mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

第17回Seminarを受けて考えたこと(3)抽象する力の向いている方向

2015-12-11 11:12:37 | 日記

★ ことばとしての「色」の発祥
 
 《「青」「赤」「黄色」ってのは、いちばん最初に「色の名」とでてくるけど、「緑」はそうではなくて「草木の新芽」とでてくる》
 
 と講師・魔女さんは、「広辞苑」をひいて話していました。私はどことなく腑に落ちない気持ちを抱いていました。Seminarの場では、
 
  《(赤、青、黄というのは三原色ですから、特権化されているでしょ。緑ってのは、原色の混合による中間色だから、「草木」というのが先に来るんじゃないの?)》
 
 と、声が上がっていました。だがそれも考えてみれば、今からみればそうでしょうが……でも、と得心の行かない思いが残ります。「ことば」の発祥の初めから「色」が浮かんだのだろうか、と私自身のことばの成り立ちを振り返っているからです。
 
 「青」や「赤」にしても、海の青、空の青、真っ赤に燃える火、沈む夕日というふうに、モノやコトの持つ固有の属性として(色は)認識されてことばになります。それが延長されて、クスノキの実とかトリカブトの花の色を「海の色」とか「空の色」と言ったり、あるいは、ナンテンの実やツバキの花の色を燃える火や夕日に擬(なぞら)えていた(またはその逆だった)のではないかと考えているからです。つまりまずはじめは、モノ固有の属性として「~の**」として**(いろ)が広く認知され、いつしかモノ(~)の共通属性としての「色(**)」が取り出されて「赤」や「青」と名づけられた。それがさらに、彩色や染色の技術がすすむにつれて固有色のまんまではなく、いろいろな「色」(のひとつ)として抽象化されたのではないでしょうか。
 
 「広辞苑」の向こうを張るわけではありませんが、「青」や「赤」の語釈の第一義を「色の名」として、「緑」を「草木の新芽」としている辞書ばかりではありません。私の手元にある「日本国語大辞典」(小学館)では「緑」の語釈の第一義は「色の名」となっています。別に小学館に恩義があるわけではありませんが、「全20巻」の辞書の方に重きを置きたくなるのは、手に持ってみると分かります(笑)。とまれ、国語辞典の「語釈」の順序によりも、私たち自身のことばの成り立ちの方が、肌身の実感に近い気がします。
 
★  「抽象化」する力
 
 そうそう、「抽象化」ということばを使ったので、「Seminarを受けて考えたこと(1)」において見田宗介につけたイチャモンに補足をしておきます。次のようにイチャモンをつけました。
 
 《ヨーロッパ人がアメリカ大陸に現れたとき、この大陸の原住民の眼には白人が「自然を憎んでいるとしか思われない」と映っていたことはよく知られている》と社会学の泰斗・見田宗介は記しています(『見田宗介著作集Ⅳ』岩波書店、2012年)。もちろん見田は「それはアメリカ原住民の誤解」とすぐに「訂正」していますが、私は「憎んでいるとしか思えない」という見方の方が的を射ているように思えます。自然との向き合い方においてヨーロッパ人は「敵対的」であり、私(たち)は「親和的」です。その決定的な違いがあるのです。
 
 見田宗介の見立てに絡んで、アメリカ原住民の見立てに肩入れをしたのでした。もちろんその私の実感に変わりはありません。
 じつは見田は、土着民の「自然を憎んでいる」という見方よりも、ヨーロッパ人は「自然を抽象化している」とみるのが適切だと言っているのです。もっと踏み込んでいえば、絶対唯一神によってつくられた自分たち人間が、同様に作られた「自然」を「(生きるために)自由にしてよい」と与えられたという(旧約聖書の記述)のが前提になっています。そのようにして特権的地位に人間を置くから、ヨーロッパ人は自然を抽象化してとらえることができる、そういう哲学が根底にあるのです。
 アメリカ原住民も私たち日本人も、自然と親和的にやってきました。ここで「親和的」というのは、絶対的な力を揮う自然を畏敬し、その摂理に順応的に適応することを意味しています。もちろん自然は、畏敬されているかどうかにお構いなしに、恵みももたらすが、ときどき歯を向いて災禍を及ぼします。ですが人々は、親和的であるがために、ひたすら耐えるほか術を持ちません。ところがヨーロッパ人は、特権的に自然をとらえているために、自然を作り変えようとして、力を揮います。ときには自然の摂理に反するようなことを(力任せに)推し進めるようなこともしますから、原住民からみると「憎んでいる」ように見えるのです。
 
 この差異は、しかし、何事につけ、日本人とヨーロッパ人(あるいは欧米人)との振る舞い方の違いに底流しています。
 
★ 欧米の環境倫理学者がみる「日本人と自然」
 
 話しのついでに、去年の12月に記した私のエッセイをご覧いただきたい。
 
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 J・ベアード・キャリコットは『地球の洞察――多文化時代の環境哲学』(みすず書房、2009年)で、次のように問題提起をする。
 
 《日本では環境倫理が隆盛をきわめているのではないか、またエコロジーにおける自国及び地球全体に対する責務を果たす聖戦において、世界の先頭に立っているのではないか。ところが、あろうことか、事実はそうではないのである。》
 
 「日本で環境倫理が隆盛をきわめている」と見込んだのは、以下のような事実に目を留めているからである。
 
 《確かに日本の耕地は依然として森に覆われている。また、小規模で労働集約的な日本の農業は、環境に対する負荷が少ない。また、これは海外の農産物と競争すれば破壊されることが必至であるため、合衆国政府の驚愕をよそに、日本政府は多大な熱意を傾けてこうした農業を保護している。さらに、日本はその景観のかなりの部分を国立公園や国定公園などの保護区にしている。その結果、日本の農村部の美しさは保たれており、地方でも人口が稠密なわりには、生態学的に見てかなり健康な状態が維持されている。》
 
 ではどうして、日本は彼の期待を裏切るのか。
  
 《しかし、精密な社会学的調査をみると、北米の人々に比べて、日本人には原生自然についての知識や関心がはるかに乏しいことが分かる。》
 
 と指摘して、日本の材木会社が東南アジアの熱帯雨林を破壊している、日本の流し網漁は世界中の大洋を荒らしまわっている、さらにクジラを食べることを、一世紀に満たない浅い歴史であるのに伝統的な食文化のように誤解している、とつづく。前回私がかみついたのは、この最後のクジラの部分だけである。
 
(1) 西洋の技術を取り入れて、自分たちに固有の知の文化を速やかに忘れてしまった。(グラパード)
(2) 日本の伝統的な芸術、宗教、哲学で尊ばれている「自然」は、人間によって栽培されたスケールの小さなものであり、抽象的な様式化されたもの。「森林地を復元してきた人々の関心は、きわめて(実際的)なもの……、人間の物質的な必要を満たしてくれることだった」。(トットマン)
(3) 日本文化は自国の自然環境に細やかに配慮してきた。しかし、それは環境全般に対するものではなかった。配慮の対象となったのは、選ばれた場所(名所など)、……ある種の植物、……一年の中の決まった瞬間、……といったものであり、そうしたものがすべて一定の習いにしたがって組み合わされ、その限りで配慮されていた。(オギュスタン・ベルク)
(4) 日本人の自然と野生生物への賞賛は、……一定の生物種や、美的に重要な自然界の個々の対象に焦点を合わせたものであって、一般的に言って、情緒的、生態学的、思想的に狭い視野から行われていた。(ケラート)
 
 と、「謎」を解こうとしている。これらを読むと、上記の(1)から(4)とそれを読み取っているキャリコットの諸氏が「日本の美」を示す「芸術や宗教や哲学」に対して、強い思い込みをもっていることが分かる。造園や自然や野生生物に対する細やかな配慮は、断片的であり、限定的なものであり、(生活上の)実際性が優先されるものに過ぎなかったというが、そんなことは当たり前であり、読み取る側が勝手に「自然と一体になった日本人の暮らし」から思い入れをしている証左である。
 
 日本人の「自然観」は「謎」などではなく、「自然」にどっぷりと浸り、それに適応して過ごしているものの「じねん」である。むしろ西洋の人々の、「自然」を「環境」ととらえること自体が、日本に暮らすものにとっては、不思議に思える。つまり「自然」を「環境」というとき、自分たち人間存在は「自然」と別物としてみている。それは、絶対神が世界を創造したという物語、しかも「自然」を人間が差配してよいとする物語りから紡がれた観念であろう。「謎」を解くのなら、絶対神の世界創造の物語りがなぜ生まれたかを解き明かす方が第一であろうと思う。単に、工業化社会が全盛になってそれが地球を席巻している今の時点だからこそ、みずからの起こした破壊の巨大さに驚き、環境倫理を探究して、日本人の「原生自然に対する知識や関心の乏しさ」をあげつらっているのだと、みてとる必要がある。もちろん私は、日本人の知識が豊富であったと擁護しようとしているのではない。日本人の対応は「謎」ではないと言っているのである。
 
 キャリコットは、人間主義とか人間中心主義に対置して生態学的人間主義という概念を提起している。つまり、西洋が生み出した近代の工業社会に生態系を組み込んで持続可能な社会をイメージしようとする。ディープ・エコロジーとかソシアル・エコロジーと呼んでいるらしいが、そもそも、人間の自然支配を前提にした「近代工業社会」が、人間を自然の内在的存在とみる日本の人たちにつきつけたものこそ、「逸脱」だったのである。だから、工業社会の発展に応じて自然破壊が進み、それに驚いた時点から、日本では生態学的方向と近代工業化の発展の方向とが確執を醸してきた。いまのアベノミクスにしても、旧来型の景気回復路線であることを考えると、「禅」の質素、倹約という自然観を組み込んだ生活の見直し路線へ転轍するのは、むつかしい。しかもそれは、哲学的課題であると考えてみても、「日本人の課題」であるとは思えない。豊かな暮らしを希望するすべての人々にとって「喫緊の課題」なのだ。ことに先進国の人々は、途上国の人々の暮らしが向上していく過程について、「質素、倹約」をすすめるのであれば、まず隗より始めよ、だ。(後略)
 
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 「色」の話が「自然観」とか目下国際会議中のCOP21にまで転がりそうです。でも、キャリコットを非難したところで、「原生自然に対する知識や関心の乏しさ」という日本人への批判は躱(かわ)せません。もちろん批判が的を射ているなら、それなりに受け止めて考えなければなりませんが、近頃話題になっていた江戸の時代のエコロジカルな暮らしぶりを知ると、一概にそうも言えないのではないかと、内心思っているのです。
 
 欧米一神教的自然征服路線か自然(じねん)服従適応路線か。二項対立で考えて行けるなら、私は後者を採って、生活程度としては低空飛行であっても自然を大切にしてぼちぼちやっていくという方がいいように思うのですが、皆さん如何でしょうか。(つづく)