mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

パターナリズムと難民問題とジェンダー

2015-12-27 10:11:55 | 日記
 
 篠田節子『インド クリスタル』(角川書店、2014年)を読む。図書館の「今日返却された本」という書架におかれていたのが目に止まった。発行されてからまだ一年にならないのに、珍しいことだ。この作家は今はもう、さほど注目されていないのだろうか。
 
 面白かった。腕をあげたというと、岡目八目のくせに生意気なことを言うと思われるかもしれないが、書くよりも読む方がたいてい優位にものをみることができる(と私は思っている)。逆に言うと、書こうと思っても、思っているほど楽に書けるわけではない。実際書いてみると、自分が思い込んでいたときの5割方しか描き止めることができない。つまり読むということは、自分にできもしない世界を批評的に見る特権を手に入れることなのだ。作家からすると、きつい言葉の批評をみて腹を立て、自分では書けもしないくせにと罵りたくなるかもしれない。だが、自分では書けないのだ。書けなくても批評はできる。そういう意味では、スポーツ観戦とまったく同じだ。この非対称性は、どうしてかは説明できないが、事実そうであることは間違いない。篠田節子は腕をあげた。
 
 小説の「主題」などというと、これまた野暮なことを言いなさんなとお叱りを受けるかもしれない。ここでいう「主題」とは、篠田節子が書きたかったことと、私が読み取ったことの主要点である。この作品の主題はふたつある。ひとつは、「父親的温情主義」である。もうひとつは、グローバリズム経済が生み出す「難民問題」である。
 
 フランス文学者の内藤雅文は、ジューリオ・M・キオーディの「兄弟間の敵対関係 政治的衝突のパラダイム」を翻訳した中で、「paternalism」を「父親的温情主義」と訳した。通常「paternalism」は父権主義と翻訳されることが多いが、それだけだとしばしば居丈高にふんぞり返った父親像しか思い浮かばない。だが、「paternalism」には、同時に、保護的・温情的に子弟に対する側面が張り付いている。つまりは、自分の思う通りに囲い込むことを意味しているのだが、現象面では違って見えてくる。
 
 
★ 父親的温情主義
 
 
 貧しく虐げられた、しかし優秀な能力を秘めた少女を、過酷な環境から救い出し、教育を受けさせて、思いもよらなかった世界で活躍させんと「温情」を施そうとする主人公が、当の少女によってはねつけられる。何度も局面を変えて採りだされるその場面が、篠田節子の恩讐を浮き彫りにするように思える。その根幹に、「かんけい」の枠組みから自由になりたいという切望が流れているように見える。
 
 「貧しく虐げられた少女」というのは、「場」を共有するもののセリフである。この小説に登場する少女は「場」から外れている。それが意外に思われないのは、インドという地だからである。インド社会におけるジャーティ制やカースト制の原型になるであろう差別や排除以前の振る舞いにおける暴力と差別が、あたかも社会全体の桎梏のように頑なにかぶさる。差別や排除というのは、まだ差別とか格差という同類間の範疇にあって起こる。ところが、同類ではなく、存在自体が無視されている「関係」、犬猫と同じかそれ以下に見られていて、関わりをもつこと自体が嫌忌の対象とされている。私も、インドの先住民であるドラヴィダ族がインド-アーリア族の侵入によって南へ追われたことは、世界史の話として知らないわけではなかったが、現実問題として、今もそのような「関係」を生きていたとは思いもよらなかった。インドは、古代と中世と近代とが現在に混在している世界だと、篠田の筆致は描き出す。
 
 
★ 文明の衝突として発生する難民問題
 
 
 物語りは、経済のグローバリズムが未開の暮らしをする人たちを襲ったとき、何が起こるかを描きとろうと展開する。日本のハイテク中小企業の主が、先住民の暮らすインドの辺境に産出される原材料を手に入れようと苦心惨憺する。当然のように、父親的温情主義は、古代を近代へ引き上げると考えている。だが、ほんとうにそうか、と篠田は問うているように見える。結局資源をつまみ食いして(先住民の暮らしをかく乱して)いるにすぎないではないかと思わざるを得ないのだが、進行する事実は、それだけにとどまらない。資源が掘り出され、グローバルな資本が介入し、道路を整備し、森を掘り崩して産出量を増やす。それは自律的に暮らしていた先住民の暮らしの基盤を破壊してしまう
だが、国家も社会も資本も、彼らの暮らしを視野に納めていない。先住民たちはまるで、津波に襲われたように、それに順応しようとして様々な災厄に見舞われ追い詰められていく。グローバリズムは、インドの社会が近代化されていないからこのような問題が発生すると考えているのだが、それはまったく津波の側が、それに襲われる世界の全体性として事態をとらえていない見方と言わねばならない。そう篠田は力説していると読み取った。これが、もう一つの主題である。
 
 著者の篠田がそう思っていたかどうかは知らないが、私は、インド先住民と福島原発周辺地域の人々とを重ねて、この小説を読んだ。原発が設置されることによって(経済的にも)地元が潤うというのは、電力資源をつまみ食いしようとする超近代先進地域・東京の論理である。それが地元を潤す側面は、たしかにそれなりにあったであろうが、それは地元の暮らし方の型(パラダイム)を大きく変更せしめるものでもあった。なによりそれは、それまでの地元の自律的な暮らしの基盤を根底から破壊する所業につながっていた。それを明白に晒して見せたのが、3・11のフクシマであったと思う。「難民問題」といったのは、このことであった。
 
 そのように考えてみると、補助金を与えてコトを推進しようとする(辺野古を含めた)やり方は、父親的温情主義の支配都市の論理である。地元は地元の自律の論理をもって対抗しなければ、根こそぎ支配都市に従属的にしか生きることができない。従属的に生きるとは、父親的温情にすがって生きることを意味する。父―子関係に位置づいて生きるのか、兄弟関係において生きるのか、そこが問われている、ともいえる。力のない地元サイドが「難民」であるのは言うまでもない。
 
 
★ テロの時代を超克するヒント
 
 
 さきほど内藤雅文が「父親的温情主義」と翻訳した、ジューリオ・M・キオーディの「兄弟間の敵対関係 政治的衝突のパラダイム」は、ギリシャ神話のエディプス・コンプレックスを政治的に適用したジクムント・フロイトから説き起こし、絶対君主制をモデルとする父親的温情主義の理論を典拠としてとりあげ、それが自由民主主義に引き継がれて、君主に変わって父親の座に議会(政府)がとってかわったと、次のような面白い指摘をしている。
 
《インド=ヨーロッパ諸語においては、〈兄弟〉を意味する語は、同じ父親を持つ息子を示す語根を拠り所としている。それと逆に、〈兄弟〉を意味するギリシャ語のアデルフォスは、デルフュスという語を含んでおり、これは子宮、あるいは母親の乳房を示す。したがってこの語は遠い母親的な起源を反映させており、それによれば母親を同じくする息子たちが兄弟なのであって、父親を同じくする息子たちが兄弟というわけではないのである。》
 
《兄弟間の衝突がギリシャ神話の中で緩和されるのは、その兄弟が母親を同じくする息子たちであるという事実によって説明されるだろう。そして母親というものは、和解させるような力となる。つまり母親を同じくする息子たちは、暴力に訴えることなく、母親的な役割を引き受ける。ところが逆に、父親はまるで行為の方へ投影されるような、したがって衝突に向かって開かれるような権威を振りかざす。だから父親を同じくする息子たちはその性質上、競争へと向かう傾向がある。》
 
《しかし兄弟のうちの一方がもう一方を支配するのは、何によって成り立つのだろうか。同等の者に対して、上から命令する役割を引き受けるという事実によるのである。したがって支配は常に越権行為である。》
 
 キオーディは歴史的、構造的な考察もしているのだが、上記の語源的なアプローチが示す論題の場は示唆的である。父権主義的な「かんけい」が争いを加速し、母親的な「かんけい」が和解を促進するというのは、ひょっとすると篠田のこの小説の先にある「主題」ではないかと思う。日本でも、現代天皇制の父権主義的な「かんけい」よりも、女性天皇の継承も普通であった時代の「かんけい」に思いを致して、組み立て直すことが必要なのではないか。ジェンダー論も、そのあたりに踏み込んでくると面白いと思ったが、そこまで話を広げるのは、また別の機会にしよう。