mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

呼吸と瞑想とお釈迦様ごめんね

2016-08-17 20:47:52 | 日記
 
 今日(8/17)の朝日新聞夕刊に相田和弘が「観察瞑想(ヴィッバサーナ瞑想)」体験を書いている。ブッダが編み出した瞑想法らしい。
 
《基本的には一定の時間、身体の力を抜いて姿勢正しく座って目をつむり(半開きでもよい)、自分の自然な呼吸に意識を集中させ、観察する。それだけだ》
 
 雑念が起きる。あれこれと思いが経めぐる。するとまた、呼吸に意識を集中させ観察する、その繰り返しだという。なんだ、山を歩いているのと同じではないか。私はつねづね、山歩きは瞑想だと考えてきた。でもじつは、俗にいう「瞑想」がどのようなものかは、知らない。ただいつであったか、三十数年前に職場の同僚で「瞑想修行」を始めた男から、「瞑想ってどういうことだと思う?」と訊かれたことがあった。そのとき、「意識は透き通るように明瞭だが、でも何も考えていない状態かな」と思い付きを口にしたことがあった。彼はそれに同意しながら、「そういう状態になったことがある?」というから、「山を歩いているとよくなるよ。」と答えた。だが、なぜ歩いていてそうなるのかは、考えたことがなかった。相田和弘の体験記を読んで、それを教えられた。歩くことによって呼吸に意識を向けているのだ。
 
 山を歩いていると、足元に目が向かう。急斜面になると、自ずから呼吸に意識が向かう。若いころは、ハアハアと呼吸が乱れる程度には早く歩いた。ペースを上げることしか考えていなかったから、いやでも呼吸が荒くなる。そして、気になる。でもそれは、「呼吸に意識を向ける」というのとは違うのかもしれない。むしろ、歩くペースが長時間歩行向きに変わって、ゆっくりと持続的に歩くようになってから、無念無想というか、足元はいつもくっきりと意識しているのに、雑念もなく何も考えていなかった(と、あとで思える)状態が2時間くらいつづく。疲労も感じない。気が付くと2時間経っていたというふうに言ったほうが正確かもしれない。「瞑想で訓練する心のありかた」と名づけて、相田は次のように記している。
 
《――いまここで起きているありのままに気づき、価値判断をしない――》
 
 彼はその迷走を、「きわめて実用的な心理的技術」と有用性を強調する。そこが私からすると、まだ甘いんだなあと思える。結局、あと付けであろうが、価値判断をしているじゃないか。それじゃ、せっかくの瞑想の境地が台無しだよ、と。
 
 役に立つとか、怒りを治めるのに効果があるとか、そんなことはどうでもいいじゃないかというのが、瞑想の無念無想だ。呼吸に意識を向けるというのは、観念や思念、自覚的な感覚とすら離れて、「身」そのものになる境地である。つまり、「自然/じねん」と一体になっている「身」に還ることを意味している。私は(山を)歩くことを通じてそれを感じているように思う。誰であったか、「感覚」ということ自体もすでに意識している要素を含む。だから感覚せよというのではない。無意識下の情動が動く、あるいは情動が「身」となる――かたちを成す地平に降りたつ。それが瞑想だと私は思っている。
 
 情けないことに、平地に降りたつとすぐに瞑想の境地を忘れてしまう。おいしいお酒を飲んで酩酊の境地に入ってしまおうとする。情けないが、これも私の「じねん」である。お釈迦さま、ごめんね。