mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

歩く人

2016-08-15 14:13:17 | 日記
 
 ヘンリー・ソロー『歩く』(ポプラ社、2013年)を読む。書かれたのは1862年。150年以上も前である。でも、これが掲誌紙の巻頭を飾ったときソローはすでに他界していたから、遺稿である。おっ、この前もどこかで遺稿を読んだと書いたことがあるな……。そうか、カート・ヴォネガットの「国のない男」だ。図書館でふと、手に取った本が「遺稿」というのは、ついているのかついていないのか。ソローは、いわずと知れた『森の生活』の著者。自然の中に身を浸し、生涯、逍遥と思索をつづけた人と私は思っている。
 
 ソローは、毎日4、5時間は歩く。行き先は町の方ではなく、森の方へ、沼沢の方へ、未開の地の方へ。人の住まない地を経めぐる。《……社会の一員であるよりむしろ、「自然」の住人、その一部として人間を考えるためです》と意味づける。「自然」ということについても、《私は「自然」のために、つまり絶対的な自由と野生のために……》と自己との接点を係留して、こう言う。
 
《……人生において「歩く」とか「散歩」の術を理解している人にはほんのひとりかふたりしか出会ったことがありません。》
 
 「歩く」ことを「さすらう才能を持っている」と読み替える。それは、「中世に国中を放浪し、聖地へ行くという口実で施しを求める怠惰な人々」と語源を探って由来を語り、「歩いて聖なる土地へ行くもの」とみている。どういうことか。
 
 《私たちは意気地なしの十字軍戦士にすぎません。根気を必要とし、いつまでもつづく活動はじき受けない、そういった歩行者になってしまいました。私たちの探検はただの旅行で、夕方には再び出発したもとの炉端へ戻ってきます。》
 
 と、文明的な暮らしが「自然」から浮遊し、「絶対的な自由と野生」を失わせているとみている。「自然」の中に身を浸すことを「絶対的な自由」と呼ぶ。そして、「絶対的に自由な地平ではすべてが義務である」と付け加える。「自然」において人間は、すべてを自分で取り仕切らなければならない。文明を拒むというよりも、人間が「自然」と相対して営んできたことごとくの知恵や知識の創出を、自らの身体に意識的に備えていこうという意味で、「義務」と呼び、それが「自由」であると名づける。自然の一部としての人間のすべての行為が「義務」であることへの憧憬が、脈打っている。
 
 私が毎週のように山を歩くのなどは、彼のいう「歩く」範疇に入らない。地図を持ち、装備を整えて分け入って、時として藪漕ぎをするようなことがあったとしても、それで「自然」の一部として存在したなどと言わないでよ、という声が聞こえる。でも、そのほんの入口のところで、ちょっとした「自然気分」を味わっている。
 
 もはや辺境がないとさえ言われる地球上で、ソローのようには生きられないと思いながら、他方で、アメリカという大地で感じている「自然」と、日本の山などで感じている自然とは、、ずいぶん大きな違いがあるだろうなあと、この方の器の小ささを思い知る。もちろん小さいからといって卑下しているわけではない。「自然」の一部というときのスケールの違いを無視しえないなあと思う。あるいはまた、ソローが「野生を目指す者は西へ向かう」というとき、19世紀半ばのアメリカにおいていまだ西部開拓的なフロンティア精神がそのまんまに受け継がれていると思う。先住民族のインディアンに対してソローはどう見ていたろうというのも、気にかかる。というのも、ほとんど何もかもが「新大陸の発見」というヨーロッパ=世界観の感覚に充たされているからである。
 
 彼のこの本が書かれた年が、フロンティアの延長である黒船の来航の、わずか9年前でしかないことを考えると、私たちがどこに視点を置いて、ソローの本に接して行けばいいか、ほのかに浮かび上がるように思える。彼の、根源に目を向けた視線を、どう繰り込んで「自然」と向き合っていくのか、思わぬほどの距離がある。「自然」に身を浸すと言っても、そう簡単に同調できない地政学的位置を押さえなければならない、と思った。