mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

どこに足場を置いて日本の農業を考えるか

2015-12-19 09:56:10 | 日記
 
 近頃、山を歩きながら気になるのは、耕作を放棄した田畑と手入れされていない森の様子である。
 
 まず、こんなにも標高の高いところまで人の手が入っていたのかという驚きがある。標高で1000mを超えるところにまで田畑が耕されていた形跡が残っている。土が流されないように石組が為されていた跡。家屋はすっかり崩れて廃屋ということばさえ、言い過ぎと思われるほど廃材が散らばっている。そこまでいかず、まだ里山と言っていいところでも、高齢の主が亡くなったのであろうか、耕されることもなく草茫々の田畑が痛ましい。TVのNHKBSの「里山」という10分番組などをみると、山奥の棚田が水を湛えて美しく、人の営みが何百年というたいへんなご苦労の積み重ねであることをうかがわせるから、耕作を放棄した土地の来歴をいっそう思い起こさせて、時の遍歴の大きさに思いが及ぶ。
 
 人工林はすぐにわかる。スギやヒノキ、アスナロなどが標高1500mを超えるところに森をつくっていたりする。山の斜面の北側か南側か、東側か西側かで樹種の違いがある。片方の斜面は広葉樹林が陽ざしを受けて明るく輝いているところもある。間伐と枝打ちの手入れができている人工林は、林床に陽ざしも入り草木が生えて賑やかな気配があるが、手入れが為されていないところは薄暗く、スギやヒノキの枯れ落ち葉に覆われ草も生えていない。これまでは、間伐された木々が切り倒されたまんま放置されていると思っていた。だが、材として利用するには費用が掛かりすぎる間伐材は、切り倒したままに捨て置く方が森の再生に活かせるという「森の作り方」の本を読んで、見方が変わった。森林を保持するご苦労の形跡をみるようになったのだ。放置してでも、間伐を行うという手間を入れることが森の保持に欠かせない、と見てとる。
 
 山下一仁『日本農業は世界に勝てる』(日本経済新聞出版社、2015年)を読んだ。ふだんなら、このようなタイトルの本は遠ざける。「勝てる」かどうかという発想自体に違和感があるからだ。だが、どこかの何かで、この著者が農林水産省の役人を経て研究者になり、現政権のいくつかの参与をしながらも批判的な意見を言っているのを知って、興味を覚えた。この本を手に取った。面白かった。
 
 日本農業のもつ地形的・気候的な自然条件や歴史的条件に加えて、グローバル化の進む国際貿易関係の変化を指摘して、表題のような主張を展開している。生産性の低い日本農業という「神話」が、むしろ農政共同体によってつくられたものだと、自らの所属していた足場を批判することから説き起こしている。
 
 自然条件ということについて言えば、南北に伸びる列島、山間地を含む高低差、おおそよ大規模経営に向かない狭小な田畑の零細農地。湿潤な温帯地域という気候条件、それに伴う降水量の多さ。森林と田んぼをつくることによる保水力の高さが誇る農業生産力の条件を、まずアメリカやオーストラリアの大規模経営の農産物と比較して、(国際貿易においても)有利であると解析する。つまり私たちがいつ知らず抱いていた大規模農業の低価格産品と競争するというイメージが、じつは産品の質の争いになっていること、その点における日本農業のメリットを掬いだし、鍛えることが「勝てる」道だと力説する。
 
 簡略に言えば、「勝てるかどうか」と言うよりも、負けることを恐れず、自信をもって「勝ちに行け」と檄を飛ばしていると読むのが正解なのであろう。自信の根拠は、上記の自然条件や歴史的蓄積とその双方の融合した農業技術や作法の形態である。
 
 「農業を”工業化”しよう」という章の表題から、単純な大規模化や工業化かと思うとそうではない。「農業は株式会社化してはならない」と農業に参入して撤退したオムロンやユニクロなどの企業のケースをあげる。農業は、(生育するものに)人の眼が常に張り付かなければならない上に、自然条件の変化に応じて臨機応変に対処しなければならないから、近代工業的な労働関係の視線では失敗するとみる。そして、それに代わって農地や農業機械の効率的な展開を、田植え時期の時差を利用して効率よく行っている事例を紹介し、協業的に分業する”工業化”を提案する。ここには、道路交通事情などインフラの整った社会基盤を前提にした考察がある。これからの「農業経営」というわけである。
 
 あるいはまた、貿易関係における取引において、得意とする工業産品の輸出、劣位農業産品の輸入という単純図式ではなく、農畜産物の相互輸出入が盛んになっていると解析する。例えば、牛肉の取引がアメリカとオーストラリア間にほぼ同額行われていることを取り上げる。安いオーストラリア牛肉をアメリカのファストフードが輸入し、高級牛肉を日本やEU、あるいはオーストラリアに輸出するというふうに。品質と用途において子細に見てゆくことによって、「競争」の様相が変わることを見て取れと言う。米ロ間の小麦の取引など、同じ品種の商品が「質」の違いによって相互に取引されていることを例示して、日本の農業産品が何を得意技として競争に乗り出していくべきかを考えてみよという。日本のコシヒカリとカリフォルニア産のコシヒカリと中国産のコシヒカリの価格比較を行って、カリフォルニア産のそれよりも5割、中国産のよりも2.5倍高いにもかかわらず日本産のコシヒカリが売れるわけに注目させる。あるいは、中国の農産物輸入が激増していること、その国内価格も高騰していることの先を読んで、日本農産物がたとえ自由競争になっても、十分耐えられる力を持っていることを力説する。つまりこの本のポイントは、農業生産と国際競争に関する私たちの固定観念を根底から覆そうというところにある。従来型の農業生産を「守る」姿勢から、大規模経営ならずとも、つねに生産性を向上させ、切り拓いていく農業にして行く姿勢をつくりだすにはどうするのか、と問う。
 
 だが、もちろん著者のいう農業経営が成立する場面に(規模の大小を論外としても)零細兼業農家の立ち入る隙はない。今の農政が何を保護し、何と何の利得を優遇し、誰の食糧を確保しようとすすめられているかを、根底から考え直してみよと言っている。それによって、「勝てる」かどうかも、価値判断が可能になる。これは読む者が、これまで何を「守ろう」と考えて、農政を云々してきたかを問うものでもある。
 
 これまで農業生産における枷と考えられてきた自然条件が、じつは歴史的に農業生産の質を高める作用をしている点に目を留める。するとそれが、国際競争場面における質的展開において優位な点になっている。それを活かす農業生産に切り替えていくことを探るよう奨める。読者自らの農業を見る目を洗い直すことを求める。まさに目から鱗が落ちるような思いがする。
 
 ただ著者が批判する、農政共同体の強固さは、すでに零細兼業農家をふくめて、肌身に染みついた振る舞い方(ハビトゥス)を構成している。近代農業ばかりではない。弥生時代以来の蓄積を通じて身に着けてきた水の保全、ため池や水路の整備、その上流に当たる森の植林と保護育成。それにまつわる農村という集団とその規範の形。それらをベースにして近代農業がかたちづくって来た共同体と各戸農家の関係、その強固な上部である農協や全中という根を張る組織とそれのつくりだしている現在農業社会の慣習。それらを切り崩して再編するには、新規政策の提起だけでは敵わない変革が必要になろう。そこにどう切り込むのか。二千数百年の視野をもって観ていたい。
 
 岡目八目ながら、模様をじっくりと見させていただこうか。愉しみに思っている。