などまで買わされた消費者が多くいて、大手家電メーカーをはじめ量販店なども昨年暮れと今回の地上波のアナログテレビが映らなくなるという本日7月24日までの「駆け込み需要」で大賑わいで稼いだことだろう。

 今後、東北3県だけでなく、ケーブルテレビを通じての少しは猶予期間を設定している地域もあるらしいが、この際「テレビとおさらば」という家庭も出ていて、思い切った決断とも言うべき「テレビのない」暮らしを決断した人も少なくないのではないだろうか。

 この様に、全てとは言いがたいが「建前としての理屈や理由」はあるものの、政府や財界の「口車に乗せられて」の「買い替え」や「新製品の購買」は、今後もありうるだろと思うのだが、一番検討されているのが「再びエコポイント」の実施での「省エネ家電」の販売合戦である。

 よほど、日本経済の中にあって「家電メーカー」の存在は、大きな政府への働きかけが上手なのか知れないが、この秋あたりから、今回の福島原発事故を契機にした「節電ムード」を煽っての、新たな新戦略「省エネ家電」の販売合戦が始まろうとしていることをみても明らかなのである。

 「省エネ」は、いいことだが、必要もない機器や家電を買う必要はないのであることを「肝に銘じて消費を控える」方が得策なのではないだろうか。

 
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「上を向いて歩こう!」

2011年07月20日 | テレビマスコミ
 1985年8月12日、私は当時の仕事であった「子供たちの遊び場活動」の年に一度の夏合宿のような形で、中国地方の温泉町の宿舎にいた。

 夕食を楽しく仲間たちと囲んだ後、温泉にもつかって寛いでいる時間帯に、宿舎のテレビが「日航機が富士山付近で消息不明!」を伝えだしていたのであった。

 当日羽田空港を5時台に離陸した日本航空123便大阪伊丹空港行きのボーイング747ジャンボジェット機が群馬県上野村の鴻巣山付近に墜落し、四百数十名を超える世界的にも最多数の犠牲者を出す航空機事故となって、多くの搭乗者が遺体となって後日に発見されたのだけれど、自衛隊のヘリによって、記憶によれば四人の生存者が病院に搬送されたことも明確に覚えている。

 その大事故の犠牲者の中に、当時の日本の歌謡界にあって人気、実力とも誰もが認めるエンターテイナーでもある「坂本九」がいたことは、犠牲者の人々の命に変わりはないのだけれど、特に著家名であったために多くの国民の記憶に残るところとなったと思うのである。

 その「坂本九」が不慮の事故で亡くなって以来、既に27年が経ち、本人が健在だったとしたら既に70歳になろうとしている現代なのだが、彼が歌った唄の中で「上を向いて歩こう」が、今回の東北地方を襲った大震災、大津波、原発事故の被災地及び被災者にとって、大きな励ましの唄として再び注目を集めているというのである。

 「坂本九」という歌手は、私たちの世代にとっては忘れがたき存在ではあるが、現代の若者たちにとってはどのように感じられる存在なのだろうかと思うのだが、やはり当時「坂本九」が歌う、中村八大作曲、永六輔作詞による「上を向いて歩こう」に代表される「六八九コンビ」の歌の数々は、1960年代の世相を物語るが如き「元気、高度成長、豊かさ」を象徴する力となっていた様に感じている。

 川崎市の荷役請負業「丸木組」の社長・坂本寛と妻いく(旧姓大島)の第9子として生まれ、「九」と名づけられたらしいが、本名は、後に母が離婚して旧姓の大島に戻ったことから、「大島九」、「おおしまひさし」と言ったらしいが、ニキビ面の底抜けに明るいお兄ちゃんと言った感じの気取らない普段着のままの性格と感じられる個性が、俳優、歌手、司会者、タレントとして人気を集めた所以だと思うのである。

 高校生時代にエルビス・プレスリーに憧れるようになった彼は、プレスリーの物まねで仲間内の人気者となり、1958年5月に当時の「ザ・ドリフターズ」に加入しギターを担当したが、半年後に脱退し、今度は「ダニー飯田とパラダイス・キング」の一員となってビクターと契約し、1959年6月に「題名のない唄だけど」でデビューしたがヒットしなかったという。

 その後平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎などが出演した日劇ウエスタンカーニバルなどでバックでギターを弾いたりした後、東芝に移籍して1960年8月に発売された「悲しき六十才」が10万枚の初ヒット曲となり、1961年に「中村八大・永六輔」コンビの作曲、作詞による歌い手として抜擢されて、「上を向いて歩こう」を歌い、国内でも爆発的なヒットとなったのだが、1963年に同曲が「SUKIYAKI」というタイトルで全米でヒットし、ビルボードで3週連続一位を獲得し、東洋人としてはじめての100万枚突破のゴールドディスクをも受賞した。

 「上を向いて歩こう」の海外でのヒットによって、世界的に名を知られるようになった「坂本九」は、1964年の東京オリンピックのウエルカムパーティー
にゲスト出演したり、1970年の大阪万博の若手芸能人としての万国博委員にも起用され、読売テレビりの「クイズEXPO’70」の司会にも起用されたのであった。

 その後の活躍、活動は数えられぬほど多種多様だったが、1985年の8月12日夕刻は、東京のNHK-FMの仕事を終えて、大阪府のある友人の選挙応援のため事務所開きに駆けつけるために、国内移動は日本航空ではなく、全日空を利用することになっていたのに、お盆のために先方がチケットを確保できずに、仕方なく確保された日本航空123便に搭乗し、事故に遭遇したという不運であったという。

 先日、NHKテレビが「上を向いて歩こう」を特集し、「六、八、九」の出会いと素晴らしい唄、楽曲の背景にある人間ドキュメントを放映していたのだが、ほんとうに「上を向いて歩こう」の歌詞が、悲しみを堪えながら、明日に向かって一歩、一歩、歩き出そうとする者たちにとっての、強い励ましとモチベーションを高める歌として、現代にも生きていることを痛感するものである。


 
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昔に父は日本人を殺した!

2011年06月19日 | テレビマスコミ
 今晩、サッカーのオリンピック予選の第一段階のクエート戦の中継が終わって、九時からNHKスペシャルが上記のタイトルでのアメリカのピューリツァー賞受賞作家であり、太平洋戦争末期の沖縄戦で戦った当時の米軍海兵隊の兵士だった父を持つ、デール・マルハッジ氏によるドキュメンタリーレポートを見たのである。

 彼の父であるスティーブ・マルハッジ氏は1925年生まれで、19歳の時に第二次世界大戦末期の沖縄の地上戦に第6海兵師団の「L中隊」と呼ばれる総勢240人の部隊の一員として、1945年4月1日に沖縄本島の読谷村の海岸に上陸し、その後6月24日に実質的に沖縄戦が終結するまで戦ったのだが、生き残ったたった31人の兵士のひとりとして戦後帰国したらしいのだが、2000年にすい臓がんでこの世を去った人らしいのである。

 その息子であり、ジャーナリストとしても活躍し著書も出版しているデール氏が父の死の寸前に枕元で語った「私は昔、沖縄戦で日本人を殺した」という言葉の真相を確かめようと調べだし、彼が亡くなる前に残した戦争の遺品のいくつかの中にある「日本軍手引書」なるものの表紙裏に「与那城実正」という氏名を確認し、それも手がかりに2011年、今年の4月1日に沖縄にやってきて取材をしているのであった。

 父が生前、「沖縄戦で日本人を殺した!」ことを悩み苦しんでいたことを母親からも聞いていたので、その原因のひとつが日本兵ではなく、少年のような罪もない民間人を出会いがしらに射殺してしまったことを、生涯ずっと悩んでいたらしく、戦後自宅に帰ってからも自宅の地下室の仕事場で、時々機械に向かって「ママはいないんだ、黙れ!」とか叫んでいたらしく、精神をも病むくらい正常ではなかったらしいのである。

 沖縄に現在もある「県立工業高校」の生徒だったらしい前述の「与那城実正」という人は、確かに昭和14年に卒業した生徒として実在していたのだが、当時物資が極端に不足していたので、その「日本軍手引書」も数が少なく、先輩から後輩へと譲り渡して使用していたらしく、この遺品としてアメリカに父が持ち帰った品は、必ずしも名前の本人が持参していたものではないらしいことが判明した。

 というのは、与那城実正という人物は戦争中の死亡、すなわち戦死ではなく、戦後に一般的な死亡という形で記録されていたそうなので、たぶん父が遭遇した少年兵らしき少年が譲り受けて持っていたものらしいことが分かったのであった。

 つまり、デール氏の取材、調査によると沖縄戦が実質的に終結した1945年6月23日の後に、まだ投降していない人たちを探す任務をしていた父スティーブさんが突然出くわした少年と目と目が合って、恐怖からか彼は少年を撃ってしまったらしいということが分かったのであった。

 その当時の戦争は、「やられる前にやる(殺す)」というのが当たり前の自分を守る最大の術であり、全てに関して兵士はそういった訓練と鍛錬をしていたので、実質的には終焉していたとは言え、まだ戦争自体は終わっていない非常時にあって、彼が民間人であったとしても撃ってしまったこと自体は避けにくい状況だったと推測されるのである。

 しかし、戦後66年も経った現代でさえ、生き残りの沖縄戦経験者の沖縄に住む老人たちは、米軍が何故に罪もない民間人の多くをも殺戮したのかを恨み、信じがたいと証言していて、手榴弾や火炎放射で集団で逃げ惑っている沖縄の人たちがガマや隠れ家から逃げ出したところで両親や兄妹を殺された証言者の怒りはいまだ収まらないのは当然である。

 現在、アメリカで生存している、この沖縄戦で戦った生き残りの84歳以上のお年寄りの証言者の多くが、こうした沖縄戦での民間人の殺戮に関しては悔やんでいたり、悩んでいたりしているというインタビューもあり、デール氏自身は前述の一家を殺戮された沖縄の宮平さんという証言者に「アメリカの正義とは何か?」と問われて、答える言葉すら出なかったというのであった。

 私も二十数年前と十年ほど前に、沖縄戦の戦場でもあった読谷村の「チビチリ蝦蟇」に行って、現地の人の案内で自然の洞窟の中にも足を踏み入れたことがあったが、狭くて暗い自然の洞窟の中で人々がひしめき合って米軍や日本軍から逃れて、食べる物も着る物もろくにない中で、助け合い息を抑えて時の過ぎるのを待っていた光景や惨状を想像するだけで、息が詰まりそうな苦しさを覚えたことを記憶している。

 戦後、66年が経ったとは言え、6月23日に太平洋戦争末期の最大の日本内地の地上戦であった「沖縄戦」が約3ヶ月足らずの激戦の末、日本は敗戦、全面降伏への道を下らざるを得ない致命的な敗残を喫したのだが、沖縄戦での約20万人の犠牲者のうち半数は民間人であることを忘れてはならないし、また1ヶ月余後の廣島、長崎に投下された「原子力爆弾」による犠牲者はさらに多く、ほとんどが民間の生活者であったことを思うと、戦争という異常事態とはいえ、恐怖の中でイノチを落として行った亡き人たちの無念を改めて思わざるを得ないのであった。

 最後に、この戦後66年間日本は国内では戦争を一度もせず、いや朝鮮戦争では朝鮮半島で戦っているが、アメリカはずっと戦争を世界の何処かでし続けているという言葉が、重たく聞こえたし、現実として改めて捕らえなければならないと感じたのであった。

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気になるニュース

2011年06月09日 | テレビマスコミ
 三月に起きた東日本大震災と大津波に加えて、福島第一原子力発電所の放射能漏れ事故の余波は、いたるところに広がっていて、収束のメドすら立っていない現状だが、あさって発生から三ヶ月を迎えるのである。

 その間、菅民主党内閣の対応ぶりがどうだったかは言わずもがなであり、その責任追及をすることより、すべきことが山積みされていると思うのだが、この期に及んで菅首相は「被災地の瓦礫の撤去」は私の責任だと話したとか、全く焦点がぼけたまま、大連立だの次期首班候補だのと新聞、テレビのメディアは忙しく伝えている。

 そんな「震災関連」や「国会事情」とは違ったところで、相変わらず「気になるニュース」なるものがあるのだが、皆さんはどの様に感じておられるだろうか。

 私はまず「皇室の被災地訪問」について、誰が仕掛けるのか定かではないが、天皇、皇后両陛下をはじめ、皇太子殿下夫妻、秋篠宮夫妻など、公務と称して関東圏にはじまり東北三県の福島、宮城、岩手と、この三ヶ月間に何度となく行かされて、被災地の避難所などを回られて「慰問」されたとのことである。

 この「慰問」という形の皇室の方々を被災地に派遣するというスタイルは、たぶん政府が宮内庁に要請して実現させているのだろうけれども、特にご高齢の天皇、皇后ご夫妻や長期にわたって心身ともにお具合が悪かったと伝えられていた皇太子妃の雅子さんにとって、公務としての出張はどうだったのだろうか。

 こうした国難とも言える災害による被災地に、皇室が出向かれるというスタイルは、たぶん阪神淡路大震災の際も行われていたとは思うが、いくら東京から被災地が比較的近いからと言っても、毎週の如くで向かれていた様で、政府の対応や対策が遅れる中で、皇室が利用されていると感じたのだが、如何お思いだろうか。

 そんな「震災関連」のニュースの一つに、宮城県石巻市の大川小学校で児童の震災後の大津波に対する避難が遅れて、なんと108名の児童のうち68名が死亡し、6人が行方不明となったという事実が判明し、避難に手間取った原因としての状況説明が二度にわたって保護者に対して行われたらしいが、何故に避難開始まで40分もかかったのかが不明で、慎重すぎる対応が多くの犠牲者を生んだとの痛ましい結果は、ただ残念では片付けられない話であった。

 また、福島原発事故の放射能漏れ関連では、多くの風評被害が後を絶たない現状の中で、福島県いわき市の男性が避難先の東京都内で献血をしようとしたところ、原発事故による放射線被曝の可能性が高いとの理由で、献血を断られたというのであった。

 男性の妻から、「医師に放射線で遺伝子が傷ついているかもしれない」と言われたらしく、日赤側は、「説明の中で誤解を招く言葉があり、男性に不快な思いをさせ申し訳なかった」と謝罪したらしいのだが、本人が被曝しているかもしれないと申告したため、本人の健康のために献血を控える方が好ましいと判断し、献血を断ったのだという。

 日赤は、今年四月に累積被曝量が100ミリシーベルトを超えた原発作業員については、半年間献血を制限する方針を通知していたらしいが、非難している一般の福島県の人たちには、この通知は適用されないので、同県では被災後も通常通りの献血が行われているという。

 いずれにしても、何の医学的、科学的根拠としての被曝量や数値も説明せずに、献血拒否という結果だけが一人歩きするとすると「風評差別」と同様になりかねないと思われるので、慎重かつ明確な根拠や被曝量の測定を義務付けるなどの明確な指針が必要なのではないだろうか。

 全く震災や原発とは関係はないが、昨日のニュースでは、高知県の主婦が台所で寝ていた夫にガソリンをかけて火をつけ殺害したという痛ましいDV、家庭内暴力の挙句の悲惨な犯罪が報じられているのだが、再三再四ご近所や警察にも訴えがあったらしいのだが、極端な凶行に及ぶ前に防止することが出来なかったのかと憂いを感じたりした。

 昨今起きている乳幼児の虐待死や餓死、そしてストーカーやDVなど、プライバシーに関わるとはいえ、もっと積極的な防止策、保護策を近隣の自治体と地域でやらないと、命を救うことができないのではと苦慮する事件が多発し続けている。
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「究極の選択」

2011年05月30日 | テレビマスコミ
 先日NHKテレビ深夜のEチャンネルで放映されたという、震災後の日本人の被災地の地域の人たちの冷静かつ助け合う姿勢に対して、全世界からの賞賛の声に呼応して、ハーバード大学教授で政治哲学者の「マイケル・サンデル氏」が進行役を務めて特別講義する形での討論番組「究極の選択」の録画を借りて観た。

 確かに東北関東大震災の被災地での日本人被災者の行動や冷静沈着な考え方などは、全世界中から賞賛されたというニュースは聞いていたが、日本人にとっては「当然のこと」、「特に特別なことではない」と思える相互扶助的、または自己犠牲的にうつる行為や言動が多くの国際的評価となっていたらしいのである。

 マイケル・サンデル教授は、『これからの「正義」の話をしよう』という~今生き延びるたるめの哲学~という40万部以上売れたというベストセラー本の著者ではあるが、彼は日本人にとっての「公共の意味」から問いただすというやり方で、中国上海の復旦大学生、アメリカボストンのハーバード大学生、それに日本の東京大学などの学生を主体に、スタジオには日本人ゲストとして、女優、作家、実業家、音楽家を招いての討論番組を展開していた。

 その「究極の選択」と名づけられた討論のテーマは、「震災後の日本人の対応」を話の切り口として、「公共の意味」、「個人主義VS共同体意識」、「原発問題」、「支援の輪は拡がるか」などを的確にリードし、学生たちの意識や意見の違いを明確に打ち出して、ゲストの意見も聞き、最後には全世界的視野から、人種、民族、国家、地域を越えて「グローバルコミュニティ」としての価値観や共感を得られる人間性について言及するといったものであった。

 顕著な意見としては、日本人が世界に示したとされる「震災での冷静、平穏な対応」については、「当たり前のこと」であり、「シャイな国民性」、「間違ったことはしない」という儒教や精神風土から来る伝統的な意識が背景で、他の国々のような他民族国家ではない、単一民族で農耕社会から来る「相互扶助」精神だと感じられた。

 「個人主義VS共同体意識」では、まず「家族」を大切にし、次に地域、同郷、同窓などと地縁、血縁を中心に「助け合う」のが当然と言った意識が強く、「国家のため」とか「地域のため」が先決だという意識ではないが、結局外国人から見れば、「自己犠牲」や「連帯意識」「公共意識」が絶大だと思えたのだろう。

 「原発の対応」では、放射能汚染の多大なリスクがある「原発事故の処理」は、危険が伴う業務なのだが、果たして高額な報酬で自発的労務を提供させるのか、それとも自衛官や東電社員、消防隊員などの職務の義務として行わせるべきなのかという議論があったが、私も高報酬でリスクを伴う仕事を請け負わせるという形は、貧困や弱い立場の人たちを労働者として利用するという差別となりがちなので、「お金で雇う」というインセンティブは良くないと感じたのであった。

 「原発の将来」については、賛否両論あったのだが、ある東大の女子学生が「NIMB」(ニンブ)
を語ったのには驚いたのだが、「Not In My Backyard」の略で、私の庭ではイヤ!という自己主義的発想の「原発立地」の不当性について述べていたのが印象的であった。

 つまり「都会の利用者と田舎の原発立地」という関係性の中での差別感やリスクを迷惑料や地域振興支援という形で買う、「アメとムチ」の構造で成り立っているという現実がおかしいのであるという指摘だと思われた。

 今回の大震災と大津波、また原発事故に際しての、全世界からの救援隊の派遣や義捐金、援助の申し出は驚くほどあって、国や地域を越えた、グローバルな共感を得られる価値観に繋がるかとの問いに対しては、決して政治家や国家レベルでの対立関係を和らげるものではなく、自然災害に対する人道的支援であって、国際的市民としての「共感」にはなりえないのではないだろうかというのであった。

 最後に中世の哲学者「ルソー」が言ったと言われる「国を越えたグローバルな共感はない」という言葉を乗り越えて、情報が寸時に共有できる時代の現代になったので、ぜひ国際的なコミュニケーションの輪が拡がり、自然と人類の共存のための共有できる思想と行動理論を確立できる時としようと結びに語られていたのだと思う。

 見終わった感想としては、人道的支援の精神が全世界に拡がって、平和と安心な人類の生活を助け合い精神を大切に生き抜こうというメッセージとして哲学的というよりも、次代を担う日、中、米の優秀な学生たちが考え話し合った意義が非常に深いと感銘をうけたのであった。
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チャレンジはいくつになっても出来る!

2011年05月22日 | テレビマスコミ
 二三日前の夜、偶然に観たテレビだったが、作家の村上龍氏が司会する「カンブリア宮殿」というテレビ東京系列の番組に釘付けとなった。

 1939年に今回の大震災、大津波の被災地でもある宮城県南三陸町生まれの72歳の佐藤芳之氏が紹介されていたのであるが、小学生のときに野球のボールが左目に当たって失明し、いまだに左目が見えないというハンディを持ちつつ、東京外大を卒業後アフリカのガーナに留学し、その後ケニアの日系会社に就職後、1974年に「ケニアナッツ」というマカダミアナッツを中心に紅茶、コーヒーにワインなどの製造、販売をする会社を設立し、いまやケニアで10万人もの雇用を実現しているという大企業の社長となっている人である。

 しかし、日本ではあまり知られていないが、その取引先は「ゴディバ」や「ネスレ」などの世界的企業、工場で働くスタッフや原材料のナッツを作る農民なども含めてケニアの人口4000万人の40人にひとりは、「ケニアナッツ」のおかげで生活が支えられているという計り知れない事業を展開している創始者なのである。

 「貧しい大陸」として、全世界の援助を受け続けていたアフリカ大陸で、多くの植民地として先進国に支配されていたアフリカの国々が自国の資源や生産で、自立する国づくりへと転換すべき時期に、佐藤氏が設立した「ケニアナッツ」は、アフリカ人の自立のためのビジネスにこだわって、東奔西走した人物らしいのである。

 今から50年ほど前に単身でアフリカに渡って、一代で年商30億円、ケニア最大の食品加工メーカーを育て上げ、人生の終盤を迎えようとしている現在は、自分が操業した一大企業である「ケニア・ナッツ・カンパニー」を現地の人たちに無償で譲って、日本から1万2千キロも離れた「アフリカ大陸」を舞台に、新たなチャレンジとして、発展途上のアフリカの国々の人々の生活の衛生面での画期的な薬剤の開発、散布に尽力を尽くしているというのであった。

 ケニア人による経済的自立の一助としての企業は、タダ同然で現地人に譲っても彼がし続けたいのは、アフリカ人の貧困や生活面での衛生的向上などの手助けになればと、68歳にして再び一からアフリカ大陸のルアンダに渡ったチャレンジが始まっているのである。

 「ルアンダ」といえば、1994年に民族の大量虐殺が起きて100万人もの人が殺されたという悲しい国なのだが、彼はこの地を選んで始めたのが、バクテリアを利用した公衆衛生事業だったのである。

 ルアンダは貧困のため、トイレが臭くて不衛生で、ハエを媒体にコレラや赤痢などの病気の病原菌が蔓延していたので、この衛生状態を飛躍的に改善し、トイレをきれいに出来れば病気も減って、人々の働く意欲も生まれるだろうと、始めたのが今回の事業だそうである。

 京都府立大学大学院の石井農学博士の協力を得て、アフリカの現地の材料で安く作れる「消臭浄化剤」を現地で生産し、ルアンダ政府を巻き込んでの一大公衆衛生事業を展開しているのである。

 そんな彼がルアンダに滞在中にテレビで祖国、故郷の東北地方で起きた今回の「東日本大震災」を観て、アフリカの大地で始めた公衆衛生事業だが、今回の惨状の中の仮設トイレや避難所の公衆トイレに、この技術を活かせると、故郷への貢献が出来ると日本への帰国を決意し、壊滅的な打撃を受けた故郷「南三陸町」に帰ってくるのであった。

 「人生の可能性は無限大だ!」と、語る佐藤氏の生き方に共感する若者が後を絶たない中で、彼の母校である東京外大の学生たちが、ケニアやルアンダでの佐藤のビジネスや現場に飛び込んで行く決意をし、彼は快く彼らの受け入れを即断したのであった。

 「チャレンジするのに年齢は関係ない」、「その気になれば何でも出来る」と言う佐藤芳之氏の生き方は、経営者としてだけでなく人間としての可能性、やる気があれば、いくらでも情報、出会い、チャンスがある中での「チャレンジ」、「挑戦!」を促していると思うのである。

 BETTER TOMMOROW!  「より良い明日へ!」、人生にもっと楽しさを、素晴らしきかな人生、若者たちよ続け!とエールが聞こえてくる。


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金八先生ファイナル。

2011年05月12日 | テレビマスコミ
 たぶん三月の放映だったと思うのだが、あの武田鉄矢が演ずる「金八先生・ファイナル」の4時間スペシャルの録画を観た。

 妻が新しい地デジ対応のテレビを購入してから、テレビの録画が簡単にできる様になったというわけで、すぐにちょっと観たいなと思った番組は「録画しておく」という習慣となっているようで、少しのんびり出来る時間が出来たので観ることとなった。

 武田鉄矢といえば、私たちと同年輩の団塊の世代の男で、フォークグループ「海援隊」のボーカルとして活躍し、「母に捧げるバラード」の独特の博多弁の母が「こら、てつや!」と叱りつける言葉で一世を風靡した歌だが、その後武田は「贈る言葉」などのヒットもある。

 しかし、東京で70年代初期に私も同じフォークミュージックやニューミュージックと呼ばれた頃に小さな事務所で音楽の仕事をしていた私は、彼の売れない不遇の時代を知っているので、武田鉄矢の活躍は嬉しい限りである。

 日本映画の巨匠となってしまった山田洋二監督に見初められた「幸せの黄色いハンカチ」での若々しい青年の演技から始まった彼の俳優としての活躍も、この「金八先生」という当たり役で不動のものとなったと言えよう。

 高倉健、倍賞千恵子という大御所の主演映画で、武田は桃井かおりと共に自動車で北海道をドライブするアベックの役だったのだが、なんとも髪の毛の長い汚らしい青年の初々しい役柄を演じて好評を博し、彼の俳優人生の幕がスタートしたと言っても過言ではない。

 武田鉄矢は福岡教育大学の出身だから、元々は「教師志望」だったのだと思うが、60年代後半のフォークを中心とする、自らが作詞、作曲して歌うという、当時の若者たちの憧れのシンガーソングライターに、福岡のライブハウスを皮切りにのめりこんで行ったのであった。

 私は当時東京で音楽出版の仕事に関わって、「ゼロ音楽出版」という小さな音楽事務所を設立していたので、武田鉄矢率いる「海援隊」とも何度か仕事を共にしたことがある。

 ほんとうに髪の毛は長いが足の短さは天下一品で、なんとも胴長短足の日本人の典型的な青年の姿で、決してかっこよくはないのだが、本人は女の子にモテタイ一心で、歌の世界に飛び込んだというのであった。

 「金八先生・ファイナル」は、1979年に始まった「3年B組!」シリーズの最終回で、金八先生の定年、卒業を描いているのだが、32年間に制作されたシリーズ作品に出た主な出演者の懐かしい姿が随所に観られたが、ストーリーは3年B組で問題児だった少年が金八先生の努力と愛情で、最後は都立高校への入学も決めるというパターンのお話で、最後は歴代の教え子たちが「金八先生の卒業式」を企画し、武田鉄矢の金八先生が最後の説教?をして終幕するというのであった。

 テレビドラマとは言え、長年続いた人気の「3年B組・金八先生!」をじっくりまともに観たことがなかったので、さすが現代の学校教育のたくさんの問題提起に対して、一定の理想の形、もしくは出来ればそうあってほしいと願うシチュエーションが描かれているという意味では、大変よく出来たドラマだったと改めて感心させられた。

 実際の現代に至る学校教育では、なかなか存在しえなかった「ひとつの理想の先生像」を実際の教師にはなれなかった武田鉄矢が演じたことに拍手を送り、同じ団塊の世代の男の生き様、生き方、考えにも少なからず共感を覚えたのであった。

 
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