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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

困った爺さん!

2012年10月29日 | ちょっと可笑しいよ
三日前に突然、石原慎太郎都知事が記者会見し、任期半ばまだ2年以上を残して都知事を辞任し、石原新党なるものを結成して、再び衆議院選挙に政党条件を満たせば比例区で立候補して、日本の没落を救うために戦うのだと公表したのである。

 80歳に先日なったばかりなのだが、どうやら自民党の総裁選挙で息子の石原伸晃当時幹事長が安倍新総裁の再出馬に負けてしまい、野田民主党も安倍自民党もだらしないから、自分が最後のご奉公をすると粋がって第三極の結集を目指して親分になるという、相当思いあがった宣言をしたと感じた。

 芥川作家として太陽族などと言われた時代の落とし子であったのだが、石原裕次郎の兄ということもあって絶大なる支持者に支えられて、東京から衆議院議員に当選し、参議院議員とあわせて25年の国会議員表彰を受けて、その国会での演説で国会議員を辞職することを宣し、その後東京都知事を3期12年務めて、昨春に引退かと思われたのに再び「やる」と出馬、当選したのにも関わらず、中途半端に「投げ出す」結果となった。

 国会議員としても環境庁長官や運輸大臣という大臣経験はあるが、当時「青嵐会」と称した非常に右翼的な思想を背景にした施策を目指していたし、自民党の中でも特異な存在だったのだが、国会議員、都知事という政治家として権力を行使する立場から、障碍者や中国、韓国などアジア諸国の人々、またホームレスや社会的弱者に対して、とても差別的な言動や行動をとるというおっさんであったと記憶している。

 今回の新党結成に向けてのスローガンでも、憲法を米国に押し付けられた憲法と断言し、世界に名だたる平和憲法を全く評価せず、新憲法を制定すると語り、つまり軍隊を持ち戦争の出来る日本、アメリカにでも追従せずに軍事力で対等に交渉できる国にしたいらしいし、原発についても当然必要との見解を示している。

 政策面での考え方や個人の人格をとやかく言うつもりはないが、どう見ても現在まで政治家として生きてきた人と言うよりも、自分は芸術家気取りで、自分より偉い者はいないと思っている、やたら上から目線ばかりのお爺さんなのである。

 田中真紀子現文部科学大臣に言わせば、間違いなく「老害」の如く語られていたし、平沼赳夫氏を代表とする「立ち上がれ日本」と合流する形で、現職の国会議員5人以上という政党条件をクリアして、次の総選挙にのぞむらしいが、平均年齢はゆうに70歳を超える「超老人政党」の誕生となるのである。

 ともかく、記者会見でも苦笑いしながら、「なんでこんな年寄りがやらなければならいないのか」、「もっと若い奴が出て来い!」と言いながら、多くの記者に取り囲まれてのインタビューを楽しんでいる様子であり、橋下「日本維新の会」や渡辺「みんなの党」、また河村名古屋市長の「減税日本」などとの連携、連帯を目指しているらしいが、まったく期待するところはない。

 80年の人生で、政治的には晴れ舞台におられたが、新東京銀行の大失敗や東京オリンピック誘致運動の挫折なども含め、東京都知事としての功績もあまりなく、ただ威勢のいい勝手なええとこの坊ちゃんが、間違って直木賞など貰ったものだから、調子に乗ってしまって、ここまで自分が一番偉いと思ってしまう爺さんになってしまった感が否めない方である。

 ようやく始まった臨時国会で、野田首相は衆議院本会議での施政方針演説をし、問責決議をした自民党、公明党などの反対で、参議院では演説ができなかったらしいが、施政方針演説などは1度でよく、肝心なのは国民のための政策推進の実質的議論と法案の成立であり、総選挙をめぐる解散要求などの攻防はやめ、国民目線の国会に早く戻して税金泥棒の国会議員と批判されない役割を、ちゃんと果たしてほしいものである。

 新党や既成政党とか○○党に期待なんか、とっくに国民の多くはしていません。ましてや老害的政治家の出番はもううんざりです。新党を作ったり、幾つになっても立候補するのは自由ですが、国民、有権者を舐めたらアカンぜよ。
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若年性認知症!

2012年09月10日 | ちょっと可笑しいよ
昨夜あるテレビ番組が「若年性痴呆症」の特集をーしていたので、ついつい観てしまった。

 一般的にはアルツハイマー型とか言われている認知症やパーキンソン症と言われる症状などを発症している高齢者を何人も知っているし、私の母も立派?な高齢による認知症を患ってはいるが、ある時期から以降は、さほど気にならない程度で日常生活を有料老人ホームでおくっていて、たくさんの職員のむ人たちや同じフロアの入居者と共に、支えられながらの日々を過ごしている。

 しかし、昨晩放映されたテレビ番組で紹介されていた「若年性痴呆症」の患者さんと言うべき方々は、自宅で生活しながら、連れ合いさんである夫や妻に全面的にサポートしてもらいながらの日々をおくっておられるお二方であった。

 お一人は著名な飛び出す絵本のデザインを手がけておられた女性だったが、何と45歳の時に発症されたみたいで、すぐに仕事ができなくなって、ご主人も仕事をおやめになって、自宅での看病とでもいうべき生活と葛藤がはじまったのだそうだ。

 もうお一人の男の方は仕事人間として社長まで務めた方だったが、50代後半になって急に仕事の処理や部下への的確な指示などがたそうで、やむにやまれず退職し、自宅にこもってしまい奥さんが何から何までをサポートされる日常生活となられたそうであ
 しかし、ご両人とも結構明るい面を洩ってられ、女性は若い時代からダンスが大好きだったとみえて、旦那さんが音楽をかけると自然に体を動かしてステップを踏んだり楽しそうに踊りだされるそうだし、男の方は自分の新婚旅行の思い出や昔奥さんとピアノの連弾をされるほどピアノがお好きだったらしく、認知症を患って後なのにも関わらず、記憶の底にある奥さんとの連弾を楽しむことが出来ると言った得意な世界があって、その場面だけを見ていると、まさかの若年性痴呆症患者と思われるのであった。

 昨今にはじまったわけではない、現代日本の少子高齢化の傾向はますますエスカレートすると言われているのだが、私たちの団塊の世代がいわゆる社会的高齢者としてカウントされる満年齢65歳を過ぎると、もはや若年性とは称されないらしいが、現在日本国中に推定で4万人から6万人もの若年性痴呆症と称される症状を発症している人がいると思われるのだが、なかなか相談や治療の窓口が高齢者の医療や介護とは違って見当たらないケースが多いと言われている。

 とにかく、家族や仕事仲間が何か変だなと感じたり、いままでの動作や仕事ぶりなどが急に可笑しくなったり、遅くなったりとかの変化に気づかれたら、早期に診察、治療を受けられることが望ましいと思われ、根本的な原因や決定的な治療方法は定かではないむーらしいが、やはり早期発見が、症状の進化や進行を遅らせることなど研究と臨床が進んでいるらしいので、専門の医者かかかりつけ医に、まず行く必要があるというのである。

 昔、昔の人生50年と言われていた時代にはたぶんなかったと思われる「若年性認知症」と称される病状事例が多く存在していて、一方で90歳を過ぎても、ともかく元気で働いておられる方々もーいるという現実を垣間見ると、何と人の人生、生き様は不公平だととも思われるが゜、決して若年性痴呆症だけではないが、病気を発症した方々の家族の方々が不幸であったり、不運だったりと落胆されずに、日々の生活を少しでも足楽しく有意義に過ごされることを願いつつ、長年連れ添った配偶者の方々の献身的なサポートと想いに敬服する感じの特集でもあった。

 誰もが、出来るだけ健康で家族や周りの方々に迷惑をかけず生活して、長生きしたいと願っておられると思うのだが、いろんな病気や体験を通じて、特別な感情や人間の良さを体験される方もおられると感じつつ、恥ずかしがらずに出来るだけありのままの自分をさらけ出して生きたいと改めて教えられた特集でもあつた。感謝。
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下克上かガラガラポン!

2012年09月09日 | ちょっと可笑しいよ
国民のための最高決定機関であるはずの「国会」は、民主党代表である野田佳彦氏の「問責決議案」という不信任案を参議院で、少数野党7党の提出した「消費税値上げ」などを決定した三党合意を批判する内容なのにも関わらず、自民党総裁の谷垣氏の対応決定で賛成に回り、可決されてしまったために、にっちもさっちも国会は動かなくなってしまい、無駄に時間が過ぎて自然閉会となってしまったのである。

 国会議員の先生方は、今や「国民の生活は第二」とばかりに、次の総選挙に向けて、自分たちの生活が第一との思いがあって、各々の選挙区に戻ったりして、如何に次の総選挙で自分自身が有利に戦って、おいしい?国会議員としての特権や名誉、収入を維持できるかというせっぱつまった習性とでも言うべき動きに、誰もが没頭しだしているとしか言えない状況となってしまっているといえよう。

 ここ数日間は、テレビ、新聞を中心とするマスコミの報道も、ともかく自民党および民主党の総裁選と代表選を控えて、野田首相の再選が確実視される中で、民主党は原口元総務大臣や赤松元農林大臣が対抗馬として立候補すると報道しているし、自民党では谷垣総裁の再選は危うしとの見方が強い中、共に野党第一党としての党の舵取りをしてきた女房役の、石原氏が出馬すると宣言し、安倍元首相、石破元防衛相、町村氏、鹿野氏、林氏も出馬の意欲を示していて、まさに下克上あるいはガラガラポン的状況といっても過言ではあるまい。

 そこへ来て、国政への参加を表明している橋下大阪市長むがむ率いる「大阪維新の会」が、「日本維新の会」という名で政党化して、次の総選挙では何と過半数を目標に候補者を擁立するという想いを公表し、今日大阪市内で7人の衆参国会議員と元地方自治体の首長経験者らを含む人たちの参加を前提とした「討論会」なるものを開いたという。

 いずれも、政治的行動や自由な議論、または徒党を組むというグループつくりや、その代表者やボスを決めるために必死になられるのは結構なのだが、そもそも政治とは何か、また何のための政党か、そして何をするために何を考えているのかが、不明確かつ判らないままでの権力闘争や主導権争いでは、まったくもって真の主権者であるはずの我々国民は困惑するばかりなのである。

 民主党も自民党も、その他の野党の国会議員や地方議員たちも、ともかくこの国を治め自らが犠牲になっても、国民の生活と将来の日本の国をどのような方向性と理念を持った国として成長させたり、発展させるのか、それとも少子高齢化に突入しているニッポンを如何に救うことができるのかを、大局的見地からしっかりと見定めて、国民に納得行く説明と共にビジョンを語っていただきたいものである。

 「元気な国」とか「美しい国」または、「根本から変える!」だけでは全くほとんどの国民は、何をどう変えられるのか、またどの人に政治ほ託していいのかが判らないばかりか、選挙そのものに嫌気すら感じていたり、誰がボスになっても「変わるはずがない」という諦めの気持ちが充満している感じなので、パフォーマンス的な「かっこよさ」や「スローガン」だけではなく、本当に信じて託すことができるという確信に近い想いを抱かせてくれる、真剣かつ誠実な人間としての心を見せてほしいものである。

 多くの国民が、ほとんどの人はテレビ、新聞などの報道だけが頼りであり、実際の国会議員や地方議員とひざ詰めで議論したり、想いをじっくりと聞く機会などは少ないので、ぜひブームや劇場型といわれる様な政治ショーや権力闘争だけを見せたりするのではなく、政治家もしくは候補を予定している方の価値観、人となり、性格なども含めた人間性をしっかりと伝えられる報道を心がけていただきたいものだと思うのである。

 いずれにしても、民社党は野田氏が再選されても、次の総選挙では自民党に第一党の地位を譲り、次期自民党総裁になった国会議員が首相になるだろうと言われている現状での、国民不在の両党の代表選と維新の動きは白々しい限りである。
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「立秋」?三党合意。

2012年08月08日 | ちょっと可笑しいよ
 昨日はなんと「立秋」とやらで、暦の上では早や「秋」の始まりだそうである。

 今日の天気予報では、なんと朝晩に少し「秋めいた」気候が混ざり出していると、お天気キャスターは言うのだが、とんでもなく猛暑が続いているというのが実感であり、「暑中お見舞い」も「残暑お見舞い」に変るという、季節の変わり目を迎えているらしい。

 一方、ロンドンオリンピックは後半を迎えていて、女子マラソンは惨敗だったが、なでしこジャパン、女子バレー、そして卓球女子団体と、なんと女性のアスリートたちの活躍が目立っていて、男子は体操の内村航平選手の個人総合金メダルは光ってはいるが、男子サッカーも準決勝のメキシコ戦に負けてしまい、どうもウーマンパワーの方が日本を元気にさせてくれる様子であり、連日深夜のテレビ鑑賞か録画によるいいとこ取りのテレビ鑑賞が見逃せない状況である。

 こんな日本国中を熱狂させてくれるオリンピックの戦いを尻目に、なんと国会では野田民主党と谷垣自民党、それに山口公明党の三党による「三党合意」なる約束が協議の結果ととのって、晴れて?参議院での消費税法案の採決への段取りが整ったとの報道がなされていて、国民の代表のはずの国会議員の先生方の頭の中は、次の総選挙をいつやるかという大問題に終始していると言った情けない状況が続いている。

 何故に、消費税法案の成立の暁には、「近いうちの解散、総選挙」を決断するべきとの自民党の谷垣総裁や公明党の山口代表らの考え方は、ともかく「我が党に有利な時期」は、いつかという選挙に対する駆け引き以外の何物でもない、政局というべきか自己保身に有利なタイミングを計算しているだけの中身であり、どう考えても「解散時期の明言」などという、とんでもない約束を勝ち得ようとする気持ちが、多くの国民、有権者の胸の内とはかけ離れているのである。

 一方、野党と言っても社会党、共産党、国民の生活が第一、立ち上がれな日本、改革?、みんなの党などの少数政党らが中心となつて、内閣不信任案を衆議院に提出する話や、野田首相の問責決議案を参議院に提出する話もあって、とにかく政局重視で、国民の生活が大切なのは当然のことだが、大半の国会議員の頭の中は、自分の生活が一番だと思われる行動や言動でしかない。

 いまだに形の上では政党政治と言われる数の論理が衆参両院でまかり通ってはいるのだが、国民の半数以上が現状では「支持政党なし」と言う、「無党派」もしくは「無関心」という状況であることは現実なのだが、国会の中では「我が党が・・・」とお山の大将の如く振舞っている「先生方」がこっけいですらある。

 ともかく「近い解散」が約束されたとすれば、ともかく政党政治を固守する選挙戦ではなく、個人としての候補者を大きく「ガラガラポン」できる様な選挙をやらなけゃ、この日本、高齢化時代をつき進み、年金、医療、借金、公共事業、公務員給与、学校教育などと山積みの難題を、21世紀の半ばまでに少しでも解決の方向へとリードする強い権限と熱意を持った議員たちにしなければ、この国は人口も減り活気の無い老いぼれた国へと生気を失っていくことだけは避けなければにならないと思うのである。
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エネルギー政策意見聴取会

2012年08月02日 | ちょっと可笑しいよ
 政府が開催しているエネルギー政策に対する国民の意見を聞く会が、7月14日のさいたま市を皮切りに全国各地で行われていて、8月1日にようやく福島原発事故のお膝元である「福島市」で開かれて、東京電力福島第一原発事故で深刻な被害を受けた福島県民と県外に避難した人も含めた30人に限定して発言を許し、なんと9割強の28人が「原発ゼロ」を訴えたというニュースが報道された。

 このエネルギー問題に対する国民の意見を聞く会は、以前の公聴会の様な電力会社の社員らの原発推進意見などをバランス的に採用すると言った意図的な見せ掛けの公聴会ではなく、政府が初めて一般国民の素直な意見に制限を加えずに参加した者のあらゆる意見を聞く会として設定された集いで、今までに福島を含む9道府県で解されたのだが、計1253名もの一般市民が発言し、その約7割がやはり「原発ゼロ」を主張したというのである。

 今までは政府と財界、電力会社が中心となって、できるだけバランスよくといった建前から、反対意見だけでなく原発推進派の意見も意図的に取り入れた形で、公聴会が開かれたケースがほとんどであったために、各電力会社の社員や幹部職員が個人の立場からとは言え、原発の必要性や推進が不可欠との意見を述べて、国民の多くの心情や意見とは大きな隔たりを感じさせていたので、今回の取り組みでやっと多くの国民の意見や思いが出たと感じられる意見聴取会となった様である。

 政府は意見聴取会に際して、今から18年後の2030年に日本のエネルギー政策を、原発ゼロか15%か20~25%程度か、その他と4つの選択肢から意見表明希望者に事前に選ぶ様に依頼した上で、当日の意見表明をさせたというのだが、今回の福島の場合では事前の選択は求めず開催したらしく、初めて9割を超える高率の割合の「原発ゼロ」となったらしい。

 ともかく「福島原発事故」の原因究明だけでなく、安全神話を再び登場させるだけの科学的根拠や背景が明確に全くなっていない状況なのにもかかわらず、夏の電力不足が産業界を中心に停電や計画停電を余儀なくさせるとの理由からか、福井県大飯原発の3.4号機の再稼動を強行した政府なのだが、国民の原発ゼロへの思いは、大多数を占めつつあるという現実に対して、野田首相、枝野経済産業相、細野原発事故担当相も認識が甘い状況が続いていた。

 原発事故の収束宣言や大飯原発を皮切りに次々と再稼動を当然の如く計画している電力会社をはじめ、その背景で見えぬが圧力をかけている利害や経済優先の財界とその力で選挙協力などをとりつけてきた政治家たちが、時間が経てば国民の反原発の動きは穏やかにでもなるだろうと憶測していた真意が見え隠れするのだが、原発への拒否反応や脱原発への国民の願いは益々増大しているという事実をどの様に捉えているのであろうか。

 この聴取会や意見発表機会に参加した人たちだけでなく、一般の国民の大半が「原発ゼロ」への舵取りを期待しているという現実は、もう減退するどころか大きくなる一方であり、2030年を待たずして出きるだけ早急に脱原発への政策決定を待ち望んでいるのことは明らかなのである。

 こうした民意と反する政府や政党内の国会議員の意見や経済界の大きな反発意見に対して、野田首相を中心とする現民主党政権が、脱原発依存方針への決断をすることができるかどうかだけが、今後の大きな国民の注目の的であることは確かなのだと断言できるのである。
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怒る人、切れる人。

2012年07月23日 | ちょっと可笑しいよ
 以前にも私のブログで書いたことがあったかも知れないのだが、ともかく世の中が忙しいのか、人間に余裕がなくなったのか、ちょっとしたことで怒ったり、切れたりする人間が増えていることだけは間違いない様である。

 先に掲げた写真はパロディーとして、当時のブッシュ大統領がフセインを討ち取ろうとしてる様と、あのマイケルジャクソンが子どもを可愛がっていると思いきや、虐待と言うか大きな傷を負わしたり死に至らしめる様な行為をしているのではないかということで、誰かが作為的に作ったものなのだが、偶然にも表題にあっているので無断で拝借したのである。

 最近だけではないのだが、私の周りでも近くのご家庭から大きな声で子どもを叱る声が聞こえてきたり、幼い子供が異常な泣き声で泣いていたりすると、ひょっとしたら虐待かと疑ってしまうことがあるのだが、翌日にはけろっとして何事もなかった如く親子の姿をたりするので、安心したり疑心暗鬼になったりもする場合がある。

 また仕事でまったく初めてお訪ねする訪問先で、突然に携帯電話に連絡が入って、ともかく先方さんが電話口でとんでもなく怒っておられるのだけは分かるのだが、なぜにそんなにも怒ったりされているのかが、冷静に考えても見当がつかないこともあって、相手の興奮や罵声を浴びながら、冷静にお話くださいと言っても、返って火に油を注ぐような事態になったことがあった。

 その原因は一方的ではないのだが、先方さんの不理解や十分な対応に対する思いにずれが生じているらしく、その場は電話ということもあるので、当方に落ち度や謝らねばならないことがなくても、「スミマセン」と謝った上で、直接再度伺って誤解が生じているとすれば、その誤解を解く努力をしなければならないと思い、再度の訪問を約束して電話は切った。

 しかし、その先方さんは直接の私への電話では気が治まらなかったらしく、会社へと電話し苦情かクレームをさんざん一方的に言った上で、とにかく解約すなわち無かったことにしてくれと通告されたそうである。

 その内容の詳しいことはともかくとして、昨今本当に常識では考えられないことで、急に怒り出したり、自分の勝手な一方的な主張ややりかたを是として、それ以外の手法やアプローチに対して、絶対的に許せないと感じられるのだろうかも知れないが、「出来ればこうしていただきたい」というような提案や主張ではなく、「絶対こうでなければ」と頑固突っぱねる様な口調と共に、相手をすぐに罵倒したり罵詈造言とでも言うべき言葉で、あたり散らす様な御仁が増えた様に思うのである。

 こうした現象が増加したと思うのは私だけだろうか。

 昨今の巷のニュースを見聞きしていても、何でそんなことで他人を傷つけたり中には殺してしまったりすることに至るのかが、全く理解出来ない様な事件が多発していて、決して理由が明確ならば他人を罵倒したり傷つけたり殺してもいいというわけではないのだが、あまりにも因果関係もなければ、出会い頭での葛藤とでも言うべき衝動で怒ったり切れたりする人が増えているのは間違いないのである。

 その原因の背景には、現代社会の煩雑化した情報とは裏腹に、自分と他人との関係において十分な愛情や友情、または信頼や信用を感じて、他人に任せるべきことや他人に依頼することも、また他人からの頼まれごとや依頼仕事なども十分なコミュニケーションを取って実現するという、当たり前の仕事や対応の関係を築くことが下手な人が増えているとも言えるのである。

 全てを断言することは出来ないのだが、混迷する価値観の多様性の中で、自分自身を失ったり自信を無くしたりしている人にとっては、少しでも優位に立ったり上から目線で指示したり文句を言ったりできる相手にのみ、とんでもないクレームやささやかな問題提起をも、大袈裟に突っかかって怒ったり切れたりするといったことで、そのストレスや自分自身の存在感を示そうとされているのではないかと推察しているのである。

 決して「切れ易い」とか「怒りっぽい」のは、子どもたちだけでなく、大の大人の社会にも蔓延しているイライラ感があって、その渦中の人々においては、ちょっとしたことで「切れたり」「怒鳴ったり」「叫んだり」「罵倒したり」する人間が増えているという悲しい現実を見る機会がちょくちょくあるのである。
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認知症の母

2012年07月08日 | ちょっと可笑しいよ
 数年前から認知症の傾向が出だした母なのだが、四人兄弟で相談して実家に近い有料老人ホームに入居して以来、早いもので四年と数ヶ月が経った。

 現在なんと95歳6ヶ月を過ぎ、心身ともこの年齢にしては健やかで過ごしているのだが、私が毎週大阪のホームに母を訪ねると、その都度母の様子は異なって見える場合があり、介護職員の方々といろいろと情報交換しつつ、少しでも母の日常生活が改善される様にと相談をしている。

 今日もいつも日曜日にはおられる顔なじの男性職員と、食事のこととかトイレのこととか大切な物事について、少しでも本人の残存能力や意思を尊重した上でのサポートを前提に、長いスパーンでの目標とでも言うべき方針、または期待を込めての道筋をお願いしたり、相談したりしたのであった。

 ドキュメンタリー映画で、「毎日がアルツハイマー」と題するご自分の母親の認知症だと感じた頃からの家庭での映像を中心に取り出した娘さんである関口祐加監督が、2009年9月の母の79歳の誕生日を祝う場面から始まって、2年数ヶ月の間に撮影し続けた映像をまとめた映画として、東京、横浜などで公開されるという。

 テレビのワイドショーだったと思うのだが、その一部の映像が紹介されていて、ご本人とお孫さんも交えた認知症を患ったと思われる監督自身の実母の姿が写っていて、どうしても家庭内のことやプライベートな難題として捉えられがちなテーマなのだが、明るくユーモアたっぷりに展開するドキュメンタリーとして出来上がっている様で、多くの視聴者の中にも同様の認知症の方を家族として見守っている方々や医療、介護の関係者にも反響を呼んでいるという。

 80歳を前にして発症したと思われるアルツハイマー型認知症の母を、現在55歳になる娘の映像作家が撮りつづけてきたわけだが、彼女は「一番苦しいのは母」だと察しつつ、「認知症になった母が好き」だといい、懸命に自分自身を保とうとしている実母と、いろんな失敗や事件が起きる日常生活を、魅力アル被写体を見つけたと自覚しつつ、彼女は天職の映画監督として完成させたのである。

 私の場合は、母と同居しているわけではないので、以前の実家に住んでいた当時に始まった認知症の発症時期には、よく私が訪ねると、「○○持って帰ったら困る!」とか「あんたをそんな悪い子に育てたつもりはない」とか、ともかく息子である私は毎回ドロボウの様に言われ続けた時期は、とても困ったのだが、その時期が過ぎて数年が経った現在は、ホームの玄関を入ってロビーの食堂に座っている母は、私が手を挙げて挨拶すると、少しニコッと笑って迎えてくれるようになっている。

 まだ私が自分の息子であるということは分かっているので、私自身はとても行き涯があるのだが、中には娘や息子もわからない様になってしまっている認知症の方もおられる様なので、幸いだと感謝しているのだが、いずれ症状が変る可能性もあるので、全てを受け入れることが出来るようにと、また自分も高齢者の仲間入りをしていずれ同様の痴呆症になるケースもなきにしもあらずと思うので、理解と共に素直に受け入れたり、聞いてあげるようにと心がけている。

 しかし、私の母は娘時代から片方の耳が聞こえなかった上に、高齢化が進んで聞こえていた反対側の耳も聞こえにくくなり、数年間は補聴器のお世話になっていたが、現在はほとんどが筆談で会話するという形になっているのだが、ゆったりとのんびりと会話と言うか、必要な確認すべきことだけを伝えるようにしている状態である。

 今仕事で出会うお年寄りの中にも、認知症と思われる方が数人はおられるのだが、私はボケてるからわからないと仰る方や、突然助けて下さいと言われる方、また同じことを私如きに何度も訴えられる方など、それはそれは千差万別なのだが、いろんな性格や人間性があるものだと、逆に失礼かもしれないが楽しんで会話していて、今度は何と仰るかと期待している場合もあって、関口監督の様に四六時中ではないが、時折の出会いを楽しみに出かけて訪ねているのである。
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「おばぁちゃんの年金」

2012年06月16日 | ちょっと可笑しいよ
 政府は今日、西川福井県知事の同意が得られたとして、野田首相が枝野経済産業相ら関係三閣僚との会合を開いて、遂に大飯原発3.4号機の再稼動を政治判断として決定した。

 昨日の税と社会保障の一体改革と銘打った消費税法案など関連法案の三党の修正協議の合意がなされ、消費税の値上げがほぼ決まったことにつぐ、大きな決定であった。

 三年前に国民の多くが政権交代を願い、自民党を中心とする内閣から民主党を中心とする政府へと移行されて約三ヵ年が経って、国民の多くが望んでいた改革や将来に向けての日本の新たな展望が期待できる法案や制度の見直しなど、多種多様な政策の変化を当初は本当に実現するのではと思っていたが、鳩山、菅、そして野田と民主党代表が一年ごとに変わる一方で、小沢元代表を中心とするグループとの党内での対立構造は際立つばかりで、民主党執行部は自民党、公明党などとの協議や修正を繰り返しての悪戦苦闘の末、マニフェストに掲げた政策転換の多くは実現するどころかお釈迦になったり、野党の協力を取り付けるために放棄したりと、散々な国会戦場での取引や利害対立解消のための秘策等で、混乱して姿形を変えても是が非でも消費税値上げと原発再稼動だけはと強引に先に結論ありきのゴールを決めてのごり押しを通した様である。

 いずれにしても、国民の多くの反対や危惧にはほとんど説明もされずに、国民生活を守るためとのお題目的理念のみで、消費税値上げも原発再稼動も強行したという印象以外は無い感じであった。

 自民党政権の末期の頃からのもうひとつの懸案であった、「年金制度の一元化」などの問題も「消えた年金」問題も、とっくの昔に議論らしき過程はあったが、一向に最低年金額の目標も消え、いまや元の木阿弥なのだろうか、これで何処が税と社会保障の一体改革などと言えるのだろうか。

 まったく話は低次元になるかもしれないが、今日八百屋のお客さんと話をしていて、何とも子どもらしいと言うべきか、おばぁちゃんの年金についての問答が聞かされて、現実とは関係なくとっても笑って愉快な会話だったので、ここに記すこととした。

 60代半ばを過ぎられたばかりのおばぁちゃんというにはまだお若い感じのお孫さんが5人いらっしゃるご婦人なのだが、私はその二人の娘さんの小学生時代をよく知っている間柄でもあり、そのご婦人にとって二番目の女のお孫さんだと思うのだが、ある時お家に来られた時に質問にあつたというのであった。

 「おばぁちゃん!どっかからお金もらっているんやろ?」「ええなぁ、学校も行かんでもええし、毎日日曜日で会社に行けへんのに、何でお金もらえルン?」「それ何処なん?私ももらえルンやったら行きたいな」「お金大好きやし、いくらあってもええもんな」

 おばぁちゃんは、「この前まで一生懸命働いてきたし、ちゃんとお給料の中から自分のお金も積み立てるように払ってきたので、今は仕事をしてなくても、ご苦労さんという意味で国がお金をくれるんや」とその女の子の質問にできるだけわかりやすく答えられたそうであった。

 子どもにとっては、「年金制度」はなかなか分かりにくい面もあるらしく、何にもせんでもお金が貰えるのだったら、私もそこへ行ってもらってきたいという子ども心に、笑っていいのか素直な子どもの気持ちが出ていて、とても楽しい話として強く印象的だったのだが、現実の年金制度及び年金生活者の実態は不公平や厳しい状況もあり、一概に「お金を貰ってええな」では済まされない格差や数万円しかない月収入での生活を強いられている高齢者も多いのである。
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携帯台数人口を超える

2012年05月19日 | ちょっと可笑しいよ
 日本の人口は現在1億2千数百万人だそうだが、2011年末の携帯電話の契約数が1億2820万件で、なんと人口を上回って、携帯の普及率が100%を超えて、赤ちゃんから百歳を超える高齢者まで全てが一台は所有していることとなったらしいのだが、ここ数年のスマートフォンの飛躍的な普及で一人で複数台所有する人が増えたためだともいうのである。

 果たして携帯電話を何台も所有する必要があるのか否かはそれぞれの理由があったり、考え方の違いから来る価値観の違いとも言えるのだが、今日昼過ぎにお会いしたご年配の女性二人は、携帯電話を持っていないと仰っていたし、電磁波があるからとか必要がないからとか様々な理由で大人でも携帯を所有したいない人もいるし、赤ちゃんから少なくとも中学生くらいまでは携帯なんか必要ないのではないかと私は思うのだが、世の中には3台以上所有している人もいる様で、結局平均値で日本国内の人間が一人一台は持っている勘定となっているのである。

 数日前の新聞報道では、ともかくスマートフォンの普及が急ピッチで、携帯電話所有者の五割を既に超えたそうなのだが、我が家と娘家族の中ではまだスマホ所有者はいないし、当然孫の小学生と幼稚園児は携帯など持つ必要もなく、我が家族の所有率は息子夫婦を入れても75%であり、全国平均よりは低いといえよう。

 いずれにせよ、国内ではドコモ、au、ソフトバンク3社を中心にテレビ、新聞、雑誌とあらゆる広告媒体を通じて、主力商品のスマートフォンを販売するための商戦が盛んで、本当にインターネットに直接接続する必要の有無を問わずに、この多機能携帯電話(スマホ)を何故か時流に乗り遅れまいとしているのか、ファッションの一部として持ち歩いているのか定かではないが、多くの人たちがCMや話題性に乗せられて購入されているのではないかと私は思ってしまうのである。

 ともかく、電車に乗ると座席に座っている人の半数以上が携帯かスマホを手にしながら、何やら画面を見続けている場合が多いし、電話やメール機能だけでなく、ゲームに興じてたり、インターネットに接続し、多様な情報を見続けておられる様に感じる状況が何処でも見られるし、自動車運転中の相変わらずだが携帯使用も後を絶たない様で危険である。

 毎週私の場合は大阪へ老いた母の顔を見に出かけているのだが、電車車内での携帯電話使用に関するマナーは最悪で、とにかく優先座席にどっかと座った若い人たちを中心に、窓際に立っている人たちも含む多くの人たちが、携帯依存症とでも言えるのではないかと思うほど、最近はスマホをイジッテいて、周りの乗客の様子も優先座席であることもお構いなく、ずっと指を動かせているといった実態を見ることが恒常化していると言っても過言ではないのである。

 欧米諸国やアジアの国々の携帯電話所有率などは全く知らないのだが、ひょっとしたら日本人ほど、携帯電話もしくはスマホに魅せられている国民はいないのかもしれないと思う程、異常な状態ともいえるのではないだろうか。

 これほどまでも普及したと言うべきか、携帯電話に毒されたと言うべきかはどちらとも言えないのだが、本当に必要なアイテムだとしても、女子高校生たちの一部が語る様に、携帯もしくはスマホ命みたいになってしまっている依存症とも言うべき病状は、当分治らないのかもしれないが、せめて電車車内だけではないが、公共的マナーやルールを守って使用するというモラルだけは、徐々にでもいいから徹していただき、他人や金銭的にも迷惑をかけたり身の丈を超えた負担にならない様な節度が必要だと思うのである。

 
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かぐや姫の物語

2012年05月18日 | ちょっと可笑しいよ
 皆さんもよくご存知の「かぐや姫」は、今は昔、「竹取の翁というものありけり。」で始まる「竹取物語」の主人公であり、かの有名な源氏物語を記したと言われている紫式部が「物語の出で来はじめの祖」と称したとされる、日本最古の物語であるのだが、殆どの方にとって、「かぐや姫」は、御伽噺(おとぎばなし)として語られたり理解されたりしていて、その物語の本質はなかなか読み見取り難きところがあるのだが、千年以上前の傑作物語なのである。

 幼い頃に読んでもらったのか、それとも物語の一部を教えてもらったりして、そのストーリーのあらましは知っているつもりだったが、私の住む現在の京田辺市が「かぐや姫」の故郷ではないかという説を研究しつつ、定年後に自宅を中心に「竹取の翁博物館」を自費で建造した小泉芳孝氏と知り合って以来、初めて竹取物語の原書ではないが、浮世絵版画の匠と称される立原位貫さんの絵巻の竹取物語と妖しく美しく罪深き女「かぐや姫」と彼女に恋焦がれる男たちを現代の恋愛小説の名手と謳われる江国香織さんが綴った竹取物語を、じっくりと読んだのであった。

 前述した竹取の翁は「野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使いけり。」と記されている様に、竹の多く自生する里山で竹を取って加工したりして使う竹屋だった様だが、その竹の中に、本光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。と物語りはかぐや姫の誕生を記し、翁が大事に天からの授かりものとしてこの女の子を育てあげたのだが、あまりにも麗しい美人だったために、五人もの男たちが「かぐや姫」に求婚したという。

 その男たちの名は、石作りの皇子、庫持の皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂足で、とにかくかぐや姫を一目見たさに翁の家の周りをうろうろと歩いては、翁を呼び出して「お嬢さんを私に下さい」と誰もが結婚を申し込むという大騒ぎとなった様子である。

 かぐや姫は普通の人間じゃないと思う翁だったが、あまりにも五人の男たちが熱心で手紙を寄せたり、何度も一目会いたいと願い続けるので、かぐや姫にその男たちに対して、かぐや姫が応えることができるのかを問うたところ、優劣つけ難い五人の男たちにかぐや姫が各々希望する品物を差し出すことが出来れば、その男たちの望みを叶えられるかもしれないと、一人ひとりに願い事を伝えたのであった。

 その難題は、各々仏の御石の鉢、蓬莱の玉の枝、火鼠の皮衣、龍の頚の玉、そして燕の子安貝であり、男たちは直接もしくは使いのものを派遣したり、大金を与えてインドや海外にまで、そうした難題物を探したりして、ともかく結構数年もの年月をかけて、かぐや姫の要求するものを探し出して、ぜひ自分と一緒になってほしいと努力したりしたのだったが、全て偽物であったり、かぐや姫の欲するものには大違いの品物だったりして、結局は男たちは諦めて帰ってしまった。

 その後、時の帝がやはりかぐや姫の美しさの噂を耳にして、かぐや姫を帝の宮仕えをさせよう試みますが、翁のたっての願いも全く通じず、たびだびの行幸にもかぐや姫は宮仕えする気は全くなくて、帝と姫は互いに歌を交信するだけの間柄でした。

 そのうち時が経ち、かぐや姫は毎日毎日夜ともになれば、月を悲しそうに眺める日々が続き、八月十五日に近いある夜に、かぐや姫は翁に月の都に帰らねばならない日が近づいたことを告げ、翁は悲しみを隠せない中、帝にそのことを告げると何と2千人以上の武官を月の都の使者が現れる夜に派遣し、かぐや姫を絶対に帰すまいと守ろうとしたのですが、真夜中になって力が抜けた様にかぐや姫はするりと翁の家から月へと帰って行くのでした。

 残された翁や帝たちには不老長寿の薬などが置き土産されましたが、翁も帝も元気なく、静岡の山で不老の薬やかぐや姫の手紙は燃されてしまい、「ふじの山」と名づけられたところで物語りは終りました。

 さて、現代社会に生きる私たちに、この竹取物語は何を語っているのでしょうか。ただの御伽噺とは思えないのですが。
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