goo blog サービス終了のお知らせ 

ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「しあわせのパン」

2012年07月14日 | テレビマスコミ
 先日の私の誕生日に娘がプレゼントしてくれた中に、「しあわせのパン」という大泉洋と原田知世が主演した映画で、とってものどかでスローテンポな北海道の湖の畔にある一戸建てのパンカフェに纏わるストーリーのDVDがあり、以前に私が見たいと言っていたらしく、娘が覚えていてくれたのだったが、数日経って漸く見ることができた。

 ともかく素敵なカップルとして、あの北海道出身の俳優でちょっと無邪気でお茶目なところのある大泉洋と、とても清楚で顔の小さな美しい女優さんであり、若い頃と違ってあまり映画出演も最近ないなぁと思っていた、原田知世さんという、なんとなく素敵なカップルが主人公で、私の大好きな北海道が舞台ということもあって、今日八百屋の昼休みに前半を見て、今晩阪神タイガースが鳥谷ののサヨナラ二塁打でヤクルトに勝利を収めたのを見届けてから後半を見たのだが、とても満足いく素敵な空気感のある映画で、すっかり気に入ってしまった。

 何とも静かで自然な雰囲気が映画全体に流れているのだが、私が気に入った理由がいくつかあると言えば、ともかく手で丁寧に形成し焼いた美味しいパンが、何人ものお客さんに元気を与えたり、勇気、愛、生きる力を授けているのだろうと推察できるストーリーそのものの背景と言うか、狙い目的構想がいいということに尽きるのだが、私自身にとってはそれ以外に気に入ったわけがあるのであった。

 その第一は、私も自然食八百屋とでもいうべき小さな八百屋さんを18年近く、自営とはいえほぼ全国にはないと思える、週末だけの移動販売と言う形でやり続けているのだが、その営業用でもあり自家用でもある私の愛車がスバル・サンバー・ディアスのクラシックで車体の色も映画に登場したのと同じグリーンということであり、北海道の雪景色の中を大泉洋が運転して走っていたから、たぶん4WD仕様車だと感じたので、そっくり私の車と同じだったからである。

 そして、その2は、いろんなパンが焼かれていたのだけれど、後半に登場した「カンパーニュ」というヨーロッパタイプの本格的なパンが、なぜ「カンパーニュ」という名で呼ばれているのかという質問があって、その答えが「仲間」であり、仲間と一緒に食すると、とても幸せに感じられるという、この映画のテーマに通じる大切な重要なパンであったことで、私も毎週このカンパーニュが大好きなお客さんに、ベッカライ・ヨナタンのカンパーニュを届けているという偶然が重なっていたからでもあった。

 その3は、実は原田知世さんという女優さんの映画はほとんど観たことがなかったのだが、テレビコマーシャルでは、ブレンディというメイカーのインスタントコーヒーの宣伝をづっと続けていて、その清楚でかわいい笑顔がとても気に入っていたので、今回の映画が公開された時に、近くの映画館で観ることができれば見たいなぁと思っていたのだが、なぜか上映館が少なく見る機会がなかったために、たぶんある時に娘の前で、この「しあわせのパン」を見たいと言っていたのだろう。

 映画に登場する失恋の女の子、ちょっと不登校気味の離婚した母を思う小学女子児童、そして長患い中の奥さんを労わりつつ、旅の途中に立ち寄った老齢の夫婦、いつも何故か店に座っている、あがた森魚演ずる不思議なおじさん、そして原田知世が演じる奥さんが大好きな郵便配達の青年と、バイクに乗ってやってくる失恋した彼女をゲットした青年、近くに住む移動販売の八百屋を営む子沢山の夫婦など、誰もがのんびりとユニークな生き方をしつつ、立ち寄る場所としている「カフェ・マー二」であり、何とも心癒される場所としての、「マー二」は、奥さんのお気に入りの絵本「月とマー二」からの屋号であり、とても落ち着いた感じのいい店となっていた。

 素敵なパンと自然と仲間に囲まれて、大泉洋が演じる彼は、一番ほしいものとしての彼女をゲットし、赤ちゃんに恵まれるところでお話は終るのであった。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「逃亡者」

2012年06月08日 | テレビマスコミ
 今月3日夜に突如元オーム真理教信者で、地下鉄サリン事件の実行犯とされる女性が逮捕されたことがきっかけで、テレビマスコミを中心に大騒ぎになり、もう一人の逃亡犯とされる高橋克也容疑者の人相や防犯カメラの映像などが急遽公開されて、関東圏を中心に逃亡犯人探しで連日報道され続けている。

 私たちの世代では、逃亡者というテレビ番組がとても懐かしく思い出されるのだが、アメリカのテレビドラマとして、まだ白黒だったと思うのだが、リチャード・キンブルという名の医者が妻殺しの容疑者として全国手配されたらしく、無実を訴えつつ逃走を続ける夫である医師と真犯人らしい、片手が金属の男とのすれ違いや犯人を追う刑事との遭遇など、常にドラマとはいえ、緊張しつつ無実の主人公を応援する気持ちで、テレビを楽しんでいたのであった。

 今回の元オーム信者の男女二人の容疑者の逃亡生活は意外にも関東圏の相模原市や川崎市といった人口密集地での隠遁生活とでも言うべきか、都会の匿名的隣人関係の傾向も手伝っての、隠れ家が発見されずに、本人も手配写真からは想像も出来ない人相という感じの印象で、いずれも福祉施設や建設会社で長年仕事もしていたらしいのであった。

 詳細はまだ分からない部分が多いとはいえ、昨年暮れに出頭し逮捕された同じく元オーム信者の平田信容疑者もそうだったかも知れないのだが、現在は元オーム真理教の麻原を信じていないと言ってはいるものの、事件を起こした当時は麻原の指示に忠実に罪もない多くの一般人をポアするという殺人行為を犯した犯人だったことはほぼ間違いないのである。

 尊師と言われた麻原こと松本千津男の数多くの罪に対する裁判での判決は、「死刑」と確定していても、今回の平田及び菊地の逮捕ならびに高橋克也容疑者は逃亡中ではあるが、近々逮捕が叶えれば、各々の裁判での証言の必要性や関連性もあって、しばらく死刑囚である松本本人の刑の執行は延びると言われている。

 いずれにせよ、他にも特別手配中の重要な容疑者は数多くいるらしいのだが、全国の警察及び関係者の逃亡者捜査はどうなっているのかと疑いたくなる実態も見え隠れしたというのが、今回の平田及び菊地容疑者の逮捕前後の警察の対応だったのではないだろうか。

 平田信容疑者は昨年大晦日に警視庁に自ら出頭したらしいのだが、玄関に立っていた警察官は、オームの平田ですと名乗った本人の弁に冗談だと思って相手にしなかったと伝えられているし、今回の菊地直子の逮捕に至る前に、よく似た女がいると通報した人がいたらしいが、証拠はあるのかと問い質してまともには対応しなかったとも伝えられていて、やはり警察の指名手配容疑者探しや逮捕への執念といった危機感や厳しい対応が手ぬるいというべきか、いい加減だったと言わざるを得ない様である。

 いずれにしても、逃亡者生活を都会の群集の中でわ細々と続けていた容疑者たちが、漸く二人は逮捕されたことは結構なことなのだが、果たしてもう一人の高橋克也容疑者を近い内に逮捕拘束出きるか否かが現在の警察の面子にも掛かっている大仕事となったことは間違いないのである。

 映画やドラマとしての逃亡者の場合は、やもすれば逃亡者すなわち容疑者に対しての応援や主人公ならではの精神的なエールを送りたくなるものだが、実際の凶悪犯や殺人犯がひょっとしたら近くに隠れているかもしれないと思うと、普通の庶民は不安になっても仕方が無いと思うので、ともかく早く逃亡犯の検挙に全力を挙げてもらいたいものである。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孤児猿タクマに思う。

2012年02月18日 | テレビマスコミ
 我が町京田辺にも珍しく小雪が舞って、日中も寒さが厳しく感じられた今日だったが、小雪が舞っていたかたかと思いきや、小さな霙となっていたりして、車内や家の中から見ると何とも美しい光景とも感じられたが、東北、北陸地方を中心に大雪に苦闘する地域の方々にとっては、「とんでもない雪害も起きていて、雪フル風情どころではない」と思われる。

 そんな中、京田辺市のJR同志社前のコンビ二前の横断歩道付近で、一羽の小鳥、たぶん「シジュウガラ」だと思うのだが、小雪が舞う中、一羽だけがチョコ、チョコと路面にくちばしを突けては、小さな餌をついばんでいる光景が目に飛び込んできたのであった。

 私は、このシジュウガラの一挙手一投足?に目を奪われてしまった感で、雪フル最中とは言え、同志社大学の学生さんやコンビ二に出入りする客さんたちが行き交う中、一心不乱に飛び立ちもせず地上に餌を求めて歩く姿に感動すら覚えたのでありました。

 道行く人々は、そんな小鳥が一羽いることなど目に入ってない様子で、近くを通り過ぎて行くのですが、一羽の小鳥は自動車や人間の行き来の最中を、信号が赤にも関わらず横断したり危険をも顧みずに、ともかく餌を求めて必死のひと時を過ごしていたのでした。

 こんな小さな小鳥が厳しい冬の真っ最中、しかも街中での餌を得ることの難しい中で、一生懸命にいのちを育むために「捕食」に熱中している様を見て感動しつつも、途中にやってきた「雀たち」の様に群れをなして飛び舞う様もなく、たった一羽だけで、単独行動しているシジュウガラに見とれてしまったのですが、人間の生き様とダブらせて見ると、とても孤独で寂しい日々の一コマの如く感じてしまったのでした。

 八百屋の営業も終えて夕食後のテレビを見ていると、何と高崎山の野生の猿たちの中の、母親を亡くしてしまった乳飲み子的存在の孤児である、生後三ヶ月ほどしか経っていない「タクマ」と名づけられた小猿の感動的秘話が紹介されていました。

 自然に生きる千頭以上の野猿たちを保護している大分県高崎山の地域なのですが、まだ乳飲み子にも関わらず母親を亡くしてしまい孤立している幼い猿であった「タクマ」を注意深く見守る、高崎山の案内人、河野光治さんがおられ、自然界で生き延びることを願っておられたのだが、ある時一瞬見ると小さなタクマが死んでしまったかの如き状態で見つかる大事件が起きて、河野さんが発見し保護されて手厚い手当とミルクを飲まされて、幸いにも翌日には自然の群れの中に帰されたのだった。

 その後寒い冬の最中は、お客さん用のストーブの脇で一匹だけ「暖」を取るタクマが目撃されていたのだが、ある時突然テンテンという名の幼き我が子を亡くした母猿に救われて、我が子の如く暖かく世話をしてくれる様になるという、奇跡的な出来事が生じたのでした。

 しかし、テンテンが何と悲しくも11ヶ月後に亡くなってしまって、またタクマは一人ぼっちの小猿に逆戻りしてしまったが、その後タクマをじっと見守っておられた河野さんも定年退職されるという事態になり、タクマの今後はどうなるのやらと心配もされたのでしたが、河野さんが退職された約三年後に高崎山を訪れられた時、四歳の青年として元気にタクマは生きつづけていて、河野さんだけでなくテレビを通じてタクマを知った人々も安堵の思いで見守ったのでした。

 これからのタクマは、そろそろ群れから出て大人への自立の道を自ら体験しなければいけない年齢に達するそうで、人生も猿生も同じ様に、厳しくも感じますが自分の道を自らが切り開いて、タクマシク生き続けてほしいと祈るばかりです。
く時が迫っている様です。

 あの一羽の「シジュウカラ」の鳥生の今後や如何に!も祈るのですが、野生の動物たちも厳しい中生き続けているのですね。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「西山事件」のドラマ化

2012年01月23日 | テレビマスコミ
 TBSテレビで始まった「運命の人」というドラマは、山崎豊子の最新作が原作で大ベストセラーとなった、1971年に実際に起きた「西山事件」、すなわち、毎日新聞記者が当時の大きな政治課題であった「沖縄返還」の政治的舞台裏で、交渉相手であるアメリカとの間に、国民には決して知らされない「極秘文書」が存在していて、その最高機密文書のコピーを西山記者が外務省の当時の女性職員から受け取って「密約疑惑」として報道した後、政府の頑な対応に業を煮やした記者本人が、当時の社会党代議士にそのコピー文書を手渡し国会での追及に及び、その極秘文書の存在と漏洩が明らかになり、西山記者と女性職員が秘密漏洩の罪で逮捕、起訴されるに至った事実に基づいたドキュメンタリー的ドラマである。

 山崎豊子が史実に基づいて取材し、一応フィクションの如く書いた小説が原作とは言え、過去にも「大地の子」をはじめ数々の事実を基に記した作品のドラマ化や映画化が話題になっているが、いずれもテレビドラマとしての高い評価を得ている場合が多く、今回も期待しつつ、日曜劇場としての放映枠の時間では観られない場合もあるので録画したものを観ることとなった。

 まだ初回と第二回が終了しただけなのだが、西山記者をモデルにした主人公、政治部記者・弓成亮太を本木雅弘が演じ、その弓成に秘密文書を渡す外務省職員の三木昭子を真木よう子が演じていて、その周辺の関係するキャストもなかなかの布陣で、見応えのある作品となっていると思われた。

 しかし、この事件は沖縄返還の年1972年前後が舞台となっているので、今年で返還40周年を迎える沖縄県にとっても、日本政府にとっても、相手国であるアメリカ合衆国にとっても、時が経っていることで、多様な憶測ではなく史実と共に、政治の表舞台とその背景に潜む真実を暴こうとした、一人の政治記者と「国民の知る権利」などを背景に、裁判となった事件だけに、当人の西山記者はその後毎日新聞を退職し、有罪判決を受け故郷の実家の家業を手伝うという人生を送られ、外務省職員だった女性も有罪判決後、男女のスキャンダルな事件として話題となったために、離婚されたという事実もあった様である。

 この事件は「国家公務員法違反」という有罪判決で決する裁判となったのだが、毎日新聞の西山記者本人と共に、当時のライバル紙であった「読売新聞」の政治部担当記者として登場する、作品では「読日新聞」の山部一雄記者のモデルは、なんとあの「ナベツネ」こと、渡辺恒雄であり、今から40年前の事件とその背景とはいえ、現在の西山氏と巨人軍騒動でまたもワンマンぶりを発揮しているナベツネ氏の人生の分岐点でもあったと思われる。

 いずれにせよ、テレビドラマではあまり本木雅弘と真木よう子の不倫関係とその肉体関係などは描かれてはいないのだが、私はこの事件の本当の真相よりも、そういうスキャンダラスな男女関係がともかく注目されてしまって、肝心な「日米の密約」や「沖縄返還に関する多大な日本政府の財政的見返り負担、すなわち沖縄を返してもらうために払った代償の多額だったことなどがかき消されてしまった上に、その翌年に、なんと表舞台のドンであった、当時の佐藤栄作首相が「ノーベル平和賞」を受賞したというノンフィクションが忘れられないのである。

 つまり、新聞だけではないがテレビ、週刊誌も含めて、多くのマスメディアが、本当の真相や事実を報道しようとすれば、大きな障害や「飛び矢」が跳んできたりする場合もあるし、新聞記者や国会議員、またはその関係者に至るまで、身辺に危険が及ぶ様な恐れを感じることもあると思われるのである。

 全く舞台は違うし、このような事件とは比べようもない私の経験なのだが、私の地方議員としての16年間の活動の中でも、ささやかではあったが、行政の不正や事実に反する答弁や証拠の改ざんなど、どうしても可笑しいと思う様な証言や、中には匿名の情報なども電話や手紙でいただいて、その裏を取るという側面は難しいけれども、「疑惑」として質問したり追及したりしたことが何度かあったのである。

 その過程で、ある問題に関しては、とある議員から「内容証明」付きの文書で攻撃されて、再度この問題を机上に上げれば、名誉毀損で訴えると脅されたり、また別の問題指摘では当該団体の幹部が何度か訪ねて来られて、始末書まがいの文書で「詫び状」の様な文章を出さねば許さないと言われたり、家族に何が起きても知らないと脅されたこともあった。

 今だから話せる面もあるのだが、一地方議員で政党や有力な支援団体や所属組織を持たない、いわゆる「市民派」議員として、実直に「可笑しなことは可笑しい」と指摘し、無駄遣いや前例踏襲の行政姿勢や習慣に対してメスを入れようとするだけで、抵抗勢力とでも言うべき、職員や組織から強い反発を受けたり、脅迫染みた言動を受ける羽目になったのであった。

 新聞記者や議員として「行政の矛盾や疑惑」を正すという仕事に没頭してしまうと、突然大きな障害や壁にぶつかることがあるというのは、誰でも想像がつくことだと思われるのだが、実際の日々の取材や問題意識の中で、「取り上げるべきか否か」を判断する基準がだんだんと鈍って来たり、「君子危なきに近寄らず」となってしまっては、元も子もないのである。

 この「運命の人」のドラマでは、今後どの様にこの二人だけでなく、真実の報道や裁判を通しての「公務員の秘密遵守」などの問題が、どの様に描かれていくかを見守りながら、決して権力や大きな脅しに屈せず、堂々と報道し、国民の知る権利の一端を知らしめる新聞記者たちの魂と心意気を感じさせる主人公の言動などに期待するところである。

 現在、アメリカ合衆国では、沖縄返還交渉での秘密文書が公開されているし、民主党政権となって岡田元代表が日本の公文書についても、30年を経たものは全て開示すべきと定めたので、日米間に「裏取引があった」という事実はほぼ立証されているのである。

 

 
 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ニッポンのジレンマ」

2012年01月08日 | テレビマスコミ
 お正月の「年賀状には、今年も「皆様のご健康とご多幸をお祈りします」と記したし、「今年も良い年でありますように心からお祈り申し上げます」とも書き添えた。

 しかし、21世紀に入って12年目の今年が昨年よりも「良い年」となるという保障はないばかりか、「ご多幸」と言うべき「幸せ観」や「豊かさ」などを心から感じることが出来るかどうかは、未だに「不透明感」でいっぱいである。

 そんな元旦の夜に、NHKテレビ「Eテレ」で、1970年代以降に生まれた20代から30代の若者で社会人として現役で活躍している、多様なオピニオンリーダー的存在の男女12名が集い、34歳の堀アナウンサーと28歳の女性司会者の下で、なんと6時間に及ぶ議論を展開した模様を、約3時間の番組として放映したものが、昨夜再放送されたので録画し、今日見たのである。

 「ニッポンのジレンマ」と題して、特に「格差社会」をテーマに語り出した意見交換は、まるでバトルとでも言う様な場面もあったり、オーディエンスとして別なスタジオで見聞きしていた多数の学生も含む若者たちの「質問や意見」と共に紹介されつつ、なかなか有意義かつ聞き応えのある面白い議論に発展していた。

 確かに現代の日本社会は多くの混乱の中にあって、経済状況は円高が恒常化し企業の投資や人材の活用や営業実績も頭打ちと言った感じで、早く「景気回復」をと願う企業人や勤め人さらに非正規雇用の若者が多く、新卒の就活中の学生たちにとっても、「就職氷河期」と呼ばれかねない厳しい状況下にあると言っていいであろう。

 しかし、この状況は決して日本だけではなく、昨年のアラブの春と言われた北アフリカから中近東にかけての「民主化」運動の嵐や、ギリシャに端を発するヨーロッパの金融不安、そしてアメリカ合衆国でも若者たちの「将来への不安」に対するデモが連日続いた様に、全世界的に不安定かつ将来に対する希望を見出しえない若者たちのムーブメントとしても顕著な現実が報道されている。

 しかし何故か、日本国内では若者たちの不満は底辺では根強いと思われるのだが、「格差是正」や「年金改革」に対する失望感、そして政治に対する不信感は強くても、なかなか有権者としての一票を投じて、社会のルールや仕組みを少しでも「変革しよう」という動きとは少ない様で、とにかく刹那的であったり、絶望感に近い思いを抱いている若者が多いと言われている。

 そういう状況下で自立し、なんとかフリーランスに活動したり意見を述べることの出来る若者世代の代表として参加している12名のスピーカーは、なかなかの論客ぞろいであり、現在の「格差社会」は、多くの若者にとっては「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉に象徴される如く、大変な将来になるかもしれない危惧や不安をよそに、フリーターやアルバイト生活でも、その日、その日は過ごせるので、何とかやれてると自認し、結婚をし家庭を持つという「理想の姿?」は放棄せざるを得ない状況にも「孤独」に耐えて、「スマホ」やPCによるSNS的繋がりやゲームの世界で生きているのかもしれない。

 特に21世紀に入って、少子高齢化が顕著に進む日本社会で、グローバルゼーションとIT化の波は避けることができないのは当然だが、選挙に行かない若者世代よりも中高年齢層に手厚い「社会保障」や「税の還元」がなされて、経済的格差が助長しているのではないかと言われている状況からどうすれば脱出し、「明るく元気な未来」が開けられるのかが課題のはずである。

 そこで、議論の中盤からは、戦後の日本の経済的発展や社会構造を作ってきた「OS」とでも言うべき、組織論理や法律、ルールが、いつまでも「右肩上がり」の資本主義社会特有の「成長路線」だけでは立ち行かないという現実は、人口減少と共にGNPで示される経済的地位ではなく、ブータン国王の来日で注目を集めた「幸福度」と称する様な「心の格差」にまで及ぶ「政策」や「志向」に変化させなければならないという、漠然とした「思い」を各々が持っている様であった。

 すなわち、「国」、「企業」「社会」などの「帰属意識」の変化、つまり「国」や「企業」、「社会」などへの信頼や信用度は減少し、ひょっとしたら「コミュニティ」としての地域社会や「家族」への信頼や愛情なども低下している昨今だとも言える現代は、決して悪意のない「ジレンマ」に多くの国民は苛まれているのではないだろうか。

 つまり、多種多様な欲求や願いに対して、それを解決したりその目的を達するための「ソーシャル・スキル」とも言える「人間力」が非常に現代人、特に若者には欠乏しているのではないかという雰囲気を感じつつ、そうした「人間力」を養う環境としての「教育」が果たして現代の日本社会では出来ていないのではないかという疑問すら感じたのであった。

 つまり、「民主主義」という名の議論や決定権に対する限界もあり、政府や国といった「官」に対して、地域やNPOなどの「民」が果たす役割が今後益々増すことは否めないのだが、現代社会には官による「事前規制」が大変多くて、自由な発想と「こうしてほしい」という「ニーズ」に対する「してあげよう」とする個人、グループに対する「事後規制」へ変革しなければ、この社会の変革は大変困難であり、各々が願う「幸福度」や「豊かさ」を感じる社会にするためには、経済力がなければ無理と言う、大変な「格差」が顕在化してしまうと思われるのである。

 多くのイノベーションは、テクノロジーと寛容さ、才能によって実現すると言われているが、全てに○か◎が結果として出なくても、△である徒労感を感じることなく、同世代や同郷、もしくは同窓や同じ目標や願いをひとつでも重ね合わせることでの「連帯感」を大切に、あなたが「見たいと思う変革を、あなた自身がなりなさい」という結論とでも言ったらいいと思える最後の締めとなった様で、とても「考える機会」としては楽しい時を持てたと思うのであった。


 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ほほえみ」を大切に。

2011年12月31日 | テレビマスコミ
 今年も年の暮れ最終日、大晦日を迎えて、掃除、お節つくり、年賀状、買い物、洗車などとお忙しい最中だと思われますが、一年を振り返って、誰もが一番に浮かべることは、東日本大震災、大津波、そして福島原発事故と続いた、今春3月11日の大惨事だったと思われます。

 そんな一年を締めくくる「今年の漢字」には「絆」が選ばれ、流行語大賞は「なでしこジャパン」、そしてレコード大賞はAKB48が初受賞という今年でありましたが、私のもとに届いた敬愛する先生からの便りに同封してあったコピーに、「あなたは、こんな ほほえみの持ち主ですか。」という文章があり、今年を締めくくるブログは、この「ほほえみ」で幕を閉じることとします。「家政婦のミタ」さんも、最後には笑み、ほほえを浮かべたそうですね。

 大笑いでもなく、
         クスクス笑いでもなく、
                    照れ笑いでも、
                           苦笑いでもない、
                                   やさしく、
                                        暖かく人を包むほほえみ。

 それとも、人と目が合うと、条件反射のように口元にスマイルを浮かべるあなたに、

 「それは、心からのほほえみではないでしょ」と、あなたの心は糾弾しているでしょうか。人前では笑顔をふりまいているのに、ショーウインドーや鏡の中に、こわばった自分の顔を見つけて、ぎょっとした経験は誰にでもあると思います。
  
 「神よ、私にきよい心を造り、ゆるがないせ霊を私のうちに新しくしてください。」(詩篇51.10)

 ダビデは、神様のみが人の心を新しく造り変えて下さることを知っていたのです。そして、神様のそば近くを歩む人には、内側から湧き上がる喜びがあることも知っていました。

 「それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。」(詩篇16.9)

 お金で買うことも、人から借りることも、盗みとることもできない、この微笑み。
 神様が与えてくださる喜びがあふれ出て、あなたの周りの人を潤す、そんな微笑みの持ち主になりたくありませんか。

 「ほほえみ」

 ほほえみ
 それは少しも元手はかかりません 
 しかし、多くのものを人に与えてくれます

 ほほえみ 
 それは人に与えてもいっこうに減りはしません
 しかし、もらった人を限りなく豊かにします

 しかし、このほほえみは
 お金で買うことも
 人から借りることも
 盗むこともできません

 ほほえみ
 それを生み出すのに
 少しも時間はいりません
 しかし、それを受けた人の記憶の中には
 永遠に残ることさえあります

 ほほえみ
 それがなくても生きてゆけるほど
 強い人はこの世にはいません
 それがなくてもいいほど豊かな人もいません

 ほほえみ
 それは家庭の中を幸せにします
 職場を明るくします
 ほほえみは友情のしるしです

 ほほえみ
 それは疲れきった心に休みを与え 
 失望した人に励ましを与え
 悲しんでいる人に光をもたらしてくれます

 ほほえみ
 それは人生のあらゆる問題に対して
 神が与えてくださる妙薬です

 ほほえみ
 それはあなたの心の奥底から湧き出て
 惜しげなく与えた時だけ
 値打ちが出てくるものなのです

 ある人は
 ほほえむことができないほど疲れているかもしれません
 だから、その人にあなたのほほえみをあげてください
 あなたのほほえみを最も必要としているのは
 その人かもしれないですから
                 (作者不詳)

 SMILE 良い年をお迎え下さい。きっと良い年にしましょう。笑顔でイキイキと生きましょう。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「キムジョンイル」の死。

2011年12月20日 | テレビマスコミ
 昨日正午過ぎにテレビ画面に表示された緊急ニューステロップ、「北朝鮮の金正日国家主席急死」に始まった騒動は、北朝鮮国内のみならず日本国内でもトップニュースとして報道され、今日に至る一日中、何処のテレビ局も、このニュースに関する解説や専門家とされる大学教授やジャーナリストをゲストに迎えての特別番組でごった返していた。

 近くて遠い国と言われる北朝鮮、すなわち朝鮮民主主義?人民共和国に纏わる情報は、その信憑性すら疑わしかったり、国内外への宣伝であったり、過剰な反応だったりと、真実がつかめないというジレンマが付きまとう情報が多いので、一瞬目を疑いつつ、17日朝に列車で移動中の車内で心筋梗塞を再発し死亡したということを、一日半経った19日正午に朝鮮中央テレビが、約50日間も姿を見せない現状を取り沙汰されていた、元女優の甲高くて威風堂々のアナウンスを重大な局面に至って必ずする女性アナウンサーの喪服姿での久々の登場で放映し確認されたのである。

 一説には、既に2008年に重度の心筋梗塞で実際の金ジョンイル氏は死亡して、その影武者的人物がテレビ映像などでは紹介されているのだという説もあったが、今年に入って精力的にロシア、中国などを訪問している映像などでは、少し左足を引きづって歩く姿なども映っていて、金正日氏本人が生存したのだが、とにかく急死という事態に、北朝鮮政府、軍隊、そして世襲の権力者とされる三男、金正恩氏への権力移譲が進んでいるが、まだ十分な準備がされていない最中の出来事だけに、混乱や問題が生じないかと、もっぱらの専門家を含む心配、危惧であることは間違いない。

 しかしながら日本のみならずとも、近くて遠い国と言われる北朝鮮の最高権力者であった金正日の死亡というニュースに、これほどまでの時間を費やして憶測も含めて、現状と今後の予測を報道しなければならないものか、ちょっと不思議にすら感じるのは私だけではあるまいと思うのだが、しばらくは続く気配である。

 確かに日本と国際社会にとって、ここ数週間はアメリカと北朝鮮の二国間協議を中心に、北朝鮮人民の食糧が非常に厳しい状況が予測される中、核兵器やウラン増殖の技術をちらつかせながらの、いわゆる「瀬戸際外交」とやらを続け、少しでもいい条件で「食糧支援」を得て、国内の安定を計りたいとの思惑が非常に顕著に伺える中、中東、北アフリカを中心に今年顕著になった「アラブの春」の様な国内の民主化運動や、現体制への不満分子の台頭などを極力避けたい政治的思惑が明らかな最中であった。

 特に北朝鮮との関係も取り沙汰されていたリビアで、あの絶対的権力者として君臨していた「カダフィ大佐」が、民主化運動をとの闘いで、ついに反政府軍に射殺されるという事態が世界中に発信された今年夏を、見聞きしてしていたであろう金一家にとっては、核を外すことは自らの絶対的権力の崩壊に繋がるという不安感が強く、彼らの頭の中には現体制を如何に人民に不満を感じさせずに続けるかが最大の課題となっていたと思われるのである。

 金正日将軍の突然の死亡によって、後継としては誰もが認めてはいるが、まだ28歳になったばかりと思われる金家の三男坊、金正恩氏の軍部を掌握する力やどん底だといわれている北朝鮮の国内経済の建て直しの施策が、如何にスムーズに行われるか否かに、多くの不安と国際的危惧が山積していることは事実で、日本の役割があるのか否か、野田政権も外交には弱いと言われているが、しっかりとした情報分析を背景に、アジアの一大経済大国にのし上がった中国と共に、積極的な外交を展開する待ったなしのチャンス到来と言ってもいいのではないか。

 一般的な国民感情としては、やはり「拉致問題」の解決への前進が関心の的だが、北朝鮮では、先々代の金日成主席が死去した際も約三年間喪に服するという実績があり、今回の金正日氏死去で、後継の正恩氏がどれほどの喪期間を要し、国内問題に一定の目処をつけられるのか、また金正成時代に発生している「拉致」という卑劣な作戦で犠牲になっている日本人生存者の帰還や情報について、新たな調査や期待する決定を下せるか否かは、全く予断を許さない課題である。

 いずれにせよ、三代も国家権力を継承するという、前時代的強権政治が本当は崩壊することが国際社会においては望ましいが、中国、ロシア等以前の東側とされた国々にとっては、北朝鮮の金体制が崩壊などしたら、とんでもない負担、つまり難民や食糧問題だけでなく、西側諸国に属する韓国と直接国境を接するような朝鮮半島の統一国家の実現などは許されない国家にとっては、不利益かつ最大の危機を感じざるを得ない状況になるため、絶対的に阻止したいとの思惑があって、北朝鮮の民主化、金一家の独裁的統治を当分支持せざるを得ないのだそうである。

 テレビ映像では多くの人民が、金総書記の死去を涙で悼む光景が映ってはいたが、大半の人民、国民が飢えにさらされているとの情報もあるので、民主化どころか、明日を生きて行くための食料を如何に得るかが最大の課題であるとすれば、一番の犠牲者である普通の人民が何を感じているか、また軍兵士たちが飢えるということになれば、軍部の反乱や内部的逆襲が起こりうるので、来春の金日成生誕100年歳までは、詳細な情報をキャッチする危機管理能力が、今以上に政府に必要とされる事態であることは間違いない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『白熱教室』に感動!

2011年12月11日 | テレビマスコミ
 NHK,Eテレの日曜日午後6時からの「白熱教室」がとても興味ある講義として放映されていて、前回は「JUSTICE(正義)」をテーマにアメリカのハーバード大学のマイケル・サンデル教授が語っていた内容に強い感動と衝撃を受けたのだが、今回は白熱教室第三弾で、コロンビア大学のビジネススクール教授で、両親がインドからの移民でシーク教徒で、三歳の時に目の病気を患い、高校に進学する頃には視力を失ったという、シーナ・アイエンガー教授の「選択」をテーマにした講義であった。

 今回も偶然に視聴したのだが、毎週約60分の5回シリーズの放映の第三回の「選択日記のすすめ」の後半部分だけだったので、全ての講義を聴いての感想やコメントではないことをお許しいただきたいが、視力を失った状態で黙々と語るシーナ・アイエンガー教授の立て板に水の如し講義内容は、とっても無駄がない興味深深の内容だった。

 高校の時に網膜の病気で視力を失った彼女は、選択の余地がなかった運命から、逆に「選択」を研究テーマに選んだという人で、どうして動物園の動物は、たっぷり餌を与えられているのに、野生の動物に比べて寿命が短いのか、スティーブ・ジョプズは、人生において、どんな選択をすることで世界を変えたのか、また24種のジャムを売り場に並べた時と6種類のジャムを並べた場合を比較すると、前者の売り上げが10分の1しかなかったのは何故だろうかなど、彼女の実践的な研究からの提言や結論は、とっても興味深いものばかりだという。

 アイエンガー教授は、学生たちに「あなたなら、どちらを選びますか?」と質問しながら、自分で選択することの難しさと意味を問いかけていて、その講義は、これからの人生を切り開いて行く若者たちにとっては大きな指針を示すとともに、ビジネスの場においての実践力を養うことになっているとのことです。

 圧倒的に不利な環境の中でも、自分の選択によって人生を切り開いてきたアイエンガー教授自らのメッセージは、「選択は力なり」であり、何事も自分で決めたがらない現代の日本人、特に若者たちにとっては目覚めさせてくれる尊く力強い言葉の連続であり、高齢域に入ろうとしている私にとっても、とても刺激的で元気の出る講義であると思いました。

 振り返ってNHKの「白熱教室」のHPからの抜粋を紹介すると、第一回「あなたの人生を決めるのは偶然?選択?」では、「あなたの人生を変えた、自ら行った選択は何ですか?」と問い、確かに人生は偶然や運命によって大きく左右される面があり、性別、環境、人との出会いなどで自分で選べないこともある。

 しかし、多くの偶発的な出来事が結びついて人生の物語ができるというのは真実であるが、やはり自分で選択することが重要なのだと教授は強調し、食べるものから通う学校、職業、結婚など日常的な生活から人生の大きな選択肢まで、自分の人生は自分の選択で決めるという強い欲求が彼女にはあったという。

 その選択の結果、世界をも変えている、スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツ、松井秀喜、イチロー、孫正義、ガンジー、具体的に名を上げれば切りのないくらいに、歴史上に名を残したり大きな社会的貢献をした人々は、やはり偶然や運命に身を任せるのではなく、自分で選択することで彼らの成功や社会的貢献がなされたというのである。

 「選択こそ力なり」というのが、アイエンガー教授の力強いメッセージであり、第二回の「選択しているのは本当にあなた自身?」では、選択の自由のない親が決めた結婚をした夫婦の方が恋愛結婚で自分が選んだ相手と結婚したケースより、結婚後10年経っての幸福度が高かったというデータがあり、国や文化の違いはあるが、必ずしも自由な選択が全てではない場合もあって、その本質を考える講義もあり、本日放映された第三回「選択日記のすすめ」では、情報に基づく「直感」による決断、決定が大きく、練習、経験、フィードバックを通しての「直感」が「選択」の大きな決め手になっているので、ささやかでも毎日「選択」をどうゆう理由で、何故そうしたかの「日記」をつけて、その傾向を分析するとよく分かるというのである。

 来週第四回「あふれる選択肢、どう選ぶか」、そして第五回「幸福になるための技術」と続くのだが、人は皆、幸せになりたいと願っているが、それは簡単ではないのだが、人は自分が進もうとする道に、つまづくための石を自ら置く習性があるということが最新の科学実験の研究結果で分かってきたというのが、とても納得のいく話であり、いかにして自らの限界を知って、障害物を回避し、幸せを獲得するための選択の力を強化させるか、その方法を考えることを講義するとされている。

 自分の今までの人生での、いくつもの「選択」、「決断の時」を振り返って見て、やはり多くの出会いと情報もさることながら、その時、その年齢での素直な「直感」が、損得や将来の生活、人生設計ではなく、優先していたことを思い出しながら、興味深いアイエンガー教授の「白熱教室」の講義を聴いたのであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『水戸黄門』の終了。

2011年12月10日 | テレビマスコミ
 テレビ時代劇として、多くのファンに親しまれてきた「水戸黄門」がいよいよ今年あと2回で終了するという。

 私はテレビ時代劇なるものは水戸黄門だけでなく、ほとんど見たことはないのだが、高齢者を中心に茶の間だけでなく老人ホームや病床でも、それなりによく見られていたテレビ時代劇の筆頭ではなかったのだろうか。

 時代の趨勢とでもいうのだろうか、確かに時代は刻々と変化しているが、果たして日本人の娯楽としてのテレビはどの様に変ってきているのだろうか。

 とにかく、お笑いと称するタレントたちが花盛りでバラエティと称してドタバタコントやお茶羅家番組が目白押しの状態で、公共放送として受信料を聴視者から得ている天下のNHKも違わず、最近はお笑いタレントが司会をする番組も多く、どうやらそれなりに聴取率という名のバロメーターで、多くの視聴者に見てもらって「なんぼ」のテレビの世界が牛耳られつつある様である。

 「水戸黄門」は、天下の元松下電器産業、世界のナショナルと自称した現パナソニックの提供の長寿番組であったが、テレビ時代劇が「打ち切り」になる原因のひとつとして、制作費が普通のドラマの制作費と比べて1.5倍もかかるという、コスト面が指摘されているらしい。

 確かにテレビ番組は制作費という費用がかかるのは当然なのだが、このご時勢、世界的不況、円高ドル安、ユーロ安傾向になかなか歯止めがかからない現状で、もうひとつ視聴率も上がらない状態では、高額の制作費をかけてまで存続させなければならないわけではあるまいと終焉を迎えることになった模様である。

 私は、単に「水戸黄門」を存続させるべきだと主張するつもりはないが、日本のテレビを通じて日本人に親しまれてきたフィクションとはいえ、時代劇としての文化、善が勝ち、悪が亡びるという勧善懲悪のストーリーを通して、日本人の思いやりや相手の気持ちを察するというきめ細やかな心遣いなど、伝統的に日本人が大切にしてきた精神性や生き方、価値観などが少なくとも示されている面が多々あったのではないだろうかと思うのである。

 つまり、時代劇だけではないのだが、なかなか日本人あるいは万人としての人生における生き方、大切な他人との関わりを通じて、自己を主張するのも重要だが、少なくとも相手の意思や思いをも少しでも汲み取ってあげて、お互いを尊重するという精神、助け合い、互助の精神などは、なかなか道徳やモラルが大切と力説しても伝わらないのではないだろうか。

 そんな中、古いとお思いの方もいらっしゃるとは思うが、ただコストがかかるからという理由や視聴率が稼げないからと言った背景で、「水戸黄門」が無くなり、テレビ番組からレギュラーで毎週定時に放送されるテレビ時代劇が無くなってしまうのは、とっても残念に感じているのは私だけではあるまい。

 世の中、何やら合理主義と個人主義が「都合がよい」とか「便利だ」という価値観ではびこって来ている様で、全てが「早くて、安くて、便利」が最高の様な価値観に苛まれていっている様に感じていて、とっても心配なのである。

 私の住まう京田辺の北部住宅地の近くに、昨日から「コストコ」と称する大型ディスカウントスーパーとでも言うべき外資系の大型ショッパーズが開店し、多くの買い物客で賑わっていると聞くが、なんだか時代を象徴しているとは感じているのだが、大量に購入すれば安いだろうが、必要なのだろうかと疑心暗鬼にもなるのである。

 つまり、年会費を払って会員になれば入場でき、1ケース、一箱と大量に同じもののケース買いを基本にすれば、一本、一個単価は相当に安くなるというのが、この新しく開店したコストコと称する大型モールの魅力と特徴だと伝え聞いているが、いくら安くてもそんなに同じものを大量に購入する必要があるのだろうか。

 友達や親戚、家族、近所の人々と、大量に購入したものを分け合ったらいいのだと言われているが、果たして同じ商品をそんなことまでして大量に消費する必要もないだろうし、結局無駄な買い物や、分けて貰ったから使う、食べるといった自分の価値観や商品を選ぶ独自の楽しみや思いがだんだん無くなって行って、結局はいつも同じもの、同じ様な生活の中身を、こうした大量購入でさせられてしまうことになるのではと危惧するのである。

 つまり、大切なものや貴重なものの中には、安くて便利だとか、流行や貰ったからといったパターンではない、独自の自分の価値観、すなわち歴史的、伝統とか、家族や友人たちとの人間関係の中から派生したものもあるだろうし、私たちの生活の中心をなすものは、目には見えないものかも知れないが、長き伝統や言い伝え、習慣、そうした生活の知恵などではと思うのである。

 全てがデジタル化した様に感じている人もいると思うが、やはりアナログと言われる手作り感や自らが我流で作り出すものも大切であると多くの人が認めているので、いまや「スマホ」の時代に突入したといわれているが、「デジアナ」と称される、その二つの中間的な作業も重要視される様に、和洋折衷、新旧、陰陽などと共に、大切な精神性を保つためのアイテムや刺激も必要なのではないだろうか。

 極端な話の展開となってしまったが、「水戸黄門」の終了は、そうした時代の趨勢の中で、象徴的な出来事ではないかと思ったのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真実は判定されるか?

2011年10月06日 | テレビマスコミ
今朝は小沢一郎元民主党代表が政治資金規正法違反に問われ強制起訴された初公判が行われるとあって、テレビマスコミを中心に大騒ぎである。

 確かに政治家のスキャンダル的裁判であるので、マスコミが注目するのはわかるのだが、果たして「真実」が判定されることになるのかどうかは定かではない。

 この強制起訴に及んだ、例の小沢一郎氏の資金管理団体である「陸山会」をめぐる4億円という巨額の資金の出所や小沢氏自身の、この資金源に対するコメント、供述の変化やあいまいさに多くの国民が不信を抱いたり、「いい加減だ」との感想を感じたのは否めないばかりか、その資金の出所に東北地方における公共事業の入札に便宜を供与したのではないかとされる、某水谷建設からの一億円の政治献金?、裏金の噂もあって、どうしても検察は二度にわたって不起訴としたにも関わらず、検察審議会で「起訴妥当」とした事件である。

 先の小沢一郎代議士の歴代秘書であった石川、大久保、池田氏のこの事件に関与されたとする裁判では、三被告に各々執行猶予付きとはいえ有罪の判決が下されていて、各々の被告が控訴はしているものの、今回の小沢一郎氏本人の罪状としての「政治資金規正法違反」を問う裁判に影響が少なくともあるのは否めないと言われている。

 しかし、私は決して小沢一郎氏自身を弁護する気持ちもなければ、有罪であると断定する根拠もね持ちあわせてはいない普通の市民なのだが、一般的には「もううんざり」と言った感が強いと思われる、この事件の概要は十分承知しているつもりである。

 そもそも、政治家をめぐる政治資金なるものが「胡散臭い」資金である場合が多いのだが、小沢一郎という代議士の岩手県水沢市を拠点とする政治的地盤、風土はたぶん自民党時代から変わらず、「大物政治家」として称える根拠は、多くの巨額な公共事業を、わが町、わが地域に持ち帰ってきてくれて、故郷の経済と生活向上のために働いた政治家としての評価だと思うのである。

 私の拙い経験の中で、ある地方の市議会議員選挙の応援に行った際に、その候補者の地域での選挙活動中に、通りすがりの中年男性が、候補者の近くで立っていた私如きに問うた言葉が今も忘れられないのである。

 その男性はこう言ったのである。「あの人は力あるんかい?」、すなわち彼が言うには、当時の自民党幹事長をも経験した大物政治家とうたわれた「野中弘務氏」を良く知っているのだが、彼は弁舌も立つだけでなく我が故郷、地元に多くの税金を投入して、橋や道路や建設をしてくれて、私たちにとっては有難い限りなのだと言ったのであった。

 すなわち、未だに多くの国民、有権者が政治家に望む一番大きな期待は、如何に自分たちに利益や税金の恩恵を感じさせてくれるかにあって、その力を欲しているというのが現実だったのである。

 「小沢一郎」という政治家が、自民党時代から新進党や自由党を率いた上で、民主党と合体して代表にもなったのだが、その政治手法や政治家としての地方との関わり方、理念、期待はやはり大きくは変わっていないと思うのは、多くの有権者の実感ではないだろうか。

 だからと言って、今回の起訴された事件の真実がどうかは全く私たちには分からない面が多すぎると思われるのは、多くの関係者が自分たちの立場、すなわち小沢一郎個人との関係だけでなく、自己保身や仕事上の面子など、多種多様な立場で発言したり、供述したりしていると思われるので、いくら公正な立場からの判断をするとしても、裁判で全ての真実が判定されるとは思えないのである。

 裁判所は常に公正普遍の真実を証明するというのは理想なのだが、幾多の冤罪事件が存在すると共に、多くのミスジャッジもあるのはやむ得ないと言わざるを得ないと思うのだが、「疑わしきは罰せず」とする一般的な常識が通るのかどうかを推定すると、別の事件ではあるが、大阪特捜部の前田元検事をめぐる事件証拠の期日改ざん問題をめぐる隠蔽工作があったか否かで争われている裁判においても、事実認定に関しての係争が続いていることを思うと、「言ったか言わなかったか?」という事実、真実の認定は極めて難しいものだと言えよう。

 これも私の経験なのだが、軽微な自動車事故での簡易裁判所での事実認定に際して、私は自分の立場を有利にとの思いではなく、真実、事実はこうなんですと告げたのだが、当時の相手方には弁護士が同席し、一方的な依頼者の見方で審理を進めて、不本意な決定を突きつけられた記憶があり、真実の認定が如何に難しいかを体験したのだが、裁判に置いていくら専門家である裁判長とて、世論や周りの意見に影響を受けての決定や結論を出す場合もあると思われ、今回の判定に至る過程をも注目したいと思うのである。

 たかが政治資金規正法違反かもしれないが、結局は現在に至るまでのニッポンの政治家及びその政治手法としての政治資金の出し入れや資金源のプロセス、または政治家とは何かをも問う裁判だと言っても過言ではない「小沢一郎裁判」なのではないだろうか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする