mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

第17回Seminarを受けて考えたこと(1) 異世界が実在する!

2015-12-06 09:21:06 | 日記
 
 さて5回にわたって「ご報告」をしてきました。ほぼ、会場で話されたことを、かいつまんでではありますが、網羅しています。「色」に関するいろいろな場面を拾って2時間でお話しするというのは、(たぶん饒舌魔女にとっては)むつかしかったろうと推察しています。
 
 まず、話題を絞るのがたいへんだったでしょう。あれもこれも、興味尽きない「色」の広がりをチョイスしなくてはなりません。結局魔女が採った戦術は、皆さんに話題を振りまいて煙に巻くというものにみえました。さて、大風呂敷が広がりました。ではそれで何を包むのか、それはみなさんそれぞれがお考えくださいねって、投げ出して見せました。そして、じつはそれが、もっとも効果的だったようですね。
 
 Seminarが終わった後の皆さんの評判は[面白かった!]でした。どこがどう面白かったのか、それに踏み込んでこそSeminarだと私は思っています。そこから話は繋がり拡がって、話し手も聞き手も思ってもいなかったところへ展開していくこと(があれば……)、それこそが、Seminarの神髄ではないでしょうか。そんなことを考えながら、刺激を受けた部分を拾ってみようと考えました。
 
★ まず追伸:「第17回Seminar ご報告(1) の訂正」
 
 「ご報告(1)」の文中の誤字・誤植はたくさんあります。同音異義語だと思って読み解いてくだされば、解読できます。ご容赦ください。でも、決定的な間違いがありました。
 
 「色覚は人間だけのものか」の中で、色の波長の単位を「mhz(メガヘルツ)」と表記しましたが、「nm(ナノメートル)」の間違いでした。お詫びして、訂正します。なお、インターネットの「ヤフウ知恵袋」では。以下のような「解説」がありました。参考までに追記します。(報告者)
 
《可視光線の波長は、nm(ナノメートル)という単位で表します。n(ナノ)は、10億分の1のことです。すなわち1nmは、10億分の1メートルです。赤い光の波長を測定すると、650nmくらい。緑だと550nm、青だと450nmくらいということです。数値を決めたのではなく、波長を測定したのです。
 眼には3種類の錐体細胞があって、600nm付近の波長赤に反応するもの(赤)、530nm付近の波長に反応するもの(緑)、420nm付近の波長に反応するもの(青)があります。そして、その細胞の反応が脳に伝わって、頭の中で色を作り出しているのです。3種類の錐体の反応で色を作り出しているので光の三原色で色が表せるのです。ですから、本当にそのような色が存在するわけではなく、さまざまな波長の電磁波があって、そのうち400~700nmの波長の光に対して3種類の錐体細胞が反応し、頭の中で色を疑似的に作っている、というだけのことです。》
 
 上記説明文中の「頭の中で色を疑似的につくっている」というのは、面白い表現です。「疑似的」って、どういうことでしょう。「人それぞれ」ということを言っているのでしょうか、「幻覚だよ」って言っているのでしょうか。
 「色」そのものが外部世界に実体的にあるのではなく、脳内で「物語として構成している」といいたいのでしょう。つまり「関係的事象」だということです。見ている物体とそれにあたる光とその反射光を受け取る人の眼や脳との「かんけい」ですね。
 
★ 異世界が実在している
 
 それにしても光の波長を受け止めているのは確かですが、イヌやネコが「色」として受け取っていないというのは、ちょっと驚きですね。でも魔女は、昆虫は色として受け取っているようなニュアンスで話していましたが、それらがどのような(実験を行った)過程を通じて確認されたのか、考えてみると面白い領域ですね。さらにそれは、人間とほかの獣や虫や生き物たちとは、世界の認識が違うってことですね。
 
 そんなことは当たり前ではないかと、私の内心は、驚いている自分に声を掛けます。たしかに、驚くということは、虫も動物も人と同じように世界をみているといつしか思い込んでいたからですね。私にはアニミズムに傾く好みがあると思ってはいましたが、それがこんな形で世界まで同じに見ているような錯覚を生んでいたのです。日本人が虫の音を愛ずることもそうですが、西欧人には雑音にしか聞こえないと言います。日本人は、自らも自然の一部と感得しているから、虫の音にも己を仮託してしまうのでしょう。ヨーロッパ人は、人間は自然から超越している特権的存在と考えているから、虫の音に自らの感情を映して見てとるということが苦手なのかもしれません。
 
 《ヨーロッパ人がアメリカ大陸に現れたとき、この大陸の原住民の眼には白人が「自然を憎んでいるとしか思われない」と映っていたことはよく知られている》
 
 と社会学者の泰斗、見田宗介は記しています(『見田宗介著作集Ⅳ』岩波書店、2012年)。もちろん見田は「それはアメリカ原住民の誤解」とすぐに「訂正」していますが、私は「憎んでいるとしか思えない」という見方の方が的を射ているように思えます。自然との向き合い方においてヨーロッパ人は「敵対的」であり、私(たち)は「親和的」です。その決定的な違いがあるのです。
 
 もっとも哲学的に言えば、人間以外の生物の「世界」の感知を「認識」というのには問題があるともいえます。人間以外の動物が「外部」を認識する過程を経ているのかどうか、わからないからです。「認識」というのは、「己が(外部世界)を認知している」という区分け(分節化)が為されていてはじめて使える言葉です。生来的な感知能力(本能)に組み込まれていることを「認知」だとか「認識」だと言ってしまうのは、やはり、人間が自分の感性や感覚を他の生物に仮託してしまっているからです。(だが他の生物が「外部」をそれとして認知していないともいえないのではないかと、また別の私が異議を申し立てています。それはしかし、棚上げしておきましょう)
 
 でも、科学者のいろいろな本を読んでいると、実験動物や生物に名前をつけて群れの観察をしたりしています。これもはじめは、日本の学者たちがサルやゴリラの観察で用いていた手法だそうで、それによって欧米の動物生態学もずいぶん刺激を受けて、観察が精密になったと言われています。考えてみると、この方法は、しかし、動物たちを人間が(人間特有の窓を通じて)観察しているという限定をいつも考慮しておかねばなりません。それくらい、魔女の指摘は、異世界が実在することを目の当たりにつきつけて見せたように思いました。
 
 その考えを延長してみると、人間同士の感性や認識や世界の受け止め方にも、「異世界」と言っていいほどの受け止め方の違いがあるように思います。通常「病気」と名づける状態に身を置いている人が感じている「世界」は、健康な人が見たり感じたりしている「世界」とは全然違うのかもしれません。いくら(人間には)共感性があるとはいえ、痛みも苦しみ悩む思いも沈む気持ちも萎える気力も、他人事にちがいありません。同情はできるでしょうが、それとても、健康な人が病気の人に同情するという「立場」の違いは超えるべくもありません。まして、「躁鬱」とか「うつ」とか「解離性同一障碍」といわれる「精神を病む」人たちのことを「病気」とか「疾患」と名づけて健常者は区別しますが、果たしてどちらのみている「世界」が「ありのままの」世界なのかは、わからなくなりますね。
 
  「異世界が実在する」という今回の「発見」は、私の中に違った視点を組み込むきっかけになるように思います。。魔女の口からこぼれ出た「毒気」は、なかなか面白い世界を開示して見せてくれるのかもしれません。 (つづく)