ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「きゅうたなべ倶楽部」

2010年04月25日 | 地域の話題
 地元京都府京田辺市に学校法人同志社の大学などがキャンパスを移転してきて、早や24年が経とうとしている。

 この同志社大学のキャンパスに通学するために兵庫県宝塚方面からJR福知山線から東西線、学研都市線経由で同志社前という名の小さな駅まで一応ひとつの線で結ばれているので、早朝から大学へと乗車した学生たちの内、何人かがあの忌まわしい尼崎電車脱線転覆事故の犠牲となって以来、5年の歳月が流れた。

 その事故があった2年前の同月同日の4月25日に、学生と市民の交流活動を主体としたNPO法人で、「同志社大学と京田辺市民のネットワークとして「きゅうたなべ倶楽部」が発足して、今日で7周年を迎えた。

 当時、私自身は縁あって、この町京田辺市に住んで23年を迎える市民の一人として、どうも学生さんたちとの関わりだけでなく、振興住宅地に引っ越してきた、所謂「新住民」のひとりとして、この町を住処として、この町を愛して活動し生きて行くためにも、何か足らない物足らなさを感じていた時に、地元京田辺でしか通用しない「地域通貨」としての「きゅう」をツールに学生や市民が多種多様な交流と出会いを経験できる仕組みを企てる団体としての「きゅうたなべ倶楽部」の発足は、大変うれしいニュースであり、早速元同志社大学生のひとりとして参加させていただいたのであった。

 私自身の同志社と京田辺との出会いは、何とも奇縁であったと言っても過言ではないだろうが、学生時代は産学協同反対との機運もあって、近鉄や住友金属などの大手企業との大学の連携や協力は、大学の自治や学究本来の純粋な目的がゆがめられて、企業の為の大学と成り下がる危険性ありという理屈で、学園中で反対の嵐が吹き荒れていた。

 その当時「田辺町」が何処にある町かは、大阪から一年生当時は今出川まで通学し二年生の秋には先輩の薦めもあって岩倉の寮に入寮した若者にとってはどうでも良かったのかもしれないが、全く知る由もなかった。

 それから月日が流れて、大学を5年間でフェイドアウト、すなわち中退した私は、しばらくして小さな音楽関係の会社に入社し、一年後結婚と同時に東京へと転勤し、8年間の東京暮らしをしていた。

 月日が経って、実の母も父を亡くして十年が経過し、年齢も65歳という高齢者の仲間入りをする時期に、一人息子としては、せめてもの親孝行と思って関西へと帰ろうと思案していた時に、先輩から『子どもの遊び場活動」のリーダーとして、現在の京田辺市への引越しでやって来たのが、同志社大学の移転先の「田辺町」であった。

 奇妙な縁とでも言うべきか、その町「田辺町」で、約十年後「議会議員」となって、三年前までの16年間、町議、市議として仕事をさせていただいたこともあって、より身近に同志社大学と京田辺市のリンクを考える機会が増えたのであった。

 心の故郷、学生としての母校が、ここに結びついて、より円滑なコラボが出来ればと、「きゅうたなべ倶楽部」に期待しているが、今後の関わり方と役割を再考する機会となった。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『京野菜』ブーム!?

2010年03月13日 | 地域の話題
 有機あるいは無農薬、減農薬野菜を中心に、無添加食品も積んでの週末の移動販売の「八百屋」をやっていると、それなりに季節の「京野菜」が入荷する。

 そんな中で、私が好きな「京野菜」としては、この季節は「花菜」「九条ねぎ」「壬生菜」「みず菜」「えび芋」「堀川ごぼう」などである。

 しかし、京都に住む生活者である普通のお客様は、決して「京やさい」を意識して買ったり、料理する人は少なく、お店でお惣菜を出したり、レストランで地方からのお客様に食していただくために料理するプロの料理人は、これらの食材を意識的に使用する方もいると思われる。

 しかし、一般的には「京都に行こう!」というキャッチフレーズと共に、関東地方を一番として、京都の文化、歴史、自然、食、古寺仏閣などを探索したり、経験したりと年間何と6千万人もの人が「京都」を訪れているというから驚きである。

 そんな「京都」と名のつく、「京都ブランド」のひとつとして、「京野菜」も結構なブームとなっているらしく、インターネット販売などを中心に、結構な高値で「京野菜セット」なるものが宅配便で届けられるサービスが当たっているというのである。

 何処の地方、地域にも、その土地ならではの野菜や食品、食べ物、食べ方があって、地方色豊かな「食文化」が形成されているのは、とても嬉しいことだと思うのだが、ただ「京都」と名がつくだけで「もてはやされる」感の強い「京やさい」ブームなるものはどうかと思うのである。

 何でもこの世の中、商売になるのなら結構、けっこうと諸手を挙げて喜ぶには至らないと思うのは、その土地、地域に根ざした気候、風土が相まって昔から生産されている歴史と伝統とはかけ離れた「興味」や「珍しさ」だけでは、その「やさい」たちの特徴を生かした食べ方や料理の仕方にはならないし、旬を生かした美味しい食べ方には至り難いからである。

 たとえば、「花菜」の「からし和え」や「お吸い物」、「おひたし」「菜の花漬け」などは季節感を感じる見事な「緑の色合い」と花の少し苦さも感じられる食材で美味しい物である。

 「えび芋」は、京田辺も産地のひとつなのだが、海老のように曲がった「さといもの一種」で「唐のいも」を独特の栽培方法で育てた小芋で、京都では棒だらと炊き合わせた「いもぼう」でよく知られた食材で、揚げやお雑煮、あんかけでも美味しく食べます。

 「堀川ごぼう」は、ぶっとい太さが特徴で、きんぴらはもとより、たたきごぼう、ゆでたごぼうをくり抜いて四つに割って、合わせ調味料で煮て、山椒を振って食べるなど、独特の食べ方もあります。

 一番よく使うのは、しゃきしゃきした食感で鍋やサラダで食する「みず菜」ではないかと思うのですが、これなどはもう「京野菜」というよりも全国的な野菜になっているのではないかと思います。

 いずれにせよ、「京ブランド」ではなく、美味しく季節にあった「旬」を活かした料理と味付けで、美味しく健康に良い「野菜」をいっぱい食べたいものですね。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「木の魂」に魅せられる。

2009年11月10日 | 地域の話題
 秋も深まり、通勤途中の田畑も既に稲刈りが終わって、田んぼは刈り取った稲の後が再び青く伸びだしていて、畑はサツマイモ、大根、小松菜、サトイモ、人参と多様な野菜たちが収穫を待っている『実りの秋』である。

 いつもの道を車で走れば、ほとんど気づかない「季節の移ろい」を少し違った道を行くことで、新たな発見、気づきがあるものである。

 今朝は、職場に提出の住民票を取得するために、近くの住民センターへと少し早めに通勤前に行ったために、懐かしささえ感じる地元の小学校、鎮守の森のごとき神社の前を通って、田畑がいっぱいの田舎道を通ったために、秋の深まりを角度を変えて観ることができた。

 先週の土曜日の昼下がりだったが、八百屋のお客さんの玄関先に植わって数十年経ったと言われる「ケヤキの大木」を今年70歳になるというおじさんが大胆に剪定されていた。

 いつもは生い茂ったケヤキの葉で覆われて、ほとんど見えなかった家の輪郭やお庭が露になった感じで、風通しのいい秋を家も庭も感じているのではないかと思えるほどの、すっきりとした剪定を久しぶりにされたという。

 玄関先から、この「ケヤキの大木」を暫く眺めていると、なにやら『幹から木の魂」の声が聞こえて来る感じがしたのであった。

 剪定をされた家の主に、その様に感じたと話すと、彼は大木になった『ケヤキ』の謂れを語ってくれた。

 40数年前に結婚して、この地に新居を構えた時に、今は亡きご婦人が何処からか成育して10年程のケヤキの若木を貰ってきて、車庫や玄関先の日陰になり得ると植えられたそうなのであった。

 それから、お子さんが三人生まれて各々成長されて社会人として育ち、結婚して新たな世帯を持たれた兄と姉、そして末弟は音楽家として現在はドイツに滞在されている彼の一家を、長年見守ってくれていた「ケヤキ」だったのであるが、十年程前に奥さんが癌で亡くなられて以降は、年取った彼の一人住まいとなっているようであった。

 この一本のケヤキの幹が、なにやら語っていると私が感じたのは、全く幻覚でも幻聴でもなく、植物としてこの世に生を受けた「ケヤキ」の一生はまだまだ続くだろうが、50年近く経つ「ケヤキの大木」となってはいるが、このご一家の半世紀近くを中心に、小さな庭の玄関先から、多くの出来事と光景を観てきただろうし、多くの語らいを聴き、多くの季節を繰り返し生きてきたのだから、幹に宿る魂が、何かを語っていても可笑しくないのである。

 庭の主との会話を通じて、このケヤキの大木の幹が語る「木の魂」からの叫び、独り言を密かに聞いているのは、張本人の彼が一番なのだろうが、私にも確かにささやきが聞こえたのであった。

 人間の一生、ご家族の変化や成長を見守ってきた「ケヤキ」は、これからも人間の一生以上に行き続けて、未来のこの地の状況を具に見ることができるのだろうと思うと、密かに「木の魂」に今聴いておきたいと思う感じであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嬉しい出会い。

2009年11月08日 | 地域の話題
 今朝、日曜日だが開店営業中の近くの手作り天然酵母パンのお店「マテア」に、いつもの様に私が自営する八百屋のダンボールの空箱を届けに出かけた。

 そこには、いつもの如く仲良くパン作りの手作業をするH夫妻が仕事をされていたのだが、お店のお客さんとして若い夫婦と赤ちゃんの姿があった。

 「あっ!」とすぐに気づいたのが若い男の人、そうだU,K君だ。

 向こうもすぐに分かったらしく、ニコニコとこちらに笑顔で話しかけてくれた。

 突然出会ったのだが、そうかれこれ20年以上は会ったことのない青年の一人だったのである。

 彼が小学生時代に私が近くの遊び場活動のリーダーとして「ガリバー」と呼ばれていた頃に一緒に森を駆け回ったり、キャンプをしたり、遊んでいた少年たちの中の一人だったのであった。

 彼は小学生時代、特に低学年の頃は少しはにかみ屋の少年で、しかも決して活発、むちゃくちゃ元気というタイプの少年ではなかった記憶が鮮明だった。

 すぐに名前が出てきて、「U,K君!」と呼びながら、すぐに昔話と共に、奥様と三ヶ月という男の子の赤ちゃんを紹介された。

 たまたま近くの実家に戻ってきて、このパン屋さんを訪れた時だったのだが、暫しパン屋の店先で、いろいろと話が広がった。

 中学校では陸上部゛に所属して、何回か町の駅伝にも出て、いつかはあの「箱根駅伝」に出場したいと思って東京の大学に進学したというのであった。

 以前に「ガリバー通信」でも紹介したことのある、もう一人の青年も、私たちが毎年二月に催していた「ミニ木津川マラソン」で、小学五年生の時に優勝し、私たちが祝福の胴上げをしたことがきっかけで、走ることが好きになって、別の大学だが箱根駅伝を目指して進学し、待望の駅伝部で頑張ったが、本番では補欠で、先輩の選手の毛布運びと裏方に終わったという。

 U、K君も本チャンの選手としては出場できなかったそうだが、昔一緒に遊んだ「森やキャンプ」のことを克明に覚えていて、懐かしい話をしてくれた。

 その中に、近くの池の「池ざらえ」の時に捕まえた「アメリカザリガニ」をボイル度して食べた時のことを、「コリコリして美味しかった」と証言したのであった。

 実は、私はリーダーとして小さなコップで川の水でボイルドしたため、十分熱が入っていなかったためか、コクサッキーとか言われる菌に毒されて、医者にかかる症状が出て、皮膚がめくれてビックリした経験があったので、子どもたちには症状が出なくてよかったと強く記憶していた。

 現在は、ある安全食品を扱う団体に勤務しているらしく、頭は五分刈りで鼻ひげと顎鬚を蓄えた、少しワイルドな青年となっていた彼との再会に、とっても暖かさと喜びを感じたのであった。

 「ほんとうにいい出会い」が朝から出来て、若いご夫婦と赤ちゃんの幸せと成長を心から祈る気持ちで一杯で、嬉しくパン屋を後にしたのであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

流れ橋が流れた。

2009年10月11日 | 地域の話題
 私の住む京田辺市の北側に位置する八幡市の名所のひとつに通称「流れ橋」、正式名は府道八幡城陽線上津屋橋(こうづやばし)がある。

 この「流れ橋」が、先の久々にやって来た大型台風18号の影響で、十数年ぶりに「流された」という。

 この『流れ橋』は、木津川上流が大雨で増水して水位が増すと、橋脚に載せてある形の木の橋が川の中央部から左右に離れて、橋桁から分離して川に流れ落ちる構造になっているために、今回の台風での増水で、見事に流されたのである。

 この「木津川の流れ橋」は、全てが木造であり、太い丸太や木材を使ってあるために、独特の風格があり、よく時代劇の撮影に使われることから、テレビ時代劇の関係者では知らない人がいないくらい有名だし、藤田まことさんの書かれた石碑が左岸に設置されている。

 「流れ橋」は、全長356.5mある列記とした府道であり、現在も八幡市、城陽市、久御山町の皆さんには、生活道路として使用されている木橋なので、今回のように流されてしまうと復旧までは不便なのである。

 日本では最長の木橋なのだが、昭和26年に架けられたもので、当時は永久橋にするための予算がなく、かと言って普通の木造橋では、増水のたびに流されたら多額の再度の架橋建設が必要なので、水に敢えて逆らわない、「水に流される橋」として建造されたらしい。

 つまり、木津川が増水し、橋板まで水が浸ると橋板が自然に浮いて、八つに分割してワイヤーで繋がれた橋板が、吹流しのように流れる「流れ橋」となったのである。

 水が引いたら、ワイヤーを引っ張って橋板を手繰り寄せて、元に戻すのだが、結構時間とお金がかかるらしい。

 過去にも何回となく「流されて」いるので、府の予算でも災害復旧費か土木建設費かは知らないが、臨時出費として計上できているらしい。

 この付近一帯は、木津川の砂地の河原が広がっていて、コンクリート護岸や電柱もなく、橋をバックに時代劇などの撮影によく登場するというわけである。

 休日ともなれば、一般の観光客や家族連れが訪れることも多く、若者たちのグループがバーベキューをしたり、四季を問わず市民の憩いの場となっていて、近くに「四季彩館」と称する八幡市の建物があり、みやげ物の販売や蕎麦打ちやイベントが開催される日もる。

 最近は毎年4月24日に、主に江戸時代の衣装を着て扮装した人々の祭りが開催されていて、楽しく遊ぶ「流れ橋むとして、さらに有名になりつつあります。

 普段は静かな田園地帯でもあり、河川敷きの茶畑や小さな工場地帯に囲まれているので、府道からの入り口は見過ごしてしまうかも知れませんが、木津川左岸のサイクリングロードを走ってくると、すぐに見つかりますので、一度ぜひ起こしください。

 ただし、現在は「流れ橋」が流れて通れませんので、あしからずご了承下さいね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「わりかしやるやん!」

2009年10月04日 | 地域の話題
 今晩の月が暦の上では、立派な月齢14日ほどの「満月」であり、秋の夜長を楽しませてくれる「中秋の名月」なのだそうである。

 秋が一日、一日と深まり、近所の田んぼでは、土日に「稲刈り」が盛んに行われていて、収穫の秋を身近に感じさせてくれる日々である。

 そんな季節を喜びながら、週末の八百屋でお客様との出会いとお喋りを楽しんでいるのだが、あるお孫さんを5人お持ちのおばぁちゃんとお話をしていると、いつも楽しい子どもたちとの会話や発想に驚かされたり、笑ったりすることが多い。

 小学生の運動会も終わって、これからの秋の夜長を少しは勉強や読書に当てることも考えてはと、そのおばぁちゃんが孫宛に「絵手紙」をお出しになったそうである。

 数年前から絵画も楽しまれている彼女がお孫さんに宛てた葉書は、絵手紙という形で時間をかけて描かれたお得意の絵と共に、5人五様の特色のある愛情こめたお手製の「絵葉書」だったのであった。

 電話を通して、最近あった運動会のことや楽しかったことなどを話している内に、小学五年生になるお孫さんの中で一番年長の女の子が、絵手紙の感想として言った言葉が「わりかしやるやん!」だったと言うのであった。

 「わりかし」とは、標準語では「思った以上に」とか「なかなか」と言った褒め言葉でもあるのだが、関西弁で言われるとなかなか際どいとでも言うべきか、微妙な言葉でもあるみたいである。

 ある外国人が日本語を学んでしばらくして日本に滞在されていて、一番好きな日本語を語っていた中に、「微妙!」というニュアンスの返答や言葉があった。

 日本人が全て「微妙!」と表現しているわけではないが、曖昧模糊とした表現でもあり、相手にとっては多少配慮した否定的言葉に聞こえたりもする。

 前述の「わりかしやるやん!」については、微妙と少し異なるのだが、「素晴らしい!」とか「べた褒め」まではいかない表現でありつつも、褒めているのだが、少しテレが入っている気がする。

 小学校の高学年ともなれば、少しは大人の気持ちや考えも分かってきているので、自分の祖母である、おばぁちゃんの「絵手紙」の作品でもある。自分に宛てられた「葉書」を前にして、こんな微妙な表現で喜びを表したらしいのである。

 私たちの日常生活の普通の一こま一こまの中にも「わりかしやるやん!」言って褒めることが出来る事項がたくさんあるはずなのだが、なかなか女房や夫をお互いに褒めたりすることが難しかったり照れたりする場合が多いのではないだろうか。

 素直にお互いを認めて「わりかしやるやん!」と思ったら、即座に素直に褒められたらいいなぁと思うのであった。

 「うちの亭主、わりかしやるやん」とか「我が女房、わりかしやるやん!」と。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猫とカラスは天敵!

2009年10月03日 | 地域の話題
 皆さん、今夕の満月をご覧になりましたか?

 「中秋の名月」と言われるだけあって、とっても美しく凛としていて、いつもの月とはさすが違ったように見えました。

 秋らしくなった朝晩と比べれば、日中はまだ暑くてTシャツでも汗をかくほどの気温に上昇してましたが、近くの駐車場でおもしろい戦いを観ました。

 広い駐車場の一角で、猫とカラスがにらめっこしていたのです。

 しばらく眺めていると、体は大きいので猫の方が強くてカラスを追い払うのかと思いきや、全く逆で猫がカラスに襲われて逃げ出す始末でありました。

 「犬猿の仲」とは言いますが、「カラスと猫」が天敵とは知りませんでした。

 そういえば、町に住むカラスの被害は、一般的には家庭ごみの集積地にやって来て、食べられそうな餌をあさって、ゴミ袋を破ったり散らかせたり、せっかくの人間様の努力を踏みにじる行為が続出しています。

 カラスから「ゴミ」を守るために緑のネットをゴミ袋に被せてありますが、それを掻い潜ってでも、カラスは餌を求めて大暴れしています。

 カラス被害はそれだけでなく、意外と賢いカラスの習性が近年わかってきて、人間様の知恵との競争に勝つほどの行動力とアイデアを身につけていて、いたちごっこではなく、カラスごっこに打ち勝つ生命力に、人間様はやられっぱなしなのです。

 意外なことに、猫もカラスには近づいてチョッカイを出すのですが、結局最後はカラスの嘴で突かれた猫が逃げ出して退散してしまうのがオチでした。

 平和な日常生活の中には、いろんな危険やトラブルが待っているのが人間社会ですが、野放しの町のカラスと一見のんびりとした猫たちとの戦いは、見事なまでに猫の敗北でした。

 そんな日中の出来事を思い出しながら、移動有機八百屋の仕事を終えて帰途に着く頃、東の空に見事な満月が昇っていて、暫し車の車窓から見上げました。

 人間社会での葛藤やトラブルだけでなく、常に悩んだり苦しんだりしている場合が多い人間どもを尻目に、カラスや猫たちは日々餌を求めて町中を彷徨って、「カラスと猫」の真昼の決闘のような戦いが日常のようで、家庭で飼われているペットや動物園で過ごす動物たちを除いた野生的動物の習性なのです。

 そういうことを考えていると、なんとも一番厄介な動物が「人類」であり、一番脳の発達がされているはずの人間共にこそ、大きな障害や問題があるのではないかと気づかされしまうほどです。

 「天敵」とでも言うべきカラスと猫の戦いを眺めていると、天敵とは言え共存している動物の生き方に「真理」と「自然」を感じるのです。

 つまり、「人類」、ホモサピエンスは、「考える葦」と言われてはいますが、一番不自然な生き方をしていて、天敵をわざわざ呼び込んでいるのではないでしょうか。

 世界中に起こっている戦争や利害の対立などを通して見えて来るのは、意外や「人間の愚かさ」以外の何物でもありません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三回言うて分からん奴はアホ。

2009年09月28日 | 地域の話題
 秋が深まりだした感じの今日この頃だが、日中に暑さを感じても間違いなく夕刻から夜半にかけては、虫の音も聞こえて「秋を感じる」季節となった。

 「暑さ、寒さも彼岸まで」という言い伝え通りの「秋の季節」は、何をするにも快適で、先週の日曜日などは、全国的に「運動会」日和で各地で元気な子どもたちの歓声が聞こえていて、お母さん、お父さんだけでなく、最近はおばぁちゃん、おじいちゃんの観戦、参加が多く賑わっているようである。

 近くの地元の小学校の一つは、残念ながらの「インフルエンザの流行」で、例のシルバーウイーク前に「全校休校」となったために、一週間運動会を延期したというが、来週には実施されるらしいので、一件落着である。

 そういえば、この「インフルエンザ騒動」は、今年の2月頃から「メキシコでの大流行」や「豚インフルエンザ」として紹介されて以来、日本では5月頃にテレビマスコミを中心に、自民党内閣の前桝添厚生労働大臣の早朝、深夜の記者会見という異常なパフォーマンスで、大騒ぎした頃は、町行く人の多くがマスクを着用し、マスク不足で、百円ショップのマスクがウェブ上で千円以上で取引されたりと大変であった。

 しかし、今や日本中での毎日の患者数が何万人という状態にも関わらず、街中ではほとんど「マスク着用」の人を見かけないという、珍現象になんとも可笑しな「熱しやすく覚めやすい」、国民性とでも言うべき、不可思議さを感じるのは私だけではあるまい。

 先週末の私のささやかな移動有機八百屋のお客さんとの会話の中で、ある奥さんとの楽しいおしゃべりがあった。

 それは、その奥さんのお姑さん、つまりご主人のおかぁさんが何かにつけて仰っていた「三回言うてわからん奴は、アホと諦めなあかん」という迷文句であった。

 世の中に、ほんとに聞き分けが悪いとでも言うべきか、何度言っても理解すら出来ない輩がたくさんいるのであって、政治家の世界にも異常に多くいると思われるのである。

 せっかくの民主党を中心とする連立内閣が発足して、まだ二週間も経っていないのに、亀井某国民新党代表である新大臣の発言に対して、藤井財務大臣が手を焼いているし、石原都知事の先棒をかついでか、鳩山首相が2016年のオリンピック開催地として名乗りを上げている誘致活動の決定時にデンマークにわざわざ行くという日程を組むらしい。

 私にとっては、どちらも必要のない行動や言動だと思うのだが、亀井大臣は少数政党の代表であるだけで、内閣の中枢である民主党の財務大臣が遠慮せず、はっきりと決断すべきだし、鳩山首相も東京オリンピック誘致などに力を注ぐ石原都知事に協力する必要はなく、無駄遣いの一つとして「オリンピック誘致」を断念させるくらいの指導力が必要なのではと思っている。

 あの一世を風靡した「世界のナベアツ」も、今は昔、時の人だつた頃には、幼稚園児まで、「一、二、さーん」と「アホ顔とアホ声」を上げていたのが嘘の様に消えてしのまっている。

 「三回言うて分からん奴はアホや」は、庶民の知恵としての名言である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古民家でチェロコンサート。

2009年06月21日 | 地域の話題
 今日の京都は、とんでもなく湿度の高い暑い一日で、私たちが準備した「玉木光ふるさとチェロコンサート」の開催日だった。

 京都府南部の山城地方と呼ばれる、京田辺市大住岡村にある古民家で、国指定文化財でもある「澤井家」住宅を会場としてお借りしての「チェロコンサート」であった。

 地元三山木出身の弱冠34歳の好青年である「玉木光さん」の里帰り「ふるさとコンサート」としては、昨年に引き続いての二回目、ご両親も一緒に来日されたので、みんなで大歓迎の演奏会となった。

 玉木光さんは、同志社国際中学校、高校を卒業後、奨学金を得て、米国イーストマン音楽院に留学し、八歳に始めたチェロの腕を磨いて、ライス大学に転校後、ノースウェスタン大学院を修了し、在学中に著名な音楽家の指導を受けて、各種コンクールに入賞、バッハ・フェスティバルコンクールや全日本ビバホール・チェロコンクールにも優勝している。

 現在は、アメリカ合衆国の地元シカゴを中心に活躍する若手チェロリストであり、インディアナ州のフォードウェイン・フィルハーモニー首席チェロ奏者及びフライマン弦楽四重奏団で演奏活動を続けている。

 今回のコンサートは、メンデルスゾーン生誕200年を記念して、「歌の翼に」というメンデルスゾーンの楽曲タイトルをテーマに、バッハ、ラフニノフ、フォーレ、オコナー、シューマン、カサド、サマーなどの楽曲を演奏し、多様なチェロの音色とメロディーを楽しませてくれた。

 会場の「澤井家」は、今から270年も前に建て替えられたという古民家なのだが、広い土間に約60名、そして横の畳の間に約20名の聴衆が入場し、彼の心に響くチェロの演奏に耳を傾けたひとときであった。

 京田辺も「宇治茶」の本場の茶どころのひとつなので、五月に摘み取られた「新茶」と共に、美味しい抹茶の洋菓子がお客様には振舞われ、少し暑い場内の空気も休憩時には少し和んで、二部では大きな土間の出入り口の扉を全て開放してのコンサートとなった。

 多くのご年配の地元の聴衆の中に、若い玉木光ファンもいて、静かな澤井家の伝統的な佇まいに、新鮮な音色が奏でられ、聴衆の心に沁みこんでいき、瞼を閉じれば各々の育った故郷や幼き時を過ごした「原風景」が浮かぶような心地であった。

 昨年も「ふるさとコンサート」と称して行った「玉木光さん」のチェロコンサートであったが、今回の澤井家でのコンサートは、メンデルスゾーンの生誕よりも遥か昔に、この世に誕生していた建造物を舞台に行ったので、江戸時代の息吹と魂も時代を超えてコラボレーションしたとも言える雰囲気となったと自画自賛している。

 お越しいただいた多くの聴衆の皆さんと共に、梅雨の中休みの蒸し暑さの中で、一服の新茶と共に、心和み心に響く音色を聴けた幸せを感謝したい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もみじマーク事故

2009年05月26日 | 地域の話題
 昨年の道路交通法の改正で、自動車の運転をする75歳以上のドライバーは、通称「もみじマーク」と呼ばれるステッカーを運転する自動車の車体に掲示しなければならないという義務規定が定められた。

 その後、「もみじマーク」が「枯葉」をイメージするとか、高齢者ドライバーの差別化につながるとかと、いろいろな議論がなされる中で、「もみじマーク義務化」を止めるべきとの意見も出されていた。

 しかし、年間件数の詳細は知らないが、自動車事故の中に、多くの高齢者ドライバーによる自損事故や他者を巻き込んだ悲惨な死傷事故も一般的な交通事故の件数の中で頻繁に起きているのも事実だと伝えられていた。

 私自身も40年以上の運転経験を持つドライバーの一人として、いづれは自分自身の判断で「高齢者ドライバー」としての自覚を持って、より慎重に運転すべき時期が来ると思っているが、先日娘から「父はいつまで運転するの?」と咄嗟に聞かれたので、冗談ぽい返答として「88歳まで」なんて答えたものである。

 しかし、個人差が大きくあるとは思うが、道路交通法上の75歳以上の「もみじマーク義務化」までは、まだ十数年あるとは言え、段々と動体視力や運転に必要な視野の広さ、注意喚起、または咄嗟の判断力などの低下はやってくるのであめる。

 そんな「もみじマーク」についての思いや考え方に、いろんな議論がある中、今日の夕方、近くのスーパーマーケットや商店がある駐車場で、突然の「もみじマーク事故」を目撃してしまった。

 私がTSUTAYAで文房具を買って、自分の車に戻って家路へと車を出そうとした時であった。

 一台隣の駐車スペースにバックでセダン型の自家用車を停車させようとしていたのだろう車がバックする時に、急発進とも言うべきスピードで、コンクリートのタイヤ止めを乗り越えて、何と少し後ろのツタヤノ店の壁面に激突したのである。

 大きな衝突音に振り返ってみると、壁が大きくへこんだのが見え、激突した自動車の後の部分は、大破していていて、運転していた白髪の老人と助手席の老女は、無言で呆然としつつ、車を逆に前進させていたのである。

 あまりにも突然の事故であったが、幸いというべきかお二人は怪我もなく、周辺の歩行者や関係車両にも接触はなかったのだが、自損した車と大きくへこんだ店の壁は歴然としていて、事故の大きさを物語っていた。

 私は一旦自分の車から降りて、店の人に事故があったことを告げて立ち去ったのだが、間違いなく自損車には「もみじマーク」が張ってり、運転者が75歳以上の高齢者であることを示していた。

 たぶん駐車スペースにバックで自動車を入れる時に、あわててブレーキで制動をかけるところをアクセルを思い切り踏んだのだろうと推察される事故だったのだが、ご本人と奥様であろうご夫婦にとってはとんでもないショックな事故だったことだろう。

 高齢者として全てのドライバーを危険というつもりは全くないが、「もみじマーク」のドライバーの潜んだ危険性を目の当たりに体験した。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする