勝福寺 Gikoohの日替わり法話

山寺の住職、Gikoohが日々感じたことを綴っております。
(プロフィール用の落款は天野こうゆう僧正さま彫刻)

12月8日はお釈迦さまが『仏陀』となられた御聖日

2021-12-08 14:21:33 | Weblog

本日、十二月八日は成道会(じょうどうえ)。お釈迦さまが菩提樹の下で悟りをお開きになられて『仏陀』になられた御聖日。全国の仏教寺院や教会の多くでは成道会といって、お釈迦さまが仏陀になられたことを讃える法会が修行される。

この日替わりブログをご覧の皆さまに、お釈迦さまのことを少しでも知って頂けたら有難い。

出家される以前のお釈迦さまが、まだシッダールタ太子と呼ばれていた頃、自身の抱えた問題を解決するために思い悩む日々を過ごされていた。そして…、

以下、『仏教聖典』より抜粋させて頂いた。

太子は、春季・秋季・雨季それぞれの宮殿にあって歌舞管弦の生活を楽しんだが、その間もしきりに沈思瞑想して人生を見きわめようと苦心した。

「宮廷の栄華も、すこやかなこの肉体も、人から喜ばれるこの若さも、結局このわたしにとって何であるのか。人は病む。いつかは老いる。死を免れることはできない。若さも、健康も、生きていることも、どんな意味があるというのか。

人間が生きていることは、結局何かを求めていることにほかならない。しかし、この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいものを求めることの二つがある。誤ったものを求めることというのは、自分が老いと病と死とを免れることを得ない者でありながら、老いず病まず死なないことを求めているということである。

正しいものを求めることというのは、この誤りをさとって、老いと病と死を超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。今のわたしは、謝ったものを求めている者にすぎない。」

こにように心を悩ます日々が続いて、月日は流れ、太子二十九歳の年、一子ラーフラが生まれたときに、太子はついに出家の決心をした。太子は御者のチャンダカを伴い、白馬カンタカにまたがって、住み慣れた宮殿を出て行った。そして、この俗世界とのつながりを断ち切って出家の身となった。

このとき、悪魔は早くも太子につきまとった。「宮殿に帰るがいい。時を待つがいい。この世界はすべておまえのものになるのだ。」太子は叱咤した。「悪魔よ、去れ。すべて地上のものは、わたしの求めるところではないのだ。」太子は悪魔を追い払い、髪をそり、食を乞いつつ南方に下った。

太子ははじめバガヴァ仙人を訪れてその苦行の実際を見、次にアーラーダ・カーラーマと、ウドラカ・ラーマプトラを訪ねてその修行を見、また自らそれを実行した。

それはまことに激しい苦行であった。釈尊自ら「過去のどのような修行者も、現在のどのような苦行者も、また未来のどのような出家者も、これ以上の苦行をした者はなく、また、これからもないであろう。」と。後に言われたほど、世にもまれな苦行であった。

しかし、この苦行も太子の求めるものを与えなかった。そこで太子は、六年の長きにわたったこの苦行を未練なく投げ捨てた。ナイランジャナー河に沐浴して身の汚れを洗い流し、スジャータ―という娘の手から乳粥を受けて健康を回復した。

このとき、それまで太子と一緒に同じ林の中で苦行していた五人の出家者たちは、太子が堕落したと考え、太子を見捨てて他の地へ去って行った。

いまや、天地の間に太子はただひとりとなった。太子は静かに木の下に坐って、命をかけて最後の瞑想に入った。「血も涸れよ、肉も爛れよ、骨も腐れよ、さとりを得るまでは、わたしはこの座を立たないであろう。」これがその時の太子の決心であった。

その日の太子の心は、まことにたとえるものがないほどの悪戦苦闘であった。乱れ散る心、騒ぎ立つ思い、黒い心の影、醜い想いの姿、すべてそれは悪魔の襲来というべきものであった。太子の心はすみずみまでそれらを追及して散々に裂き破った。まことに、血は流れ、肉は飛び、骨は砕けるほどの苦闘であった。

しかし、その戦いも終わり、夜明けを迎えて明けの明星を仰いだとき、太子の心は光り輝き、さとりは開け、仏と成った。それは太子三十五歳の年の十二月八日の朝のことであった。

これより太子は仏陀、無上覚者、如来、釈迦牟尼、釈尊、世尊などの種々の名で知られるようになった。

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