mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「わからない」ことがわからないと分かる

2016-08-21 20:42:39 | 日記
 
 
 昨日から「ささらほうさら」の合宿に行ってきました。大真面目に2時間半の勉強会を2セット。そのうちのひとセットを私が担当するというので準備をしていたら、カミサンが「もう勉強会なんてしないで、遊んできたら」と、構成メンバーの半数が古稀を超えるのを気遣っています。
 
 しかし勉強会をしながら、「わからない」ことを分かるためにしているのではなく、「わからない」ことがあるということを確認するために勉強しているという気がしてきました。世の中にはこんなにもムツカシイことを考えている人がいるという感触。ひょっとするとわざわざムツカシクしているんじゃないかと思うから、聴いている自分の視座から解きほぐそうと突っ込みを入れる。すると、思わぬ「現実的立場」の説明が飛び出す。私たちの暮らしている市民社会が、イスラムから攻撃を受けているヨーロッパの市民社会と同じだと(この問題を提起する論者が)前提していることが分かる。
 
「どうして?」
「だってそうでしょ。ヨーロッパ近代と同じモデルを模倣するようにして私たちの社会も築かれてきているのだから。学校の教科書なども、そういう編集でしょ!」
「う~ん、そうかなあ。欧米を模倣したことは間違いないが、私たちの受け容れている文化は、日本社会の身に着いた特性を引き摺っているよ」
「でも、絶対的な他者が市民社会の公共圏に攻撃を仕掛けて来たら、ヨーロッパと同じように対応しなくちゃならないんじゃないですか」
「う~ん、そうかなあ」
 
 なんとも歯切れが悪い。「イスラム原理主義のテロ」について考えているのだ。だのに、話しはすぐに、たとえば学校の「非和解的な対立者」が攻撃を仕掛けてきたらどうするというふうに、転がっている。問題提起者がよく勉強していることはわかるが、ずいぶん乱暴な咀嚼にみえる。それよりもシャルリー・エブドへのテロを、遠く離れたアジアの隅っこで「私はシャルリー」と同調するのは、私にはのみ込めない。それよりむしろ、シャルリーが風刺したとするムハンマドの漫画が、「風刺」ではなく「いじめ」にみえる。「風刺」するのであれば、むしろ、デモの先頭に並んだオランドやメルケルを風刺するべきじゃないのか。強くを漫画にするのが風刺であって、弱気や少数派を漫画にするのは「いじめ」だよと、問題提起の高尚な物言いにそぐわない異議申し立てをして、話しの舞台を壊しにかかる。
 
 噛みあわない。私は、問題提起をしている、勉強家でまだ現役のKさんの立ち位置を見定めようとしているのだが、彼は普遍的な知識人としての立ち位置を崩さない。その所以にも、言及しないから、よく「わからない」ことがわかる次第になる。
 
 「近代国家がつくりあげた公共圏が宗教によって攻撃されている」と問題設定をすること自体に、フランスやドイツなどが直面しているイスラム教徒女性の被り物(ブルカとかヒジャーブ)の取り扱いがキリスト教の規範で禁止されている側面が際立つ。私たち日本人がそれに対して同じように(テロの脅威を謳って)対処することは、おかしくないか。私などが切迫した事態と考えていないことが浮かび上がる。つまり宗教的な攻撃に対してほとんど有効な思索のステージを設定できないのだ。
 
 まあ、いい。「わからない」ことが眼前に投げ出され、ヨーロッパの人士がこのようなやりとりをしていることは(それなりに)わからないわけではない。マージャン卓を囲むよりは、そういう世界に触れることの方が、まだ面白いと感じられる。そんな年寄りの合宿であった。