mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

私たちの戦後71年――世間と世界

2016-08-03 13:32:27 | 日記
 
 《気遣いの行き届く範囲が「世間」である。》と昨日書いた。気遣いが届くのは、知っている人、あるいは「かんけい」を感知している範囲である。これは私の側からみた「世間」。私の母親が「世間をはばかって生きてきた」というときの「世間」は、「母親が、自分のことを感知していると思っている範囲」と厳密にいう方がいいかもしれない。物事の判断の基準が「世間」の側にある。私はそれほど「世間」に振り回されていない。
 
 「気遣う」というのは、気に留めることである。それは、気遣われる人にとって佳かれということばかりではない。余計なお節介もある。人のうわさも、そのひとつだ。気遣いがじつは、気遣っている人のメンタルな安定のための代償装置になっていることも多々ある。逆に、「気遣い」というのには、(当の人を)そっとしておくということも含まれる。だから「世間」は、気遣いのかたちや濃淡によって、ありがたいこともあれば、煩わしいこともある。関わる人びととのあいだの相関的「かんけい」が反映される。
 
 「家族」というのは「世間」とおなじではない。「気遣う」前提には、「実在の違い」が横たわっている。「親と子」は、その出発点においては、同一である。そうでなければ子どもは生きのびることが出来ない。だがいずれ子どもは成長し、親元から自立する。そのとき親も子も、両者の「実在の違い」を意識しはじめる。良くも悪くもそこから「気遣い」もはじまる。それは、心地よくも身に刻まれた「ふるさと」の実感を伴うこともあろうが、逆に、煩わしくも干渉がましい支配と感じられることもある。相関的な「かんけい」の反映である。
 
 友達、学校、地域社会といった「世間」も、幼い子どもにとっては、自己同一性から徐々に分節化して、現れてくる。日々の暮らしにおける言葉のやりとりや立ち居振る舞いがもたらす違和感が、分節化のきっかけになる。あの野郎いやな奴だ。えっ、オレってヘンか? 嗤われた。叱られた。馬鹿にされた。いじめられた。優越的な違和感よりは、どちらかというと劣位的に自己を発見する方が、自己を世の中から分節化する契機として深みがある。そのとき私たちは、他の人びとから切り離され/切り離す。切り離し/切り離されることによって、「私」と「世間」が起ちあがる。それは同時なのだ。それでも顔見知りのあいだという意味では、まだ「世間」である。
 
 私たち戦中生まれ戦後育ちは、敗戦の失意というか挫折を、丸ごとの存在で受け止めていた大人たちに保護されながら「世間」を分節化しはじめた。子どもたちは、大人たちが体で感じていた戦争体験を身に刻んでいる。それが「戦争はいやだ」という体感として受け継がれてきたのは間違いない。だが、もしそれだけなら、私たちは混沌(アナーキー)の、何でもありの世界に生育っていたであろう。そうはならなかった。単に「戦争」にまとめあげることのできない歴史や社会システムや国家構造、それが浮遊してきた世界情勢。それらが蓄積してきた「文化」があったからこそ、混沌を抜け出て暮らしの形を整えていく志向性をも、胚胎することが出来たと、後に思う。
 
 つまり、青年期に差し掛かるころには、(すでに彼岸の人たちをふくめて)見ず知らずの人たちと深くかかわりながら暮らしてきていることを知るようになる。そのようにして、「世間」とは異なる社会を、国家を、世界を、そして歴史を関知する。それはじつは同時に、社会や国家や世界や歴史の中に、我が身の位置づけをしているのでもあった。つまり、我が身を離れて我が身をみている「超越的な何か」の視線を手に入れる。これを私たちは「世界」と呼んだ。そして私たちの世代には(敗戦の悲嘆にくれる大人たち世代の失意に代わって)、「新憲法」という「希望のあかり」が灯されていた。
 
 この「世界」に自らを位置づけ始めたころの(私の)体感は、しかし、実に寂しいものであったことを思い出す。高校に入ったころ。こんなにも自分はちっぽけ、世界にとってまるでゴミだ、と。天啓を受けたような「悟り」であった。天気のいい日には、小川を挟んで我が家の前に起ちあがっていた標高100mほどの山の中腹にある大岩の上に寝そべって「ゆく川の流れは絶えずして、またもとの水にあらず」などとつぶやいていた。筆墨の達者な私の父親が酔っては「行雲流水」などと色紙に書き散らしていたのが、父親の戦争体験だと気付いたのは、このときである。父も私も、世界に取り残されている、と。
 
 「希望のあかり」は欧米文化の光を放つ「世界」に輝いていた。だが、「世界」と渡り合っていくという気概は、とうてい芽生えては来なかった。高校の同級にKくんという鼻っ柱の強い男がいた。一見豪放闊達、でも(世界史の試験でマキャベリについて行った回答に対して)教師から「はったりを利かすな」と叱られては、さも得意そうに私に「あれ解答したのはボクや」と話をする磊落なところがあった。図書館の書架に並んでいた「マルクス・エンゲルス全集」の第1巻の裏表紙を開いたとき、「貸出者名」に一人だけ彼の名があったので驚いた。2巻も3巻も、彼は借り出していた。社宅に住んでいたから、父親はたぶん造船所の職員だったのであろう。その境遇を重ねて、この男が放つ上昇志向の精気の出所を推察したものであった。私自身はどちらかというと、出世とか上昇志向とは切れはじめていた。
 
 ちなみに、中学を終えるころまでの私は(自分で言うのも恥ずかしいが)真面目で優秀な生徒であった。教わることをまっすぐ吸収していた。2人の兄がそれなりに優秀であったこともあったろうか、私はそれを超えようと考えたこともなかった。学校の学習も頑張ったという記憶はなく、流れ込むがままに吸収するという自然体。それが高校へ入ってからがらりと変わった。授業に真面目に取り組まなかったというのではない。だが、学ぶことの一つひとつに躓き、一つひとつをなぜ学ぶのか、どういう意味があるのかと吟味するような癖がついた。自ずから流れ込むようなことはそれなりに咀嚼して吸収していたが、何かを頑張って身につけるというような学習姿勢は、どこかへおいてきてしまっていた。出世や上昇志向よりも、世界の成り立ちの根源に目が向き始めていたと、今ならば言葉にしたかもしれない。
 
 このようにして、学校ばかりか図書館や新聞雑誌で学ぶことと「私の世界」とが緊張を持ちはじめ、しかしそのときには、あまりにも私自身が世界を知らないことに打ちひしがれていたのであった。「世界」はいまだ、私の外に聳え立つ鉄壁の牙城であり、カフカの「城」のように近づくこともできない遠い存在であった。「世間」から離陸し、「世界」へ目が向きはじめていたのである。