mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

地の塩として生きる

2015-12-12 10:44:55 | 日記
 
 10/11の本欄で《「M 最後の企画」のキューバ》と題して紹介した友人のMさんが、昨日亡くなった。68歳。
 
《このフェスティバル(「キューバ★ラテン・フェスティヴァル」)のお誘いを受けたときMさんは「M 最後の企画」と手書きで書き添えていた。Mさんは昨年秋、胆のうの癌が見つかり、すでにかなり進行していた。手術をしないと決め、放射線治療で抑えてきている。タバコを片手に酒を酌み交わして陽気におしゃべりをしていたMさんが、酒もタバコもやめ、「うまくないんだよな」といいはじめて1年。筋肉質であった風貌も、めっきり痩せて、あのパキスタン・ラホール博物館所蔵の「釈迦苦行像」のようにさえみえる。一月前にはそうでなかったのに、一昨日は杖をついていた。しかし、背筋はきりっと伸び、声には張りがある。まだまだへこたれないぞと内側から気概が噴き出して彼の身体を支えているような気配がみなぎる。一種荘厳な雰囲気さえ漂うようだ。》
 
 彼が入院していると知らせを受けて病院へ見舞ったのは一昨日。点滴を受けている。顔色も黒ずみ、声もぼそぼそとつぶやくように低く小さい。だが、意識ははっきりしている。「脚が浮腫(むく)んで身体を動かせない。床ずれがつらい」と小さな笑顔で話す。個室ということもあって1時間ばかり言葉を交わした。
 
 前日、Kさんが来てくれて、むかしの話をしたこと。教師になったころ活躍していたKさんにオルグされたこと。結婚したこと。学芸大の教師をしていた兄が見舞いに来て話したこと。1年ほど後に私たちのグループと知り合いになったのだが、「異議あり! があって良かった。面白かった。」と、その後の私たちの「活動」が彼の半生の基軸であったことを振り返るようにとつとつと言葉にする。
 
 1970年から私たちは、ガリ版刷りの機関紙「異議あり!」を半月刊で出し続けてきた。月に2回集まり、その作業をする。年に2,3回「合宿」をする。そのうち、月に2度、泊り込むようになり、「合宿」に自分たちの子どもたちをことともなうようになる。やがて固定的な「宿」を建設してMさんが「宿長」となって月2回の「埼玉教育塾」を開催するようになり、2006年3月までの36年間、欠かすことなく「異議あり!」を発行する「活動」をつづけてきた。その後も月に1回「勉強会」を行い、年に2回「合宿」を行う。Mさんは「宿長」として、実務を取り仕切ってきた。
 
 連絡のセンターを引き受け、会場を確保しお茶を出し食事の世話をみるという「実務」は、長く活動を続ける集団において欠かせない安定感を醸し出す。まして月2回の刊行物の発行は、印刷や帳合い、宛名書きから封入・郵送までの作業をふくめて、継続することの大変さがある。もちろん会計処理もきっちりとしていなければならない。その上に泊まり込み、「勉強会」を行い、酒を飲んでしゃべりあい、遊びもしながら46年間を過ごすというのは、並みたいていのことではない。その大変さを「実務」の安定感が全部引き受けてきた。本や雑誌でもそうだが、ともすると私たちは、書かれている内容や読まれた評判に眼が止まってしまう。だが、実務作業がしっかりしていなくては、これほど長く続けることはできなかった。それの中心に寡黙に位置していた一人がMさんであった。彼が「楽しかった。面白かった」とポツリとつぶやいた一言は、私たちの「活動」への総合的な評価であった。
 
 その間にも、喉が渇くのか、吸口の水で少しずつ唇を湿らせてはゆっくりとことばをつづける。テーブルにおいたヤクルトを「開けてくれ」と頼んで、1/3ほど飲む。部屋が南向きで明るいので気持ちがいいとか、胃は大丈夫、果物は食べられるともいう。点滴では口さみしいだろうから、翌々日にはリンゴを持ってきて小さく切ってあげるよというと、力なく「そうね」と頷く。
 
 1時間が過ぎるころ、やはり46年間ともに歩いて来たNさんが見舞いに来た。Mさんが少し疲れた様子だったので辞去したのだが、まさかその翌朝に亡くなるとは思ってもいなかった。ちょうど今日が、私たちの「活動」の月例会が予定されている。自宅に戻っているMさんと全員で会って、お別れをする。