mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

思い込みの絶大なすれ違い花の楽園、難行の苗場山

2016-07-28 16:18:04 | 日記
 
 昨日の《帰納的か演繹的か――世界を描くむつかしさ》書いている時に、モノの考え方において大きな違いを生む出発点の思い込みについて、ふと思い浮かんだことがあった。宗教に関することである。欧米的な志向が「希望のあかり」として強く働いていたとthった。高校生の時の西欧思想とはマルクス主義であった。私は経済学を選んだのだが、マルクス主義の思想は、いろんな場面でいろいろな人とメディアを通じて流れ込んできた。その中の一つに、「宗教は民衆のアへンである」というのがあった。
 
 アヘンというとまず私は、アヘン窟を想いうかべる。小学校の3,4年の時だったと思う。タバコやマヤクをのむと(中毒になって)このようになると(今風に言うと)劇画にしてあった小さなんパンフレット。繰り返し見て、今見ているのと別の世界があると強い印象を私の胸中に刻んだ。戦後のヒロポンなどが世の中にまん延するのに対応した啓蒙パンフレットだったのであろう。もう少し大きくなってからは、アヘン戦争の話が当時の清の対応をふくめて頭に浮かぶ。だから「宗教は民衆のアへンである」ということばも、間違いなく不正・不当なことという響きをもって受け止めていた。
 
 ところが1970年前後のことだったと思うが、何かの本を読んだか誰かから話を聞いたか、マルクスは(その言葉を書いた当時)痛み止めのためにアヘンをつかっていたことがあって、言うならば、民衆にとって宗教というのは厳しい人生の痛みを忘れさせる力があると表現したにすぎない、というのである。耳にした当座は、何を言ってるんだかと聞き流していたのだが、ある時ふと、価値的な物言いではなく、事実の指摘だと思ったとき、たいへん大きな思い込みをしていたことに気づいた。つまりマルクスのそれは、宗教を排撃しようという表現ではなく、民衆に対する作用力を指摘したにすぎない、と。中毒になるほど依存すると大変なことになるが、現実生活にはそれなりに必要なものではある、と。そう考えてみると、社会主義国で行われていて、当然と思われていた「宗教の排撃」は大きな間違いをしている。そう思った。
 
 こうした思い違いを、私たちは案外多くしているものかもしれない。自分のはじめから抱いている思い込みには気づかない。幼児期を含む身への刷り込みは、当人には隠されているからだ。だが気付かないまま、価値的にコトを判断してしまうと、今度はそれが根拠となって、次の物事の判断のステップに踏み込む。こうして累積した「思い込み」が、他の人と対しているときの絶大なすれ違いとなり、とてももどかしくて付き合いきれない、という思いに至るのである。
 
 結局、我が身が受け取る感覚や考え方を一つひとつを引っぺがして、その根拠を問い、我が身の輪郭を描きとるようにして世界と対する以外に、向き合うほかない。どこまで行っても、優柔不断の宙づり状態がつづく。でもそういうものかもしれない。「無」だ「空」だと居直って悟り面してみても、少しも「かんけい」は変わらないのだから。
 
 さて、今日から三日間、田舎へ帰ってくる。母親の3回忌。こうして私の身に刻まれた「累積」が緩やかに遠ざかっていく。
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