mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

第17回Seminarを受けて考えたこと(2) 「天然の禁色」が変わった

2015-12-09 07:59:23 | 日記
 
 講師・魔女さんのSeminarを聴いたのちに思い出したことがひとつありました。
 
★ 「色」から世相を考察するワケ
 
 民俗学者の柳田國男は、昭和6年に書き下ろした「明治大正史 世相篇」の第一章・第一節を「新色音論」と題しています。江戸の町が築かれはじめたころに、奥州の田舎者の江戸見物に託して書かれた「吾妻廻り」と題する観察記をとりあげて、「世相」の裏側に潜む観察者の心意を読み取って、世の移り変わりをとらえようという方法を提示します。
 
《国民としての我々の生き方がどう變化したかの問題……は、出来るだけ多数の者が、一様にかつ容易に実験し得るものから入(る)のが自然であり……いかに平凡であろうとも衣食住という大事実からみていく》
 
 のが良い、とします。上記の「吾妻廻り」も、江戸の町の「鶉の風雅なる鳴き声と椿の花の艶色と……を長々と書いて……その書の一名を色音論とも謂っている」と紹介しています。これは、文書と遺物の解析を通して構成する歴史学者の物語る「歴史」にたいして、庶民の文化誌(史)を対峙させて、民俗学の方法を提起していると読めます。そうして、次のようにつづけるのです。
 
《ひとりが見損じていれば萬人が訂正してくれる。これが當代の新色音論の、特に重きを色彩と物の形の方に、置かなければならぬ理由であった》
 
 文書主義の歴史家たちに対して、読み書きよりも人々の暮らし方(衣食住)、それも色彩と物の形から考察するという庶民性を体した「世相」に着目する。それこそ、大正デモクラシーの気風を感じさせる「提起」ではないでしょうか。
 
 魔女さんは「緑(ということば)が色(をあらわす言葉)として使われはじめたのは大正時代から」と話していました。それまでの「緑」は、草木の色であったというわけです。
 それは、ひょっとすると、大正時代まで人々(庶民)にとって草木は、自分たちの日々の暮らしと切り離せないために、「色」として分節化されることがなかった、と読めます。大半の庶民が農民であったか農民の出自であったからでしょう。緑を「色」として分けてとらえるということは、自分たちの暮らしが草木から切り離されて見て取れるようになる、ということでもあります。
 それは、大正時代を通じて産業社会が興隆してきたことによって、農村から切り離され都市労働者として働かねばならなくなった庶民の暮らし方の変化を表しています。
 
 この変化を想いうかべるとき私は、私たちの親の世代の変化を重ねてみています。昭和の一ケタ台に青春期を過ごし、大東亜戦争期に子どもを生み育てるとともに苦杯をなめ、戦後の混沌期を生きなければなりませんでした。思えば、世界観や人生観の大転換を直に肌身に感じながら過ごしてきたと言えます。よくぞ私たちを育て上げたものだと、いまさらながら頭が下がります。玉野市という田舎の地方工業都市に(戦後)暮らすことになった私たちの親世代は、日本の社会の変遷の荒波をもろにかぶって揺れ動いてきたに違いありません。柳田國男の(民俗学の)歴史への視線が親世代の過ごしてきた身体の感触に触れているような気がしています。
 
★ 「天然の禁色」と「禁色」という制度の歴史性
 
 ことについでに、「明治大正史――世相篇」で、柳田が触れている「日本人の色」の見立てを紹介しておきます。柳田は「天然の禁色」ということばを使っています。どういうことか。
 
《日本は元来甚だしく色の種類に貧しい国であったと言われている。天然の色彩のこのように豊かな島として、それはあり得ないことのようであるが、実際に色を言い表す言葉の数は乏しく、少し違ったものはことごとく外国の語を借りている。そうして、明治の世に入ってまでも……使っている色は四十にも足りなかった。》
 
 と記しています。その一方で、 
 
《しかも緑の山々の四時のうつろい、空と海との宵暁の色の変化に至っては、水と日の光に恵まれた島国だけに、また類もなく美しく細かくかつ鮮やかであった》
 
 と相矛盾していることを書き留めています。
 
 講師・魔女さんの話にも、日本人の「色」に関する天才的才能を誇る反面、戦後まで着衣などが地味に終始してきたと述べるくだりがありました。それは、柳田國男がここで述べていることと同じです。柳田は、この両者が矛盾しないわけを、次のように説明しています。
 
《我々が眼に見、心に写し取る色彩の数と、手で染め身に装うことのできたものとの間に、きわめて著しい段階があった》
 
 染色技術が及ばなかったことを「天然の禁色」と呼んでいるのです。そうして、
 
《その禁色が近代の化学染料期になって、悉く四民に許されるようになったのである》
 
 と、明治大正期の変化を書き留めています。ここで「天然の禁色」とわざわざ命名したのはもちろん、魔女さんの話された「制度的、階級的な禁色」があったことを前提にしているからです。
 それについても、
 
《中世以前の社会においても、その時代の文化能力の許す限り、出来るだけ多くの天然の色彩を、取り卸して人間の用いるものとしようとし……染法は我々の祖先が最も熱心に外国から学ぼうとした技術の一つであった……金銀珠玉についでの主要なる貿易品であった》
 
 と思いを馳せています。さらに、「禁色」が制定されるようになったわけを次のように解析しています。
 
《得難く染めがたい新種の色彩が尊貴の対象となったのは自然の結果であって、これを常人の模倣することを禁じたというのは、むしろその工芸のいくぶんか民間に普及しはじめたことを意味する》
 
 民間への技術の広がりが(たぶん経済的な富裕をともなった階層や階級の流動化もあって)みられたことの「逆証明」のように読み取っているのです。この「見立て」が(私には)なんとも好ましく思われます。自然の豊かな色合いという暮らしの中での感性の多様な広がりと「禁色」という「制度的定め」の制定の向こう側に展開していた社会の気配を視野に入れている確かさが感じられるのです。 (つづく)