mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

私たちの戦後71年――「経験則」の復権を

2016-08-10 09:37:21 | 日記
 
 
 下條信輔『まなざしの誕生――赤ちゃん革命』(新曜社、1988年)に面白いことが書いてあった。医学のプロフェッサー・ドクターとして赤ちゃん相手の観察や実験を行ってきたのだが、母親の思い込みと思われる場面に、よく出逢うという。
 
 《例えば――これは私が実際に観察した事例なのだが――今、一歳を少し過ぎて歩き回れるようになった子どもがここにいて、おかあさんがその子にパジャマを着せながら、「さあ、もう時間だから歯を磨いて寝ようね」と言ったとしよう。その子は突然スタスタと歩み去り、自分用のミニ歯ブラシを持って戻ってきた。「この子はなんて賢いんだろう! もう私のいうことが理解できるんだ」と狂喜するが、……》
 
 それに対して、ふつうなら客観的な立場から、「その子はパジャマやそのほかの手がかりと歯ブラシを結びつけ、歯ブラシを手にするように条件づけられたにすぎない」と水を差すのが、研究者としての態度であろう。だが下條は、こう続ける。
 
 《たとえ赤ちゃんの行動が、高級な「心」のレベルよりも、単純な生理学的レベルの反応とみなせるような場合でさえ、……赤ちゃんにもおとなと同じように「心」があると考えるべきなのだ》
 
 と強調する。つまり母親の「思い込み/誤解」が、子どもを(おとなと同じように)「心」をもったものとして扱うことになる。その「つながり」の中で、子どもの「心」も生み出されてくるのだ、と。研究者が客観的態度をとり、「思い込み」や「誤解」をノイズとして排除しようとするが、じつはその経験則的な誤解や思い込みが極めて重要な、「心」発生の現場になっているとみたわけである。
 
 このブログの、2015/5/5《デジタルが身体性を必要とする境界地点》で紹介した「進化電子工学」の研究のことがある。
 
 《(AI研究の初期過程で)……電子チップにハードウェアを進化させるある課題を与えて作業をやらせたところ、100個ある論理ブロックのうち37個しか用いず、しかもそのうちの5つは、他の論理ブロックといっさい繋がっていなかった……。すなわち、デジタルの進化作業を行っていた電子チップも、「論理」ではなく、使えるものをうまく使って進化するというアナログ的な「経験則」的な用法を採用していた、というのである。人間の考える「論理」の狭隘さを表しているのか、「つながらない論理ブロック」をノイズとして排除する人間の論理の方に間違いがあると指摘しているのか。まだまだ不分明な世界が広がっていると思わせる。》
 
 このとき私は、《「経験則」という身体性と「普遍性」という世界性との接点が見えてくる》とまとめたのだが、実際の研究者である下條が、「経験則」的な母親の「思い込み/誤解」にこそ、赤ちゃんの「こころ」を培う土壌があると発見しているのだ。いわば、ノイズがノイズのままで意味を持っていると指摘しているのである。この本が出版されてからもう28年も経つのだから、この領野の研究もずいぶん進んでいると思う。
 
 科学的であることが「経験則」的に身に備えた知恵よりも重要視されるようになったのは、いつからであろうか。何が契機で、私たちはこのような転換を当然のように行うことになってしまったのか。それほど遠い昔ではない。ことに私たち庶民は日ごろ、「経験則」的に情報を処理してきている。ところがいつからか、長年かけて培ってきた先人の知恵よりも、本やTV、マスメディアに自分の暮らし方の判断の根拠を置くようになった。それは戦後の、私たちの世代からではないか。もう少し遡るとしても、せいぜい私たちの親の世代、おおむね大正生まれ、昭和初年代育ちの世代からではないか。日本の産業社会化がすすみ、都会暮らしの核家族が生み出されてきたころから、年寄りは疎漏に扱われてきた。産業社会化という時代の推移が、新規科学技術の発達に強く依存していたから、伝統的な知恵よりもそちらの方が重視されたのであろう。「科学技術主義」と批判されていたことである。
 
 「経験則」を軽く見る風潮は今や、その初期のころよりもいっそう広く深く進行したと言ってもよい。それを立ち止まって見直せと、下條は力説しているのである。私たち戦中生まれ戦後育ちの世代が抱くようになった欧米志向の感性には、「科学的」とか「論理的」という強固な観念が居座っている。欧米ではそれに対する反省がすでに一世紀以上も前に行われはじめているのに、私たちはそれについても、半世紀遅れで後を追うような、事態になっている。それはまさに、私たち世代自身の責任と言わねばならないのではないか。
 
 どうして私たち世代の責任なのか? 「戦争=敗戦体験」を反省することによって逆方向へ振り子が触れたとき、じつは私たちは「戦争=敗戦体験の反省」として、明治以来の欧米追随がどのように行われてきたかについても、じっくりと掘り下げて反省しなければならなかったのだと思う。ところが表向きの、産業社会化の推進力たる科学技術と、伝統的といってもいいか、日本の工業技術に関する職人的な技とを混淆させ、経済的政策面では全面的に欧米追随をモットーとして進めてきた。その結果が、社会的な風潮として定着して生み出した規範が、「科学技術主義」と「市場経済主義」であった。バブルがはじけて、成長経済が破たんしたという話しではない。自らの暮らす共同体としての国づくりをイメージして、かじ取りをしてきたわけではないことが、いま露呈しているのだ。私たち世代の責任と言わないで、誰がこの問題を掘り下げるであろうか。
 
 いまとなっては、取り返しのつかない地点に来てしまっていると思わないでもない。さらに私たちが自分の責任のように言うのは、いかにも背負い込み過ぎ。重荷に耐えるという意味ではなく、分不相応にショッテル言い方だとも思う。だが、庶民の間の社会的気風は、まさに我が身の問題。誰かのための反省でも責任解明でもなく、我が身の在り様として、このままでは死んで行けないと思ったりする。そういう意味でも、「私たちの戦後71年」をそれなりに始末しておきたいと、やはり思うのである。