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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

私的に「江ノ電」に乗車

2006年05月16日 | ちょっと可笑しいよ
 藤沢から鎌倉までは、あの有名な江ノ電こと「江ノ島電鉄」が、非常にいいロケーションの中を昔ながらに走っていて、視察に訪れる鎌倉まで約三十分で行けるというのに、議会公務のため少し遠回りは許されないと事務局の許可がでなくてJRで行くという。

 いくら公務とは言え特別な費用がかかるわけではないので、湘南の海沿いと町並みを走る、情緒ある路面電車のような風情のある私鉄で行こうと、再度事務職員と共に提案してみたが却下されてしまった。

 そこで私自身は早起きして朝食前に、せっかくの江ノ電に私的に乗車しようと考えたのである。

 早朝6時前に起きて、身支度して藤沢駅6:25発の鎌倉行きに稲村ヶ崎までの往復切符を買って乗車したのである。
 
 愛用のデジタルカメラを持参して、江ノ電の写真を何枚か撮影してブログに掲載しようと思っているので、乞うご期待あれ!である。

 しかし自宅のパソコン入力環境と全く違うホテルのパソコンからの入力で原稿は送れるが写真の掲載が不可能なため、帰宅してからの写真の掲載となる。

 行政視察の機会は年に2、3度あって、他市や他の地方、地域の自然や町並み、ロケーションを見て行政課題を感じることも多くあるので、観光旅行のような時間はないが、移動の選択肢としてのアクセスを選ぶことなどはあってもいいのではないかと私は思うのである。

 人は、どんな職業、業務であっても、仕事の現場だけではなく、その移動経路や移動時間に感じる感性がきっかけとなる仕事への刺激などが、結構あるものではないだろうか。

 私は公人としての公務の途中に、違う地方、地域の町並み、自然、人の行き来などを見て、多くの示唆や発想を得ることがあるのである。

 ぜひ杓子定規に公務の遂行だけを考えるのではなく、余裕のある移動時間や移動の経路で、議会議員としても私人としても感じる何かが大変大切なのではないでしょうか。

 旅先のホテルでの深夜のパソコン入力によるブログ原稿の送信なので、十分まとまった内容になっていないが、ご容赦いただきたいと思います。

 それでは、またガリバー旅行記としてのコメントをお届けする時に、今回の議員研修の成果としての報告をさせていただきたいと思っています。おやすみなさい。

 さて、翌日自宅に帰って早速、江ノ電の写真をと思ったのだが、デジカメのバッテリーが切れたために、藤沢から稲村ヶ崎へ往復で、早朝の江ノ電に乗車したのに、藤沢に戻ってから携帯の写真を撮ったにすぎなかった。

 これは失態と一時は思ったが、すぐに写真ではなく、車内、車外の様子を、自分の目で見て、感じて、頭に記憶することの大切さを、返って久しぶりに教えてもらった感じで、よーく観察することが出来た。

 鎌倉の私立の小学校に通学する児童たちと高校生達の車内での様子や遊び、そして読書の様子など、際立って賢さと現代の子どもたちの気質や流行の一端をも感じることができたのは、江ノ電に往復45分ほど稲村ヶ崎まで往復したお陰であった。

 湘南海岸は曇り空で天気は良くなかったため、太平洋の眺望は決して遠くまでは見通せなかったが、涼しい海風を感じることの出来た、旅先での早朝の約一時間であった。
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CAP大人ワークショップ

2006年05月08日 | ちょっと可笑しいよ
 子どもたちへの暴力防止プログラムCAPを市議会議員の研修として専門家をお招きしてワークショップ形式で行いました。

 アメリカで1978年に女子小学生が登校中にレイプされた事件がきっかけで、教育者、心理療法家、医師、保護者、発達心理の専門家や演劇関係者たちが協力して、CAP(Child Assault Prevention)プログラムの原型が生まれたらしい。

私歯、数年前から二度、このワークショップの経験があり、議員研修として提案したもので、「子どもへの暴力防止プログラム」のワークショップを、議員研修として取り上げた前例は少ないと思うが、議員さん達に受講してもらうこととなった。

 日頃は議員バッヂを胸に自信たっぷりの議会の先生方、すなわち議員の皆さんに小学四年生に戻っていただき、友達、大人、親、見知らぬ大人、先生を含む人たちから受ける予期せぬ暴力、すなわち「いじめ」「虐待」「ネグレクト」「性的嫌がらせ」「脅迫」「誘拐」「拘束」など、あらゆる暴力に対して、子ども自らが、どのように自身の人権を守れるかを、ロールプレイン方式で学び、体験するプログラムであった。

 多種多様な研修講義やレクチャー、視察の経験ある議員さん達も、自らが小学生に立ち返って、「○○君」「○○さん」と姓ではなく名前で呼び捨てされて、手を上げたり素直に思いを答えたり、仲間と向き合って意見交換したりと、ワークショップ方式の研修を受けることは、ほとんど無かったと思われる。

 まず大きくマジックで自分の名前を表記して、みんなからよく見える胸から肩にかけてのところに貼って、講義とワークショップは始まった。

 CAPの専門トレーニングを受けた四人の女性たちが、今回の講師であり、ファシリテーターとして議会の「全員協議会室」で、いつもの硬い雰囲気とは異質な空気の中で、体を動かし、子ども達の体験する「暴力防止」のためのトレーニングとも言うべきワークショップを経験したのである。

 近頃は、ほんとうに子どもの安全、安心を脅かす事件、事象が多発しており、防犯カメラやインターフォン、携帯GPSなどのハード面での機器や環境整備と共に、地域の大人たちによる見回りやサポート、緊急時の駆け込み場所など、多種多様な対策、対応がされているが、肝心なのは「子ども自身が暴力に屈せず、排除する」気持ちなのである。

 そこでCAPでは、「安心、自信、自由」の三つのキーワードが阻害されたり、保障されない場合の善後策とでも言うべき、子ども自らが「いや」と拒否する心や、大声を出して「逃げる」心得、大人に「話す」ことの大切さなどを体験的に学ぶプログラムを学校、子ども会、教師集団などで展開しているのである。

 議員という責務を担う大人たちが、少しでも子ども達の視点に立った「暴力」の恐怖と「暴力」を受けない防止策を、言葉と体で体験することの意義は大きいと確信している。

 これからの社会が、他人への労わりと非暴力の姿勢で仲良く協働し、強く生きて行くことが出来るように、大人も子どもたちも自らを高める必要は同じではないだろうか。
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ゴミ有料化

2006年04月19日 | ちょっと可笑しいよ
 日常生活をしていると多い少ないの違いこそあれ、生活ゴミが必ず出ますよね。その生活ゴミすなわち一般家庭ゴミは、原則的には地方自治体が無償で収集、運搬、処理を行っているのが現状です。

 しかし昨今、環境庁、産業経済省などの方針、指導もあって、各地方自治体は粗大ゴミの有料化や、一般家庭ゴミの有料化、すなわち一部処理費用の受益者負担制への移行を検討し、有料化に踏み切った自治体も増加しています。

 戦後の高度経済成長を経て、いわゆるバブル景気を頂点に日本の経済活動も、経済性優先から限りある資源を生かしての循環型社会形成へと意識的な転換を図るべく、持続し得る経済発展と言う表現での「地球温暖化防止策」を含む、ゴミ問題に対する3Rと称されるリデュース、リユース、リサイクルが意識される様になってきています。

 そんな状況下で、我が市においても「粗大ゴミの有料化」が行政主導型で、ゴミ減量化推進委員会で議論され、今年になって「粗大ゴミ有料化の提言」がなされ、それを受けた形で三月議会に「粗大ゴミ有料化」に伴う、基金条例の制定と廃棄物処理の条例改正案が提出されました。

 私は、この問題の所管である建設経済常任委員会の委員でもあり、市民も交えた前述のゴミ減量化推進委員会の委員でもあることから、深くこの問題に対する議会審議に加わり、問題点の指摘と共に市民的視点からの反対の意思を表明しました。

 というのは粗大ゴミの有料化は、ゴミの排出抑制のためと言明しながら、収集、運搬、処分手数料として、最高額三千円もの手数料を前払いで負担しなければならない制度で、不法投棄をはじめ多種多様なクレームが内在していると思われるのです。

 また、この条例制定と同時に持込家庭ごみの従量制による有料化も行うということが提案後の委員会審査で判明し、ゴミ減量化推進委員会や建設経済常任委員会でも事前に説明やコンセンサスを得られていない市民負担を、ドサクサに紛れてやろうとする行政の条例案提案のいい加減さを指摘し、抜本的に基本的ゴミ処理計画や市民への説明責任を果たせる内容の提案に変えるべきだとの主張から、多種多様な質疑を行いました。

 そうした状況から三月議会会期中の委員会審査は継続せざるを得なくなり、本日二回目の審査、質疑を行いましたが、十分な担当部局、職員と理事者の答弁が得られず、再度継続審査することになり、いまだに条例案の賛否が決定されていません。

 ともかく市民不在で、最初に粗大ゴミと持ち込み家庭ごみの有料化ありきでは、市民に説明がつきません。

 ごみ収集、運搬、処理の今後の行政が担う計画での理念と展望を明確にした上で、財政的な問題もあるので一部排出者市民が負担する方向での「ゴミ有料化」は止む得ない面がありますが、一方的な行政の都合や理屈で、なし崩し的に「ゴミ有料化」へとシフトしていくことは好ましくありません。

 ぜひ生活者市民も自覚を持って、ゴミの減量化、排出抑制に繋がる、ゴミを出さない生活者へと意識の転換と共に、地球温暖化防止も含む環境保全と循環型社会形成へ、ひとりの地球人として考え、協力する者となっていただきたいと思います。

 
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久しぶりに興奮しちゃった!!!

2006年03月15日 | ちょっと可笑しいよ
今年最初の市議会定例会の「予算特別委員会」が連日続いており、今日は「福祉部」の所管する問題についての質疑の日であった。

 私は市の公共施設は、利用者である住民が気持ちよく利用でき、設立趣旨から逸脱しない限り、住民の視点で活用が大いになされる施設であってほしいとの願いを、機会あるごとに要望し提唱してきたのである。

 京田辺市北部の大住地域に昨春オープンした、老人福祉センターと児童館の複合施設は、地域住民にとっての待望の施設でもあり、これからの高齢者時代に、活用が期待される「世代間交流施設」でもある。

 しかし昨春開館したばかりなのに、多くの利用者市民から多様な文句や要望があり、怒りや驚きの声がたくさん寄せられるようになってきたのである。

 老人福祉センターは原則的に60歳以上の住民のための施設であり、児童館は18歳未満の子どものための施設であることは、十分承知しているけれど、年齢が該当しないと入場を断られたり、他の自治体からの住民の入場が禁止されたからである。

 私も孫を持つ年齢になっているので、孫と共におじいちゃんやおばぁちゃんが、複合施設としての「大住ふれあいセンター(市民命名の愛称)に行く機会があればいいと思うし、逆に京田辺に住む孫を訪ねて来た祖父母が同行して、ここで愉しんでもいいなと思っていたのだが、とんでもない苦情が続出したのである。

 京田辺市の施設なんだから、京田辺の住民しか原則的に入ってはいけないというのである。

 私は昨年の暮れに、この件に関して、同行者に市内住民がいれば一緒に来た大人、子ども問わず利用できるようにと要望した際には、条例による規定は住民の利用が原則だが、運用面において配慮するとの回答であった。

 しかし再び今定例会での一般質問や予算委員会で、他の議員らが正したところ、再び市外の方は子どもも大人も利用できないと、またもや住民要望を無視した、画一的なお役所の事務的回答に終始したのである。

 私の堪忍袋の緒が久しぶりに切れて、「それは可笑しい!!」と大声で抗議する形での質問となり、興奮しちゃったのである。

 あまりにも低次元の解釈や紋切り型回答の連続で、私は業を煮やした格好で、部長、助役の「住民の視点に立った行政サービス」と口しながら、平気で住民と一緒に来た子どもや祖父母達を立ち入り禁止にする「気持ち」が全く理解できなくて、声を荒げて怒ってしまったのである。

 委員長や助役は「興奮しないで」と言うのだが、「あんまり理不尽なこと」なので、興奮と言うより、いい加減さと無責任さに怒ってしまったのである。

 住民の税金で建設した福祉施設の利用を、市の職員が管理的理屈のみで利用者を限定し、一緒に愉しもうと行った他市から来た友人、知人も含めた同行者に、とんでもない失礼な対応を平気でする市行政に、憤懣やる方なしで怒ったのである。

 冷静に話せば解るというのは、この場合はなかった。なにせ「バカのひとつ覚え」の様に、「規則ですから」、「条例が基準だから」を繰り返すばかりなのであった。

 何事にもルールはある。しかしルールは人が気持ちよく他人に迷惑や極端な負担をかけないために、人が作った最低の約束事に過ぎないのでリ、市の条例では市長が認めた場合は裁量権として許される一項が必ずあり、権限者である市長が誰か市内の納税者住民の同行があれば、一緒の人の入場は可とすれば済む話なのである。

 とにかく「気持ちよく」「みんなが楽しめる」「公共施設」であってほしい。
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言葉狩り

2006年02月26日 | ちょっと可笑しいよ
 まだ2月だが地方自治体の年度末が近づいて、三月の定例議会が2月20日に開会し市長の来年度の施政方針演説があり、来年度予算の審議も含め多忙な議会となる予定である。

 先日は、議会運営委員会の開催日の間の二日間から帰った直後に、市長の三期目の任期最後となる来年度の施政方針を聞いて、明日の午後に、会派を代表して代表質問をする予定である。

 今定例会では代表質問のほかに、一般質問と議案審議に加えて、事前通告している常任委員会での事務調査と七日間に及ぶ来年度予算の部門別集中審議ならびに総括質問がある予定で、全てに私自身が出席して質疑するつもりなので、準備が大変である。

 そんな中、突然先日の午後、議長から携帯電話に直接電話があったのである。

 「議長のHですが、突然電話ですみませんが、一般質問の通告で「盲従」という言葉が書かれているのだが、訂正してもらわないと問題化する恐れがあるというのである。

 私は、小泉内閣の「国民保護法などに盲従せず」と、政府の一方的な政策に対しても、地方自治体は批判無く従うのではなく、十分住民や地域、自治体としての意見を議論した上で、政府に対しても言うべきことは、はっきり言うべきであってほしいとの念願から、「権力への盲従を戒めたい」思いからの質問通告であったのである。

 しかし、今回は議長の忠告でもあり、言葉としての「盲従」にこだわることは無いので、先に記した様な「批判も無く従わず」という言葉に訂正することとしたのだが、こんな「言葉狩り」で、視覚障害者の皆さんや「盲目」と言う意味や差別的意識が拭われるわけではないはずである。

 でも、特にマスコミは言葉狩りとでも言うべきマニュアルを独自に各社持っているようで、特に天皇制に関することや解放運動に関する言葉や地名、関連用語には、とても神経を使っており、時にはタブー視すらしかねない言葉狩りを行っているのである。

 今回も「朝日新聞」のマニュアルによると議長が告げていた様に、「盲従」という言葉を使うことが、視覚障害者を差別したり蔑視したりすることとは全く異なることなのに、訂正を要求されたのである。

 他にも「めくら判」とか「片手落ち」なども使用は慎重にと言うことになっているのだが、別な言い方や適切な日本語が見つからない場合もあって、難しい対応になることもあるのである。

 議会という民主主義の議論の場で、はじめから表現や言葉が制限されたり、制約されることは、あまり歓迎すべきことではないと私は思っているし、今回のテーマに関しては、「小泉内閣のブッシュ政権への盲従」と敢えて言いたい気持ちがあったので、通告文書からは抹消したが心では納得のいかない、すっきりとしない処置に従ったことを不快にも感じているのである。

 障害や個性の違いに対しての差別や蔑視、人権侵害、名誉毀損などは、「言葉の表現」ではなく、心の動きや価値観を基本とした「人との接し方」や交流や関わり方の問題であり、真の差別は隠れたところに潜在的にあるものではないかと思うのである。

 「小泉首相よ、ブッシュに盲従するなかれ。」
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行政の怠慢!!!

2005年12月14日 | ちょっと可笑しいよ
何とびっくりする様なことが判明したのである。

 皆さんのお住まいの市町村では、こんなことはないことを願うしかないが、恥ずかしいことにわが市では、行政の怠慢としか言い様のない事象が発覚したのである。

 ひとつは市道認定を受けた道路や街区公園として地域の子どもたちが日常的に遊んでいる公共の場所であるはずの土地登記がされていなくて、民間の開発業者や個人の所有として登記されていて、返還要求が出されているため、やっと行政が訴訟に踏み切って係争するための議会承認を得るための議案が二件提出されたのである。

 市内にある普通の住宅地であり、今から30年程前に、とある開発業者が開発し、その当時の町と覚書により、完成後一ヶ月以内に業者が市所有として登記することになっていたはずの公用地が、民間業者の登記のまま放置されていて、数年前と今年に入って、第三者にその一部が売買されていたのである。

 道路、公園は当然、地元の自治体の公有財産であり、市民、住民の日常的生活や歩行、遊び、車の通行に欠かせないもので、もし補修や危険性が指摘される箇所があれば、行政が責任もって修繕、安全保全のための対策を担うべき場所である。

 なのに50数戸の宅地が造成され建設されて、何と20数年間、地元自治体である市所有としての登記もされず、一般開発業者が自分たちの土地だからと返還要求、ならびに買ってくれと要求してきたというのである。

 その後、また数年放置されたあげく、道路も公園も第三者の個人に転売されて登記され、とんでもないことだが隣接する場所に住まう住民にとっては、寝耳に水の所有権争いとなっているため、市が覚書をたてに提訴することになったというのである。

 全くあきれた、無茶苦茶無責任な行政の対応が、結果的に時効取得も主張しかねない状況として放置されてきて、民間業者の無茶苦茶な要求と脅しともとれる攻撃、交渉となっているのである。

 「びっくり」である。自分たちの家もしくは私有地の前の公道、もしくは近くの公園が誰か個人、企業の私有地であって、自由に住民が使用できないことにもなりかねない異常かつ前代未聞の大事件である。

 しかし市の対応は甘く、いい加減で、全く市職員や理事者にとっては、対応のまずさや業務不履行に対する責任感や危機管理意識が欠如しているという他ない事態にも関わらず、提訴せざるを得ないとだけの認識であった。

 私は市の財産は市民の財産であり、こうした失態を招いた責任と、これに伴う今後予想される多くの課題や訴訟費用をはじめとする公費の支出などに対しても、無駄な税金を使わざるを得ないのだから、市長、理事者の謝罪を要求したのである。

 また北部の駅前開発にからんで、周辺住民が望まないパチンコ店の建設、出店に対する業者の事前協議の過程で、『地元説明』を指導したという市に対して、業者は地元に説明したと報告したらしいが、地元自治会長さんたちは業者からの挨拶を受けただけと語っておられるのである。

 これも大切な当事者意識が全く相反した認識であるにも関わらず、行政は住民、自治会長の認識を確認することなく、業者言いなり、つまり市民、住民の意識の確認、パブリックコメントを無視した、開発業者本位の『形だけの開発指導』であることを、自ずから露呈したと言っても過言ではないほど、あきれた指導ぶりである。

 全くお恥ずかしいと言わざるを得ない、これらの失態と住民自治を軽率に軽んじた行政の怠慢に、「憤懣やる方なし」とでも言う心境を感じているのである。

 いくらキレイごとの公約や答弁で「市民のためや住民の皆様のご意見を聞いて」と言っても、この実態ねこのあり様では、全く『言うだけ行政』と皮肉られても仕方がない状況だと、敢えて問題提起しておきたいと思うものである。

 怠慢、緊張感のなさ、危機管理意識のなさ等は、つまり公僕としての公務員が税金で飯を食わしていただいているという、原点を見失って、仕事を増やさない、仕事をサボり、責任転嫁、事なかれ主義で、多くの業務に関わっている証拠だと言わざるを得ないのである。

 市民、住民の命と財産を、本当に『安心、安全』に守る気概と業務に対する真摯な態度と努力を、意識改革をして目指してもらいたいと要望したいものである。
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市民の議会傍聴の感想

2005年12月12日 | ちょっと可笑しいよ
 どこの地方自治体でも十二月のこの時期に定例議会が行われているはずである。我が市議会も二日に開会し、先週の木、金、そして今日の三日間、議員の一般質問が行われた。

 地方議会によっては個人質問とか大綱質問とか呼称が違う場合もあるが、議員個人が行政に対する質疑をする、いわば議員にとっては日頃の活動を通じての市民の要望や政策的課題の勉強の成果の発表の機会でもあるのである。

 私は議員として四期目であるが、定例会では必ず「一般質問」をしているのである。とにかく三ヶ月に一度の「一般質問」は、議員として自他共に認める大きな仕事のひとつであるとの認識を持って、これに全力を注入しているのである。

 一般市民のおじさんが二日間、議員の一般質問を傍聴されての感想を伺ったのだが、市民の目から見ては決して「勉強の成果」を感じられない質問が多い議会の実態に、「がっかりした」と、その中年の男性の方は感想を語られたのである。

 私自身の一般質問と考え方はともかくとして、他の議員さんの批判をするのではなく素直に感じられた市民の感想を聞いていただき、ある地方議会の現実として考えていただきたいと思うのである。

 まず議会、議員の業務について、愛媛県善通寺市の自治基本条例では、第十四条(議会の権限及び責務)として、「市議会は、市の行政を監視し、牽制するものである」と明記されている。

 つまり「行政の監視と牽制」が議員、議会の仕事との認識を持たない議員がいるというのである。つまり市民に選出された議員なのに、市長や幹部職員に気を使い、感謝やお願いを連発し、質問の内容はほとんど、お伺いしているだけなのである。

 議員にとって議会は言論の戦いの場であって、市長や理事者に対して市民の視点から、市政のチェック機関としての厳しい問題提起や、問題追及をするべき場所であり、決して市長への感謝や、へりくだってのお願いを申し上げる場所ではないのである。

 しかし、現実の多くの質問、特に与党と称する市長を推薦し、市長に推薦され議員になった議員先生たちは、感謝、お願い、お尋ねする内容の質問が主なわけであって、質問ではなイと私は思うのである。

 そんなお尋ねやお願いなら、議会本会議でわざわざやらなくても、暇な時に担当課や部長に接見して、お願いしたり、お尋ねすれば済む話なのではないだろうか。

 議会本会議での質疑は、議員が政策や考え方を披露しつつ,日頃の日常活動や調査、研究、研鑽、視察、現場確認などを通しての問題提起や提案を主な柱として質問し、それに応えて、市長や理事者側が考え方や政策を戦わし、行政側と議員が是非や予算執行の優先性などの見解も含めて、議論することなのである。

 しかし現実は情けないが、「がっかり」したと市民が感じた実態が多いのである。今日も二人の与党議員が「一般質問」と称して「お話」されたが、全く私が聞く限りでは「質問」となっていない中身であった。

 「いつしていただけるのでしょうか」「しっかりやっていただきたい」「頼んでおきたいと思います」「よろしくお願いいたします」と続く、お尋ねとお願いの連発だけだったのである。

 会社を定年退職された中年のおじさんは傍聴の感想として、あんな中身のない勉強もしていない内容だと、普通の会社では笑われるし、仕事をしていると評価はされない。名誉職として議員になった人では、まちづくりや行政を改革するなど、絶対に出来ないと思い、「がっかりした」とおっしゃるのであった。

 税金で報酬をいただいている議員の多くが、選挙の時だけ美辞麗句の公約を並べて選出され、四年間は中身のない質問やパフォーマンスだけで、ほとんど質疑もしない。また議会にも出席しないツワモノもいる。そんな仕事に対する認識のなさと名誉職感覚の議員が、まだまだ多いのである。

 『ええ加減にしろ!!!』と市民、有権者は怒るべきではないか。敢えて言う。「税金泥棒!!!」って皆さん議会を傍聴して、議員さんに言って下さいよ。そういう私も議員ですので、そう言われない議員活動と質疑に専念します。
 
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「一期一会」って・・・?

2005年10月24日 | ちょっと可笑しいよ
 

 昔から学生時代も社会人になっても、今まで出会った多くの人が「一期一会」を語り、また芸能人も自分の好きな名文句として「一期一会」を上げる人が多いのである。

 確かに人としてこの世に生まれ、長い一生の中で「一期一会」と言わざるを得ない様な出逢いはあるものだと思うが、誰もがあまりに簡単に語るほど、決定的な「一期一会」と言う「出逢い」はなかなかないものではないだろうか。
 
 だけど他人は「一期一会」を大好きな言葉として語り、名文句として紹介したりするのは、逆に本当に「一期一会」と言うにふさわしい「出逢い」を経験することが非常に少ないことの証明でもあるのであろう。

 果たして皆さんにとって、恋人、彼女、彼氏との「出逢い」が、また現在の伴侶である「妻」や「夫」との「出逢い」が「一期一会」と言うにふさわしい「出逢い」であったかどうか、しっかり検証するか、心に素直に問うてみる必要があるのではないでしょうか。

 かつては「一期一会」と信じていた、他人との出逢いが、ちょっとした行き違いや誤解から、全く信じられない「絶交」や「音信不通」「会いたくない」関係となってはいないだろうか。

 人は、その時、その瞬間、またはその頃、その時期の精神状態や利害、立場から、とってもその「出逢い」を素晴らしい出逢いとして「一期一会」と言う言葉にふさわしい人生最高の出逢いとして思っているだけなのかも知れない。

 しばらくの時間、時が経過したり、自分の立場や関わり方、利害が変化すると共に。その人との「出逢い」が普通の出会いのひとつになってしまっていて、まさか「一期一会」とは言わない関係になってしまう場合も多くあるものである。

 私は軽はずみに「一期一会」を語るのではなく、長くて短い?人生の終盤において、じっくりと自分の人生行路を振り返った時に、本当の「一期一会」だった人との関係の大切さや重要さに気づくのではないかと思っているのである。

 人生の第三コーナーから第四コーナーにさしかかる終盤においての、新たな出逢いも楽しみたいとも思うが、今までに出会った大切な「一期一会」と思える友人、知人、尊敬できる人々とのコミュニケーションを大事にしたいと思うのである。

 実は、昨日が妻の誕生日であったが、お互いのスケジュールが合わないために、一日遅れたが、「祝、誕生日ディナー」を今晩共にしたのである。

 たぶん妻との出逢いが、私にとっての「一期一会」の代表だと言えるような人生の終盤を、楽しく喜びと同志としての伴侶を慈しみながら生きて行きたいものだと、珍しく真剣に考えてみた次第である。お粗末さまでした。

 皆さんにとっての「一期一会」をこの際、じっくり考えてみては如何でしょうか。


 
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人事案の同意は難しい。

2005年10月06日 | ちょっと可笑しいよ
 

 市議会定例議会では、様々な人事案件の同意、承認が求められる。
 9月議会は、助役の再任、教育委員の選任、公平委員会委員の選任などがあった。

 市役所の市長を補佐する特別職として「助役」が置かれ、私達の市では助役が2人選任されている。一人は市役所職員として永年勤務した人で、一旦退職して市長の推薦で選任された人。も一人は府職員として永年地方自治の仕事を通して、市町村行政を指導、監督してきた人で隣の市に居住する人である。

 助役二人制は、前町長の時代からの継続的施策で、現市長の意思で続けられていて、庁内では監督、指導専門所管が分かれているのである。

 市長は市役所のトップであり、行政職員の長でもあるが、市民、有権者によって選ばれた政治家でもあるが、助役は市長が選任し議会の同意を得られれば着任する特別職としての公務員にすぎなく、市長の補佐を勤める仕事である。

 助役は、政治家でもある市長にも仕える立場なので、純然たる行政職に留まらず政治的判断なども市長の許しを得て、しなければならない場合も生じるから、政治家的視点から判断する必要もある。

 次に教育委員は教育委員会の行政職トップである教育長を含む5人であり、多くは学校教育現場を経験した元校長や地域の教育的活動の経験のある学識経験者と呼ばれる人たちが主なのだが、幼稚園から中学校までの公立学校施設と教育内容についても議論をする委員会メンバーとして、実際に子どもを現在学校に通学させている若い親の世代からも、また女性や教育を幅広い見識から見て活動的に関われる人も必要である。

 また公平委員会委員は、公務員の団体交渉権やスト権が認められていない中で、市職員などの労働条件や多種多様な待遇、処分などについて、第三者的視点から「公平に」に判断を下す委員として、行政の一独立機関の立場で、地味だがしっかりとした社会的見地からの意見や対応を判断できる人でないといけない。

 助役、教育委員、公平委員の3人の市長推薦による候補者、推薦された人たちを、私達議員は責任ある住民の代表者として、的確かどうかと共に他の構成メンバーも含めた、総合的見地から判断をしなければならないのである。

 私達の市域は45平方キロほどだが、やはり昔の町村合併で昭和26年に6ヶ町が合併した経緯もあるので、出身地域も考慮が必要な場合もあり、性別、年齢、そして過去の経験なども検討要素として大切である。

 しかし一番大切なのは候補者となっている市長が推薦した方の人格とモノの考え方や指導力、決断力、見識などであるはずである。

 だが同意を求める方の資料としては、住所、生年月日に公務としての前歴が羅列されているに過ぎない場合が多く、推薦する市長も「同意案」として提出する時の説明でも、「適任者と思い推薦する」としか言われない場合が大半なのである。

 私達は、全ての候補者の「人となり」や「考え方」「価値観」「主張」を事前に知っているはずもなく、この人は「どんな人?ですか」と聞くこともままならず、少ない情報と、それまでの公職や前歴での評判、評価などを手立てに判断せざるを得ないのである。

 今回、私は「助役」の再任には、政治家としての価値観、対応策などで問題があるとの見解で、不同意としたが賛成多数で「同意」され選任された。

 同意案が通った本会議終了後、助役に再任されたご本人が挨拶に見え、「いろいろ事情はあるでしょうが、よろしくお願いします」と言葉されたのである。

 私は、当然ご本人の人間性や性格等を否定したわけではないのだけれど、不同意とした事実に、彼は決して心地よいわけではないと思われる中で、挨拶されていたことを思うと、複雑な思いもよぎったのである。

 つまり人が他人を適職かどうか判断して、是否を明確に打ち出すという形になる事案件の同意、不同意は、本会議場では形の上では当事者本人は除斥となり席をはずされるのだが、民主主義の決定機関として賛否は明確に記録されるし、その理由も質疑、討論をすれば残るのである。

 人が他人を判断することの難しさは大変であり、公的な職で選挙によらない、推薦もしくは候補者を認めるか、的確な人事かどうかを決めることも大きな議員の仕事の一つである。

 馴れ合いや事なかれ主義、通過儀礼で終わらせない人事の決定を、住民の代表としての冷静かつしっかりとした判断で行いたいと思っている。



 
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第三の選択の困難さ。

2005年10月04日 | ちょっと可笑しいよ
 

 昨日、近く政令指定都市となる予定の大阪府堺市の市長選挙が行われ、現木原敬介市長が再選された。

 人口が百万人に近づく大きな選挙とはいえ、何と投票率は有権者の1/3に満たない32.39%という低率であり、市長として信任を得た形ではあるが何と有権者の14.06%の票しか獲得しない、89,741票での当選であった。

 大きな市の市長が有権者のたった七分の一弱の支持で決まっているのである。人口比だとたぶん1割に過ぎないのではないだろうか。そんな少人数の具体的支持でも首長が確定してしまっている民主主義とは、いったいどの様に理解すればいいのだろうかと思ってしまうのである。

 今回の選挙戦に限らず多くの首長選挙において、自民党、民主党、公明党の相乗りの推薦や支持が当たり前になっており、今回は社民党まで支持するという一方的な政党支持に対して、共産党推薦候補と無所属の若手府議が挑戦するという形での選挙戦だったのである。

 私は具体的に候補者で知っていたのは、唯一元堺市議であり前府議の34歳の若さの森山浩行さんだけなのだが、彼の獲得した票数は55,028票であり惜敗したというべきが善戦したというべきかは分からないが、ともかく負けたのである。

 私は地方政治に関わる議員のひとりとして、冷静にこの政令指定都市になるであろう大都市の市長選挙に善戦したといえるのではないかと思っているのだが、勝利にはほど遠かったのである。

 しかし、仮定ではあるが共産党推薦候補が獲得した票と森山氏が獲得した票を加えれば何と114,174票もあり、市長に再選された木原氏を二万四千票以上、また第四の候補者の得票も加えれば何と三万三千票近くも上回っていたのである。

 一票でも多ければ選挙では上位の候補者の当選が決まるのはルールではあるが、有権者の民意はどの様に受け取ればいいのだろうと、改めて考えざるを得ないのではないだろうか。

 住民、有権者市民にとって、本当に候補者を選ぶ選択肢はあった方がいいだろうが、実際どの程度の候補者の人となりや政策、意欲などの情報が伝わっているのかは、はなはだ疑問である。

 先月の総選挙と同じ日に投開票が行われた、京都府城陽市の市長選挙でも三人の候補者が選挙戦を戦わせて、現職市長が再選されたのだが、今回の堺市と同様の自民、民主、公明相乗りの現職に、共産色の前市長と保守系無所属の市議がしのぎを削り、結局1万8千票で市長が決まり、二位、三位の得票数は2万5千票を越えていたのである。

 何が言いたいのかは、お分かりだろうが、対決候補者二人での選挙の場合は、明確な勝負が見えるし、間違いなく当選者の得票数が負けた候補者を上回っているのだが、三極に分かれた候補者が争う選挙戦の場合、結局当選者の得票数が下位の二人、三人の合計得票数を下回るケースも多いのである。

 私は、これらの当選者に文句を言っているわけではないが、その町、その市の市民、有権者の民意は決して、当選した人を良しとした人よりも別な候補者を良しとした人の方が多いという事実を指摘しているに過ぎないのである。

 つまり共産党を除く他の政党が推薦、支持した候補者であっても、第三の候補者が無所属などで立候補し、それ相当の得票を得た場合の民意を十分に受け取る必要を、当選された市長、首長に意識していただきたいと思うのである。

 市民、有権者の立場から言うと、第三の選択肢があるのは喜ばしいことなのだが、結果的に勝利を得るに至るのは並大抵なことではないのである。

 一昨年に行われた大阪府箕面市の市長選挙においては、私たち市民派議員の交流勉強会の仲間であった藤沢さんが辛うじて、第三の選択としての市長に当選している例もないことはないのだが、非常に困難なのである。
 
 政党や組織的団体、組合、企業ぐるみの選挙ではなく、ひとりひとりの有権者にこまめに訴えていくことで、第三の秀逸な候補者を市長、首長に選択する可能性を模索しつつ、挑戦する仲間が続々と出てきている。

 今年10月の奈良県天理市では諸井元市議が、そして11月の大阪府岸和田市でも、現市議の〆野候補が現職市長に挑戦する予定である。第三の候補になるのか対決型一騎打ちになるのかは定かではないが、政党、組織にとらわれない市民派的選挙に徹するものと思われるのでエールを送りたいと思うし、市長への選択を住民、有権者に期待したいものである。

 
コメント (1)
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