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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

虫の音しか聞こえない夜半に思う。

2005年09月22日 | ちょっと可笑しいよ
 
 あわただしい毎日をおくる現代人の一人ではあるが、時にはこんな時間を過ごすことがある。

 只今9月議会の会期中なので、自分に課せられた一般質問と委員会での議案審議、補正予算審議を精一杯して、事前に通告していた「アスベスト調査と対策」についての事務調査も終えて、当初の予定通りの議会日程をこなし、今日から3日間は議会はお休みである。

 我が阪神タイガースのセリーグ制覇に向けての戦いも、幸いにも中日との最終戦に完勝してマジックが6になり、試合日程も今日はお休みなのである。

 今日は朝から午後5時半頃まで、私が所属する建設経済常任委員会の審議、質疑で一日明け暮れて、充分疲れているのだが何か空しさを感じざるを得ないのである。

 委員長が不在だったので、たまたま副委員長である私が主に議事進行を行いつつ、議員としての仕事であり義務でもある質問を、6人の委員の中では一番多くするので、その度に委員長席を年長議員にお願いし、質問を多角的かつ多種多様な情報と勉強した成果も加えてしたのだが、時間的に5時を越えると委員会室の雰囲気は変わってしまうのである。

 行政側の市長や理事者、市職員は責務上、特に時間延長などについては心の中では思っていても口には決して出さないが、市民の信託を受けている議員の中から、「もうやめとけや」とか「まだすんのか?」とかと言う声が聞こえ、私の質問中の見解や情報、先進自治体の紹介や、事実に基づく知識などを基にした発言に対して、「そんなことわかっとるやないか」等と、ともかく「早く終われ」としか思っていない、ため息交じりの批判しか聞こえなくなるのである。

 たった6人しかいない審議に加わる委員の議員の多くが、そういった感じの姿勢、態度であり、そう言う委員は、いつもほとんど質問や提案もしないのである。

 結局、よっぽど支援者や関係利害を有する住民などからの依頼や要求、願いがない限り、自分で考えて議案審議に当たる準備と問題点の勉強などしていないと思える対応であり、行政サイドの肩を持っているとしか思えない、通過儀礼の様な審議を早く済ませたいと言う「本音」しか見えないのである。

 私は常に100%とはいえないものの、精一杯全ての提案議案に対しての問題点、関連の現状確認を通しての質疑事項を見つけ出して、最低1回は何らかの質問を投げかける様心がけているのだが、大半の議員は「質疑はありませんか?」の委員長の問いかけに、「なし」と答えることを旨として、ほとんど議論しないのである。

 私は今回のアスベスト問題に対する質疑の中で、行政の認識の甘さや事実誤認の恐れのある「安全」とする見解などに対して、強く抗議と共に訂正や厳しい認識を求めて、声のトーンが高まる場面もあったが、ある議員は、自分は何も質疑はないのに、「もっとトーンを下げてやれ」と茶々を入れるありさまなのである。

 議員の仕事は議会で「議論すること」なのだから、時には激しく時には穏やかに事と次第に応じた質疑のやり方があってしかるべきなのである。それなのに一時の状況だけで他人の発言内容などお構いなしに批判めいた野次や苦言だけしか言えない議員の先生方に、はっきりもの申したい心境である。

 静かな虫の音しか聞こえない夜半に、誰とは申しませんが「よーく考えよう、議論は大事だよ」と議員としてのイロハと共に、議員の責務と仕事をまず率先してやってもらいたいものだと言いたいのである。

 秋を告げる虫たちは、この人間主体の世の中をどう思って鳴いているのかは分からないが、愚かな人間達の抗争や、たわいない揉め事に一喜一憂しているのではないだろうか。

 大きくて小さな人間社会を、あざ笑うかの様に自然の生態系のひとつの命として、精一杯の鳴き声を聴かせてくれているのではないだろうか。

 
 
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「改革!」は呪文ではない。

2005年09月14日 | ちょっと可笑しいよ


 今回の衆議院選挙でも、自民党、民主党、公明党も皆、「改革」をスローガンにしていたようである。

 しかし、「改革政党、自民党!」というコマーシャルに、まんまと国民、有権者の多くが騙されてしまったために、最悪の選挙結果が出てしまったのである。

 小泉自民党の言う「郵政民営化」の改革が、外交から内政全般の全ての入り口だとの主張は、あまりにも我田引水とでも言おうか、無茶苦茶なスローガンであったのに、ほんとは自分達の保守性や権力維持のために、アメリカ一点張りの「アメリカの属国、ニッポン」を作るための詭弁に過ぎないのである。

 国民一人当たりの借金が700万円を超える,超不良債権国である、日本の行く末は、アメリカ経済と共に、ぶんぶく茶釜の「泥ぶね」の様に、沈没を待つのみの危機的状況なのである。

 あの「小泉劇場」と称される、選挙での争点を「郵政民営化に反対か賛成か」という簡単な問いかけだけで、「改革」ののろしに従った国民、有権者を愚かだとは批判できないが、明らかな失敗である。

 広島の抵抗勢力の旗頭である、自民党の亀井氏を突き落とすために、何と刺客として放たれた「ホリエモン」ことライブドアの堀江氏に至っては、「改革」のTシャツとのぼり旗で、選挙戦を戦っていたようだが、懸命な有権者達にけちらされて敗北したのである。

 ただ単に、パフォーマンスとしての立候補で供託金600万円などは、ライブドアの宣伝費と考えれば、全く安くついた大宣伝を、マスコミ各社が連日の様に報道してくれたことで、何十倍もの企業宣伝となって、落選しても多大な利益に繋がると見たのであろう。

 「改革」なんてものは、既成の枠組みや価値観を破って、新しい機構や対応に徹することであり、従来の手法を、ちょっとだけ現代世相受けしそうな形でのパフォーマンスのみで、実現しようなんてことは出来ないのである。

 「ホリエモン」の実際の狙いや価値観が、全く従来の既成の価値観に根ざしており、見た目のノーネクタイ、Tシャツスタイルに騙されているだけなのである。

 そういう意味においては、小泉純一郎たる首相の、国民有権者をバカにした様な選挙戦術とほとんど変らない、電通などの宣伝媒体をプロデュースする、大経済力を背景とするフィクサーたちと同様の「目新しい改革戦術」であったと言えよう。

 私も議会で「行政改革で何が変るの?」と質問したが、市長や責任部長は、「総務省からの改革大綱の指示」に従って、上意下達で「美辞麗句」を並べているだけで、市独自の「改革プラン」などは持ち合わせていないことが明確に分かったのである。

 埼玉県志木市の穂坂市長は、たった4年の一期で一気に、この地方自治体の「行政改革」をやってのけて、去る6月末に市長を引退されているのである。

 わが町の市長は、3期目11年目を迎えようとしているが、ほとんど「改革」は言葉だけで、議会での責任ある答弁も「権限委譲」と称して部長達にさせて、ご自分はニコニコ、時には首を振って異論ありと振舞われているが、何をどのように変えたいのかの「行政改革」のコンセプトすら見えない体たらくである。

 こんな中で、市職員の不祥事による逮捕、新聞沙汰が何と4件も昨年から今年にかけて発生したことは、まさに会社では社長である、シティマネージャー市長の、やる気のなさ、意欲の欠如が、親の背中を見て育つ子供達の様に、職員に伝わってのたるみとモラルハザードの欠如となっていることは明らかである。

 「改革」は、熱い心と、自分の地位や名誉をかなぐり捨てても挑まなければならない、政治力と既成概念との戦いなのである。

 「改革」の文字や言葉を呪文の様に唱える勢力に、もうこれ以上騙されてはいけない。
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ざっくばらんな思考の空間!

2005年09月08日 | ちょっと可笑しいよ
9月議会が始まったのだが政党所属議員や行政側の都合で、総選挙の投票、開票を終えてからの実質的審議の日程となったため、しばらくは議案熟読日として休会となっている。
 
 私は前々回の総選挙の際に、地方議会が国政選挙のために定例会の時期を遅くしたりするのはオカシイと問題提起したが、大半の多くの議員は当たり前といった感じで、政党候補や支持者の選挙運動の手伝いに奔走してある有り様であった。

私も個人的には支持する候補者は一有権者としてはいるが、ピラミッド的組織での相互扶助の様な選挙協力や支援は、自分の主義主張にそぐわないので、選挙活動の応援はしないのである。

 市内や出向いたところでは、「お忙しいのでしょう?」と必ず念を推すように聞かれることが多いのだが、いつも「いいえ、政党や組織に関係がないので多忙ではありません」と答えているのである。

 しかし、数日一般質問を始めとした、本会議審議や所属委員会での議案審議や事務調査として、事前に通告してある所管事項についての、議員としての質疑の準備など、結構内々にしなくてはいけない作業というか、調査や原稿書きがいっぱいあるのである。

 そこで、あまり国政選挙のため、市内に選挙カーが走ってくることが少ないせいもあって、選挙ムードが全く感じられない、市内のターミナルの近くの、私が時々仕事の疲れを癒したり、公私の切り替えに使っている喫茶のできる空間で、暫くは沈思黙考というのか、思考の時間を持つことが出来るのである。

 そこは、ある大きなスーパーの中にある、ベーカリーショップなので、好きなパンと飲み物で、ゆっくりと寛ぎながら、小さなメモや質問通告書のコピーを見ながら、こまごまとして詳細について、考えをまとめたりメモしたりする特別な空間となるのである。

 主に買い物客であるご婦人たちと、ご年配が多いのだが、付き添いなのかご自分の買い物のためなのか不明なのだが、最近は老壮年の男性の姿も多く見受けられるのである。

 小さな子どもをショッピングカーに乗せながら、買い物をしている若い奥さんも多くて、その姿を見ながら、市民、住民の立場での疑問や問題点などをも考えつつ、自分の視点での質問の言葉や発想をまとめる、いいひと時となっているのである。

 学生時代の試験前の勉強の様に、また新聞やテレビ、インターネットからの情報や資料も大切なのだが、ざっくばらんな庶民の生活の一ページと言おうか、お買い物途中の姿や顔立ちなどからも、いろんな問題点や苦労に気づくことがあるのである。

 私は、組織や政党に制約されない、一市民としての生活感覚から、いつも行政に対しての素直な問題提起や批判と共に、具体的な提案を旨としている、一般的には「市民派議員」と自他共に認めるスタンスでの、議員活動を心がけているので、常に一般的庶民の日常の中に、目線を置いておく必要を強く意識しているのである。

 普通のおばちゃん、おっちゃんの日常的生活感覚を知る、ひとつの場所として、こうしたスーパーの一角にあるベーカリーの喫茶コーナーは、自分自身の思考の原点としても大切であり、小腹が空いた時や気分転換の場所としても活用しているのである。

 国政選挙の真っ最中ではあるが、常に市行政の改革と、具体的に住民のために何が必要で、何が出来るかを、じっくり思考しながら、アイス珈琲を口に運び、大好きなパンをつまんでいるのである。

 『ざっくばらんな思考の空間」は、私にとっては、とっても心と体を癒せると共に、新たな活動や発想のエネルギーの充填基地でもあるのだ。

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議員の出席日当はいらない!

2005年07月19日 | ちょっと可笑しいよ
 地方自治体の議員になって14年の歳月が流れ、いつのまにかベテラン議員などと言われかねない4期目の任期半ばにさしかかっていて、先日は市議会議員としての10年表彰なるものを自動的にいただいた。

 この市議会議員10年表彰は、実は8年前に町から市制施行に移行したため、町議会議員として6年間、そして市議会議員と呼ばれて8年という経験なのだが、以前は何故か町議会時代の年数は1/3と計算する規定だったのが、最近1/2に改定されたため繰上げ計算の上、11年となると言うことでの表彰の様であった。

 私は、こんな表彰は嬉しくもなく、貰いたいとも思わないが、規定に反対しても始まらないので黙っているが、ある嘗て議員の間でボス的存在だった元議長議員なんぞは、「そんな副賞の表彰なんかいらんよ」と議場でやじった上、受賞されていたが、必要も活用もされないバッジがケースに入った副賞だった。

 議員活動を続ける中で一番不思議な手当と言うのが、「費用弁償」と称する、議員の議会出席日当である。我が市議会では条例により、一日3000円と規定されているのだが、議会に出席するのは議員の最低限の責務であり、たとえ5分の会議でも、必要経費に充当するためとしての、一回3000円の手当は多すぎるし、たとえ交通費としても、小さな市内の何処から来ても、せいぜい500円程度で済む。

 しかし共産党をはじめ、私達以外の会派は、この日当3000円に意外と執念の様に、こだわっていて、私達の提案した「費用弁償廃止の条例案」は何と2vs17で、あっさりと否決されてしまったのである。

 私は、前期の議会活動でも、ずっとこの費用弁償と言う名の、お手盛り手当に反対の意を唱えており、今期に入った2003年5月からは、年に4回ある議会定例会を中心とした、議会出席の都度支払われる「費用弁償」の受取拒否を続けており、現在は2年数か月分の50万円近い金額が、市役所から法務局への供託という形で預けられているのである。

 受け取らないので返金するという、普通の意思行使が出来ないため、市役所に返金すると「政治家の寄付行為に抵触し、公職選挙法違反になるとして、止む得ぬ措置として、法務局への供託という中途半端な措置を続けているのである。

 たとえ50万円でも、貴重な税金による財源になるのだから、有効に住民のために使っていただければ幸いなのだが、なかなかそうは行かないのである。

 この「費用弁償」の議論をする中で、ある議員は一番市内の遠方からタクシーで往復したら3000円以上経費が必要だとか、ある議員は、自家用車で往復するガソリン代は100円程度かもしれないが、車検費用や保険代もかかっていると、まじめに訴えつつ、もらえる金は、たとえ500円でも多く、屁理屈や特殊な事情を訴えても、「もらわな損だ」と言う様な、お粗末な議論であった。

 議員は、市の行財政の公平克つ平等な執行のお目付け役であり、無駄な税金の歳出などのチェックをすべき責務を担っているはずなのに、自分達に支給されている議員報酬が職務に対する報酬であり、議会に出席するために市役所を往復する経費などは、当然これに含まれているものと解釈すべきだと思う。

 しかし実態は全国各地でバラバラであり、現在も府県議会や政令指定都市の議会議員では、費用弁償が一日1万5千円も出ている自治体もあって、大阪府では問題の公務員厚遇批判の大阪市をのぞく30余の市町村議会で、この費用弁償は既に廃止されているのである。

 京都府内の自治体は遅れていて、わずか2.3の自治体のみが、費用弁償は必要経費、すなわち交通費実費程度に削減し、細かい規定で縮減して支払うように、改めているだけなのである。

 天下の共産党も、はぎれが悪く、実情に合わせた額に減額も検討すべきと、議会では費用弁償廃止案に、反対しつつ討論で、そのように主張しながら、改正案あるいは修正案を出さずに、貰い得を続けているのである。

 たとえ少額でも、公費であり税金である。議員自らが自分達の報酬、賞与のあり方も含めて、この費用弁償や政務調査費の使い方なども、厳しく精査した上で、行政を執行する市長を筆頭とする市の幹部職員に、厳しい行財政改革と、無駄を少しでもなくして住民サービスの向上を訴えたり、提案できるものではないだろうかと思うのである。
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政治家に欠けるモラルと良識

2005年06月22日 | ちょっと可笑しいよ
 市議会議員を永年やっていても、いつも疑問に感じることが多くある。ひとつひとつ書き出せばきりがないが、とにかく議員の常識は市民にとっては非常識なことが多いことである。

 何が違うのかと、よくよく考えてみると、自分達が選挙で選ばれる時は、「有権者の皆さんの代表として」などと演説したりしているのに、議員となって議会人となってしまうと、自分を取り巻く利害の代表者となってしまって、一般庶民、有権者の「市民感覚」から全くかけ離れた「常識」や「面子」で行動したり、言動を繰り返している方が、あまりにも多いのである。

 要するに、「社会を良くする」ためには、何が必要で、どういうルールに則って、公平かつ正しく生きるかではなくて、どうすれば自分と自分を応援してくれる人々の利益や立場を守れるかに、大きな選択の意思があるのである。

 つまり社会的ルールを作ることの出来る議員なのだが、自分達の都合のいいルールを作って、利害が対立する人々の中で、自分達を支援するグループの利害を優先しているだけなのである。

 憲法、法律、条例、規則などが細かく規定されていたり、マニュアルが定められていたりするわけなのだが、行政マンも政治家も、これにただ従うだけではなく、このルールに如何に、社会的モラルというか、社会的常識を加味して、判断できるかが問われているコモンセンス、すなわち良識なのではないだろうか。

 しかし実際の政治の世界を見れば、誰もがわかるように、小泉首相の靖国問題や歴史認識問題、また国連安保常任理事国入りなどに対する発言を聞いていても、他人ごとのような開き直り的発言に終始しているのではないかと感じている。

 アメリカに追従し、日本が米国の51番目の属州と化した今、一国の首相の発言とは思えない、アメリカのご機嫌とご都合を伺う発言ばかりが目立ち、日本国民の意識や気持ちを第一優先していると思える発言はほとんどないと言っても過言ではないのである。

 一地方議会の市議会議員という立場から、他の多くの議会人をみていても、ほとんど同様の感想を持っているのである。

 ある市長与党と称するベテラン議員に問うたことがある。「何故、この議案に賛成なのですか?」と私は、その賛成の理由もしくは背景を聞いたのである。返答がつかさず返ってきた、「だって俺達与党だもん」「うん?}「いや、そう言う立場ではなくて、賛成の理由を聞いているんです」と再度問えば、「何でおたくに、そんなこと言わんとあかんねん」と言われて絶句したのである。

 つまり賛成の理由などなくても、与党として市長提案には賛成するのが当たり前なのである。つまり議員としての行政に対するチェック機能も批判力も全く持ち合わせてなくて、市長に全面的に協力する議員集団として、与党と名乗っているだけなのである。

 何故か、それは選挙戦においても有利であると思っているからであり、市長の支持母体や、背景にある経済団体や有権者の関わる組織に、選挙における協力や資金を仰いでいる場合も多くて、持ちつ持たれつの相互扶助関係であるのである。

 政治家としての資質に欠くと言うか大きな問題なのだが、本人は全くそれが妥当な判断だと思っているわけで、それ以上は考えないのであって、多様な選択肢の中から賛否も含めて判断する時の最大の理由が「市長とその背景にある利害集団の意向」であることに何の疑いも感じない人たちなのである。

 私は少なくとも、多くの普通の市民、有権者にとっての最良策を検討して、議論し、多様な選択肢を先進例や学者や調査実態を参考にして、賛否の選択には慎重な審議と問題提起が必要だと感じて活動しているのだが、賛成の理由をあっさりと「与党だから」と答える議員連中とは、議論もなにも出来ない空虚さしか感じられないのである。

 政治家に欠けるものは、一般社会のモラルと良識であると言わざるを得ないのである。
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前例主義って?何やねん!

2005年05月30日 | ちょっと可笑しいよ
 後2日で5月も終わりである。日の経つのは早いもので、もう6月議会と称する、地方都市の市議会の開会に向けての最初の議会運営委員会が開催された。

 特に大きな議題はないようだが、第3次総合計画の基本構想のまとめが議会に上程されて、議決を要する案件として上り、特別委員会を設置して議論することとなったが、10年前、20年前の最初の町の総合計画策定時と第二次総合計画策定時に、議会に特別委員会を設置して、各々2日間の審議を行って、賛成多数で議決したとの記録から、今回も同様の手順で審議することとなったのである。

 議会は、常に前例主義であり、ちょっと議論が分かれたり、決めかねたりした場合も必ず、条例、規則で決まっているもの以外は、申し合わせによるものか、前例に倣って行うことが常識となっており、じっくり、ゆっくり、その場にいるものが議論したり、検討したりするより、今までどうやったか、他市においてはどうか等が問題であり、先例、前例として大きな決定要因となるのである。

 議会運営委員会後、私の所属する委員会の提出される議案の担当者による説明を受けたのだが、その非公式な席上ではあったが、私がねその議案に関連した「資料の作成と委員会への提出」を求めたところ、「部長に相談して検討します」との返答であり、「お手数をかけるがお願いします」と重ねてお願いしても、「前例がないので」と躊躇されるのである。

 私は、こうした悪しき前例主義は、特に行政に携わる担当職員たちの常識となっている模様で、自分達の担当所見で、必要なものは自己判断して、よりよい議論を進め、より前進した理解をしてもらうためには、積極的に「わかりやすい資料」の提出は委員会審議前に、必要だと思っているのだが、何とも担当者の消極的な反応には、改めて驚いた次第である。

 「前例主義」でものごとを判断することは、担当者にとって楽であり、新たに考えることも入らないし、責任も問われないので、結局職員が仕事を新たに作らないための、行政職員側の都合の良いやり方が、通例として、前例になっている場合が多いのではないだろうかと思っている。

 積極的に、前例にとらわれず、大いにお互いに議論や問題を深めていくためにも、少しづつでも一歩一歩、前例を新たに作って行く、新しい前例つくり主義で、議会や委員会は歩めたら、きっと新しい、まちづくりに近づくのではないだろうか。
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談合国家の証明

2005年05月24日 | ちょっと可笑しいよ
 やっと告発されたかと言った感じで、「橋梁談合事件」を伝える新聞、テレビ見ている国民、納税者が殆どではないかと思っている。

 私自身は、15年目になる地方自治体議会議員として、今まで何度も直言もし、角度を変えては「談合癒着の行政と業界」を正すべく質問や、問題提起を繰り返してきているが、行政側の答弁は、いつも「私達は談合が行われているとは思っていない」とか「公正な入札が行われている」としながら、一方で「入札改革を進める」とか「IT入札を検討する」などと二枚舌というか、矛盾した見解を重ねて、結局、自分達の責任で、今までの悪しき習慣となっている、「談合実態」にメスを入れられないである。

 度々の問題提起なので、もう両者とも、またかと言った「馴れ合い」の様な議論が続き、いい加減に「無責任な答弁はするな」と怒りをぶちまけたく思うこともしばしばであった。

 でも私は諦めない。「高値談合落札による税金の無駄使い」が改まるまで、地方議会でも精力的に、この「談合実態」の改善に努力していくつもりである。

 このたび4年の議員任期の後半に入り、「建設経済常任委員会」の委員に加わったのも、談合実態の改革をはじめとする、地方自治体においても公共事業の、スリム化、市民が優先順位や規模なども、政策立案過程から意見や提案もできる制度をつくるためにも、多種多様な地方自治体経済の緊迫化を否めない事態での打開策を模索しなければいけない時代だと認識しているからである。

 いつも「理想論」では事が前へ進まないかも知れないが、私は常に「人間は理想や夢を持つから、明日へのエネルギーがわく」と信じているし、常に「正攻法」けで問題提起や対策案の提示を、できるだけ他市や前例などを参考に学びながら、し続けたいと思っているのである。

 日本は戦前は知らないが、今回摘発された「橋梁談合」でも昭和30年頃から半世紀に及ぶ、談合のための業界内グループがあったと報じられているように、国、府県、市町村の行政側も、その事実や実態を概ね把握していても、自分達は税金の配分をするだけで、血税を出来るだけ節税すると言った気概や意識もなく、業界に一任して、自らの責任を放棄していたとしかいい様のない癒着ぶりなのである。

 いまさら説明もいらない問題だが、例えば1億円の見積もり、予定価格がはじき出されていても、いろんなスケールメリットや値引き、人件費の精査やチェックで、2割から3割の削減は可能な予定価格ではあるのだが、ほとんどの落札は90パーセント以上、すなわち9千万円以上、中には9千9百万円でも、競争入札の結果として、問題なく契約が議会などで通過してしまっているのである。

 普通、私たちの常識から言うと、高価な電気製品などを業者の言い値としての価格で買う人などは、ほとんどいないはずである。つまり電気屋と交渉するか、廉価販売で宣伝している大手量販店に行って、少なくとも何割かの値引き値で購入するのではないだろうか。

 そういった感覚が行政には全くと言っていいほどなくて、たぶん自分のお金という意識も無く、予算内であったら全く問題を感じない、他人のお金という意識で、事務処理しているに過ぎないのではないかと疑いたくなるケースが殆どなのである。

 業者、業界とも問題を起したくもないし、もめたくも無い。しかし公務員たる者は、多くの国民、納税者の税金で、お給料をいただき仕事させていただいているはずなのだから、国民、納税者にとっての利益や、優先順位を見極めて、慎重かつ大胆に、税金の無駄遣いにはストップをかけてもらわないと困るのである。

 土建国家ニッポンは、その業界と自民党をはじめとする権力を有する政治家達との癒着「談合」でお互いの利害だけを優先、保全するために奔走し、行政公務員は、そのシステムに従い事務処理だけを遂行する、係員と成り下がっているのである。

 ニッポン国、政府、官庁を筆頭に都道府県、市町村に及ぶ全ての公共事業、つまり税金で行われる施策の大半が、こうした談合体質の利害を優先したシステムで、税金がばら撒かれて、民主主義といわれる選挙が、こうした利害に左右される力関係で操られているのである。

 決して、実は公共事業に留まらず、民間ビジネスでも大なり小なり、業者間の癒着やお付き合いは、談合国家の構造上ありえるのだが、税金の公平かつ公正な配分としての公共事業における、この談合体質を脱出
しなければ、日本の政治の民主化など「絵に描いた餅」同然のこととなってしまうのである。

 「理想や夢」に向かって一朝一夕には進まない「談合を止めた公平な自由競争による」公共事業の入札改革を推し進めたいと思っている。

 6月議会が近づいているので、改めて建設経済委員としても、この談合問題を地方自治体議員として再度厳しく追及し、提案して行きたいと考えている。

 
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実録!議会人事抗争

2005年05月18日 | ちょっと可笑しいよ

 地方自治体議会の多くは任期の4年間に、1人でも多くが議長をはじめ、いろんなポストにつきたいためか、2年の半ばで役員選挙のための臨時議会を開催しているのだが、わが市議会でも役員改選のための一日間の議会が開催されたが、常任委員会の委員長ポストで対立し深夜になっても結論が出ず、ついに一日延会となったのである。

 議長、副議長人事のしこりが延々と続き、市民そっちのけの議会人事、つまり役員選挙とポスト獲得抗争は、議会議員にとっては死活問題の如く燃える問題なのだそうである。

 何日も前から、議長、副議長に関しては、根回し、下工作、条件提示などがあるらしく、いろんな制約の中で、票をとりまとめて表舞台である、臨時議会が始まる前にすでに決まっているらしいのである。

 私も一議員として、いつも議長、副議長を選ぶ前に、立候補するか推薦の演説をするかして、誰が議会議長にふさわしいかを、議員全員で議論する機会を持つべきだと主張しているが、いつも蚊帳の外というか、誰が候補者なのかも知らずに、選挙をする臨時議会当日を迎えているのである。

 少なくとも民主主義を前提とする議会議員の中から議長を選出するのだから、せめてどの会派や政党も、誰を立候補させるか推薦するのか、明確に候補者を事前に公表し選挙すべきと考えるが、未だ実現していないのが現状である。

 つまり議会は民主主義を標榜しているだけで、実は数の論理すなわち多数を占める議員さんたちが徒党を組んで、自分たちの利害にそった議員を、みんなの結束で縛って投票させて、結局自分たちのいいなりの存在としての議長、副議長にしようとしているにすぎないのである。

 適材適所とか一番ふさわしい人を選ぶなどといいながら、与党と称する政党、会派ののひとかたまりのグループの意のままに、議会を代表する人を談合で決めてしまっており、市民や行政に対する議会としての機能の向上や改革の意志とか、政策的主張などは、全く関係無いことなのである。

 このような議会人事の決め方の有り様は、まるで暴力団の縄張り争いの抗争のようなもので、理屈や理念はなく、ただただ我が勢力の内の仲間議員を強引に推して、最後は数の力でも決めてしまおうとする、暴挙が多いのだが、過半数以上を占めるグループの当然の権利のように、毎回同様に非民主的にされれており、私なぞは、いつも関係ないのである。

 あえて、議会人事抗争と書かざるを得ない現状を実録として、お伝えしなければならないことは、誠にお恥ずかしいことなのだが、民主主義を標榜しつつ、まったく横暴な人選といおうか、力関係だけでの選出を無理押しする場合が多いのである。

 今回の議長、副議長人事も、ほんとに適任者が議員の中にはいないと思わざるを得ない状況下であったが、やはり与党と称する議員達の間での取引か駆け引きがあったために、少数会派である公明党が議長に、次の少数会派でもある自民党が副議長として選出されてしまった。それも20人の議員の11人で全てが決まるのである。

 その後の各常任委員会の委員長、副委員長の互選で、一つの委員会での委員長に、いわゆる与党推薦候補と野党的少数会派の議員の立候補があったため紛糾し、昨日の午後から今日の午後まで、まる一日近くを費やして両候補が辞退して、第三者候補で決着を見るという議長提案で何とか決着したのである。

 しかしこの結論への過程では、与野党の両陣営というか、ぶつかり合いはとても疲れる議論であって、毎回平行線の意地の張り合いというか、静かな両陣営の主張と我慢の耐久戦となってしまい、双方とも譲れず、一日間の議会の延会を余儀なくされたのである。

 ひとことで感想をいえば、つまらぬ意地の張り合いで議会が空転し、行政サイドにも多大な迷惑と時間の無駄を生み出した上で、今後の議会運営上も大きなしこりや支障が生じる火種を内含しつつ、もうこれ以上は時間的な猶予は許されないとするぎりぎりの時点で、不満たらたらの陣営もあったが決着させたというのが、最後の議会の良心、良識としての決着であったと思えるのである。

 事実は小説より奇なりであり、どろどろとした遺恨の戦いは、市民や周囲には想像できないパターンや状況もある、一種の修羅場的抗争の時間であったと言えよう。

 今後は、政策論議や提案検討など、市民の目線と感覚にこたえる、真摯な態度での徹底的な議会活動を展開して、少しでも住み良いまちづくりと、心通う市民サービスを提供できるように、議会の活性化と共に、行政に注文や苦言を呈することのできる民主的な議会となる様に、全議員が努力することでしか、市民の批判に答えることは出来ないのではないだろうかと思っている。
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事なかれ主義?

2005年05月10日 | ちょっと可笑しいよ
 納税者にとって、自分達の支払っている税金が、どの様に使われているのか関心のない人はいないはずである。しかし大阪市だけではないが、全くあきれてものが言えないくらいに、この住民から預かっている貴重な税金を、我が物顔で自分達の営利や身の回りの都合で適当に配分しているとしたら、納税者は怒るに違いない。

 でも、怒る様な現実が、国でも府県でも市町村でも平気で行われている。何故かというと「歴史的経緯があって」とか「前任者の時代からそうなっているから」など、全く自分の責任でしている事業や予算に対して、改めて住民の視点や生活者の感覚で精査することなどしないからである。

 彼ら公務員と言う名の「らくちん貴族」たちは、一応に個人的責任だけは、何とか回避するための対応や口実の巧みな専門家に、いつのまにかなっていて、60歳の定年を迎えて、役所を去るときには、ほとんど全ての公務員が「永年役所にご厄介になり、大過なく過ごすことがせ出来たことを感謝して」辞されるのである。

 私は、この大過なくと言う言葉を聞くたびに、「何も思い切った決断や積極的な仕事を避けて日々を過ごせば」そりゃぁ大過などありえないわけである。つまり「事なかれ主義」とでも言うしかない姿勢で、イエスマンとして、上司の言う仕事をそつなくこなしながら、特別な研究や努力もせずに時間を費やして、何か問題提起や苦情がまいこんだら、その理由として「条例、規則で決まっている」「行政は民間同士の係争にはかかわらない」「歴史的経緯があって、そうなっている」「前任者から聞いていない」などと逃げるのである。

 ほんと天才的な無責任ぶりが、「大過なく」30年から40年前後、公務員としての生き方のモデルの様に、先輩諸氏たちから受け継がれていて、ほとんどの公務員は、仕事時間ないでも時間を持て余しており、「事なかれ主義」が一番の得策と心得て、日夜そうした対応や口実の経験やマニュアルの勉強をしているのではないだろうか。

 最近も、近所に私の議会活動報告の、議会通信を配ったのだが、一日にひとりか二人の住民から電話がかかってきて、私の議会活動に関する質問や問題提起などに、触発されて各々の行政への不満や意見を語ってくださる方が増えているのである。

 ほとんどが定年を迎えられた中高年の熟年男性であり、「民間企業ではありえない」いい加減さやコスト削減へのむ努力のなさや、市職員の仕事振りへの不満や人員削減の提案やら、「あきれてものが言えない」数々の事例を出して、訴えてこられるのである。

 その都度、住民の方々のお話を電話口で聞いたり、時にはその方のお宅に伺って、じっくりと顔を見ながら話を聴くのだが、私自身の返答は、「私もそう思います」しかし市職員の多くは、こうした市民、住民、納税者の切なる願いや指摘に対して、真面目に対応できる人はほとんどいないのではと言わざるを得ないのである。

 つまり彼らは、永年の公務員生活のコツとして学んできたことが、「事なかれ主義」そのものであり、聞いてもまともに対応せず、自分の仕事とはせずに、他の部署にふるか、担当者に伝えておくに留まっていて、結局、市民、住民、納税者の意見や要望、怒りなどは、何処かへさらっと流されてしまい、責任ある回答などは、ほとんど返ってこないのである。

 こうした状況、現実を住民、市民と話していると、本当に空しくなったり、寂しくなったりしてしまうのである。もっと熱くて、ものごとを真剣に考えて取り組んでくれる、行政マン公務員の登場を期待してやまないのだが、新人もいつか先輩諸氏に教育されてか、全く普通の「事なかれ主義公務員」になってしまうから不思議なのである。
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大人にならない議員

2005年04月21日 | ちょっと可笑しいよ

 私は4期目の地方議員をしている。現在4年の任期のちょうど中間点で、我々の市議会でも「役選」と呼ばれる、議会の申しあわせによる役員改選の時期を迎えて、来月臨時議会を開いて後半の議長,副議長をはじめとする議会内役職や所属委員会ポストなどを決め直すのである。

 この「役選」のために今から約1ヶ月近く、前哨戦と言うべき党利党略による議長や役員ポストへのアプローチが始まり、いろんな話し合いというか、裏工作、取引などが行われるのが常なのである。

 しかし私自身は、こうした役員選挙には興味がほとんどなく、そのためにエネルギーを費やしたり、時には長時間をかけて交渉したりして、自分または自分の推薦する候補者への票の獲得のために走り回ることの愚かさを知っているつもりであるので、暫し静観しているのであるが、既にそのための動きが始まっており、水面下では戦々恐々としているらしいのである。

 私が3期目の当選を果たした直後の臨時議会での「役選」前に、こういうことがあった。
年配のベテラン与党議員が珍しく私のそばにやって来て、私の肩に手をやって「君もぼちぼち大人になりぃな」と言われるのである。
 
 私はすぐさま心の中では「あんたの言う大人にはなりたくない」と思っていたので、笑いながら「はぁ、」とつぶやくに留まったのであるが、彼は続けて「悪い様にはせんから」と言うのである。つまり自分達の言うことを聞く「大人」になったら、いいポストをあげるよと言わんばかりのお誘いだったのである。

 私は意地を張るつもりも頑固なわけでもないが、彼らの言いなりになるような議員にだけはなりたくないので、再び心の中で「子どもで結構、あなたたちの言う大人にはなりたくない」と思いながら、どの社会でも、こうしたお誘いや甘い言葉で、人々は「大人」という階段を登ったり、踏み外したりして行くのだなぁと思った次第なのである。

 つまり議長や委員長のポストに付きたいのなら、どんな意見や理念の異なる勢力であったとしても、数の論理で勝つグループの支持を得なければいけないわけで、自分の政治的信条や支持して下さっている有権者の期待や思いなどは、どうでもよくて「大人」を振舞う人が多い様な気がしてならないのである。

 この役選のための臨時議会は、もめることも多く結論を出すために深夜に及ぶこともある。2年毎の議会のイベントのようなものであり、大半の市民、有権者にとっては、どうでもよい内容であると思えるのだが、日常の議会活動ではあまり発言や議論に加わらない議員が、とんでもないエネルギーで動き回る場合があるので不思議である。

 私の議員としてのスタンスは、既成政党や大きな組織、支持バックなどない、市民派無所属なので、全くこうしたエネルギーは馬鹿げていると思うのだが、政党に所属する議員や自らが名誉職として、いいポストに付きたいと思う人にとっては、この決定のために心血を注がれるらしいのである。

 市民にとってのベターな選択となる行政施策についての議論や提案に、何時間を費やしても私は市民が理解できる結果を導くことが出来るのなら努力は惜しまないが、議長や委員長ポストなどを我が陣営にゲットするための議会審議に心血を注ぐ気は全くないのであるが、さて来月の臨時議会はどうなるのだろうか。

 他人ごとの様だが、私は役選の臨時議会よりも、次の6月議会へ向けての準備や質問、提案、問題提起への勉強や市民の声を聞く機会をたくさんつくる方が興味があるし、その方が充実した議員活動と思えるので、今回も「大人にならない」議員として、わが道を静かに歩みたいと思っている。
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