mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

私たちの戦後71年――所有欲とナショナリズムの視点

2016-08-04 09:49:39 | 日記
 
 「世間」と「世界」が分節化されたとき、その両者の関係をどう見ていたか。当初は、「世間」は身体/「世界」は観念と考えていたように思う。単純化して言えば、身体は古い日本/観念(の希望のあかり)は西欧にあったから、前者は克服すべき対象であり、後者は学ぶべき対象であった。つまり、前者は現存在としての身の裡であり、後者は希望としての外部に置かれていた。特殊と普遍、個別と一般という対比も、ナショナルとユニヴァーサルという対比と重なって、意識の片隅に見え隠れしてきた。思春期の私たちは古い日本を否定する我が身の衝動を、普遍へ、一般へ、ユニヴァーサルへの志向として、いつも感じていたといえる。それが、親と分離して自立しようとする衝動であったにちがいない。
 
 それはのちに「自虐史観」と非難を受けるが、私たちにとっての「戦争・敗戦体感」は「新憲法」の「希望のあかり」に辛うじて灯されて姿勢を未来に向けることが出来たのであり、もしそれがなければ、野坂昭如の「蛍の墓」のように、妹を死なせた自己を責める悔恨の周辺をうろうろと経めぐるばかりの陰惨な心情を抱え続けたであろう。野坂は1930年生まれ、私たちより一回り上。この年齢の違いが、「戦争・敗戦体感」の違いにもなっている。
 
 ついでに言っておくと、「自虐史観」を非難する人たちは、日本の敗戦を認めていないのではないか。太平洋戦争に突入していったのも、米英の世界政策に翻弄されたからであり、中国への侵略も、欧米の帝国主義とソ連の脅威に対抗するうえで止むをえざる道であったと、正当化を図っている。たしかに当時の世界情勢はそのように動いており、日本がそれに翻弄されたことは間違いない。だが、その言いぶりには、自らが選択した主体性が抜け落ちている。情況適応的に振る舞った結果そうせざるを得なかったというのは、情況のせいにして自らがその道を選び取った責任を問わない回路を築いている。「敗戦」という苦い経験に目をつぶり、異論を「自虐史観」と謗ることによって伝統的系譜に無批判に身を直結させている。ご都合主義史観とでも言おうか。考えてみれば私たちは戦後になっても、「敗戦の責任」を問うたことはない。私たちが(青年期以降に)口にした「戦争責任」というのは、開戦の責任であり、終戦の決断が遅れたことの責任であり、その背景となった日本の国家体制の構造的問題点であった。その限りで(猪瀬直樹の研究『昭和16年の敗戦』が示すように)「敗戦の責任」を俎上に上げたのであった。
 
 さて話を本筋に戻す。「世間」を「世界」と切り離して否定することなど、出来ようはずもない。そもそも身体に刻まれた古い=伝統的日本の感覚や気風を、そう簡単に(現在の思念と)引きはがせるはずもない。私たちは理念的に誕生するのではない。身に刻まれるようにして親世代の文化を受け継ぎ、自らを定立するために親世代と抗い、その結果自律を果たして後に理念的な世界を、自らの思索として手に入れる。その手に入れる過程において、無意識に身に刻まれた感性や思いと出逢い、その根拠を繰り返し吟味することが行われる。その吟味の過程で、「世間」が「世界」の原基であり、世界を見てとる思索の層が重なってきていることに気づく。まだ総体として世界をみている若いころには、(つねに)身体と思念とが引き裂かれる。だが、自らの感性や思いの不確定性とぶつかり、その根拠を吟味することを通して、外部にあると思われた「世界」が、じつは自らの輪郭を描きとるように、我が身の裡を覗くのと同じことだと思い至る。そのようにして、「世間」に「世界」の原基をみてとり、特殊に普遍を感じとり、個別が一般性を含むことを感得するようになるのである。
 
 戦後71年と言いながら、私の、その「吟味」はまだ途上にある。たとえば、ヘイトスピーチを繰り返してきた在特会の前会長が「日本で生活保護をもらわなければ、今日にも明日にも死んでしまうという在日がいるならば、遠慮なく死になさい。遠慮なく日本から出ていけと言っているんですよ」と都知事候補として演説をしてきたと新聞で知ると、この人たちは「日本」の何を、なぜ、自分たちのものとして所有していると思っているのだろうと、その根拠に思いが及ぶ。
 
 この前会長は44歳。私の息子よりも若い。「生活保護」ということだけを取り上げれば、「私たちの税金」というのであろう。だとすると、地方自治体に所属する人たち、つまり住民登録をしている人たちは、在日であれ外国籍であれ、どなたも税金を支払っている。とすると、「生活保護」を受ける権利は当然発生している。特別彼らだけが取り出されて「死になさい」と言われる謂われはない。前会長は、在日を非難することによって自らが日本に在籍する(正当な権利がある)ことを確証したいのかもしれない。「臨床哲学」を自称する鷲田清一が、自傷行為は自己の存在を確証するためとどこかで記していたが、それと同様に、前会長には、そのように他者を非難することによって自らの実存を(たぶん聴き手から)認めてもらいたいという衝動があるのであろう。何を正当とするかも含めて彼が身勝手に判断していることをは、はた迷惑なことである。だが、そのような人がいることは、認めなければならない。
 
 だが彼の主張の趣旨がどうであれ、私たちは何をもって「日本」のナショナリティを、我(たち)が所有物のように考えるのであろうか。生まれながらにここに住んでいたというのは、国籍を有しているかどうかよりも来歴は古い。戦中生まれ戦後育ちの私たちは、身に沁みついた文化性=アイデンティティが「日本」であると感じている。言葉がそうであり、景観がそうであり、ありとあらゆる継承された文化がそうである。その一体感が「ふるさと=くに=愛郷心=パトリオティズム」であるが、それがいつしか「国家=愛国心=ナショナリズム」と一体となって、不可分と感じられていた。それは、私たちが海に「護られて」島国に暮らしてきたからだと、いまにして思う。だが、「戦争の体験」を通して、社会が国家と分離する体験を私たちはしてきた。
 
 それをのちに、高校の世界史や「新憲法」の学習を通して位置づけなおす。
 
(1)近代国民国家は市民革命を経て構築された。主権在民。
(2)国家権力は暴走する(リヴァイアサンである)。まさに戦争体験。
(3)憲法は国家権力の暴走を抑制するための装置である。立憲主義、法治主義。
 
 上記の3点だけで、「世界」の見方が変わった。その地に暮らす庶民の(西洋風に言えば「近代市民の」)視点から、国家をみている。これが「近代国民国家」を見る目なのだ、と。「世間」の延長上には生まれそうもない視線が、「世界」を見ることによって獲得された。それまでの日本は、国家の視点から見る視座しか持たなかった。上記の視点は、いわば「日本」というパトリオティズム≠ナショナリズムを超越的にみる視点である。社会と国家の分離も、みごとに集約されている。このように見る視点を手に入れることによって、逆に、歴史的な蓄積としての国家・社会体制が文化として受け継がれてきていることも、諄々と腑に落ちていくのであった。