mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

三つの兆候

2015-12-24 20:43:44 | 日記
 
 最近、ちょっとしたコトの兆候が起こり、我がことながら驚いている。
 
 そのひとつ。正月に田舎に帰った時の宿を、そちらに住む兄に頼んだ。1週間ほどしても、返事が来ない。兄は(自分の家に泊まれと思っているんじゃないか)と心配した。カミサンも一緒だし、弟も1泊は一緒に付き合うと言っている。いつもならメールでやりとりするのだが、兄は電話でじかに話す方を好んでいる(と私が思っている)。電話をした。
 
「えっ、予約は取ったよ。それメールしたじゃない」
「そうだったかな?」
「お前からの返信メールも受け取ったし……」
「えっ? そう?」
「そのとき私が、良い年をお迎えください、って書いたら、お前から、まだ早すぎるよって返信が来たよ。ちょっと待て……。17日のことよ」
 
 そういう返信を打った覚えはあった。17日のメール「受信」を開いてみると、ちゃんと「遅くなったが予約は取れた。当日夕食をご一緒させてもらう」と兄からメールが入っている。これはエピソード記憶の喪失、認知症の決め手になるような出来事である。う~ん、まいったなあ。
 
 そのふたつ。毎朝コーヒーを淹れる。豆を挽き、手差しのドリップで淹れる。豆を挽いてポンと入れようとしてハッと気づいた。ドリップペーパーをセットしていない。慌てて、少し入った粉を取り出し、ペーパーをセットして淹れなおした。それだけのことだが、いつも無意識に執り行う習慣化した手順を、間違えてしまうというのは、身体の一部(の段取り)が欠落しはじめたのではないのか。これは、ひょっとすると、大変なことではないのか。
 
 そのみっつ。同じくコーヒーを淹れる別の朝のこと。コーヒー豆を挽いて粉にし、ドリップペーパーを敷いたのに移そうとミルを動かしていたとき、なぜかミルが手から滑り落ちそうになった。ミルを落とさないように摑んだはいいが、さかさまになって粉が全部床に落ちてしまった。手が思いと別の動きをしているのか。粉はカミサンが笑いながら始末をし、私はもう一度豆を挽いて、コーヒーを淹れる羽目になった。どうして? というのが、まったくわからない。何かの啓示なのか?
 
 以上の三つが、兆候である。何の? たぶん、老いの兆候だ。吉本隆明は、「老い」というのを健常なときの人の能力が衰えると延長上にとらえないで、別種の人間になるとみた方がよいと『老いを超える』で言っていた。つまり、ふつうの人間の延長上にあるとみると、どうしてこんなこともできないのかと腹も立つ、歩くのが遅いと苛立つことにもなる。だが、人間ではなく別種の「超人間」だとみると、苛立ちも腹立ちもしない。容貌魁偉な乳幼児をみるようなものだ。
 
 ぼちぼち私も、「超人間」の領域に入りつつあるのかもしれない。その兆候が「天の啓示」として示されたのではないか。この先、示される兆候を見落とすことなく、我が「老い」をとらえてみたい。なぜ? とらえていれば、運を天に任せるなどと言わないでも済む。でも、そうか? とも考えている。