mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

コトの軽重

2016-08-13 10:27:02 | 日記
 
 安野光雅『語前語後』(朝日新聞出版、2008年)に、破廉恥罪のことに触れた一節があった。
 
 「……テレビなどで高名になった某大学教授が、エスカレーターで上がるとき高校生のスカートの中をのぞこうとしたというのでニュースになった」ことをとりあげ、「その非を唱えるなら、平素の週刊誌のあり方にも反省があってしかるべきだと思うが、興味本位ということが優先し、しかも読者がいるということは、スカートのぞきの予備軍がたくさんいて、たまたま迂闊な大学教授が見つかったということになる。」
 
 と、いくぶん弁護口調。なぜか。
 
 「人間たるものすべて、その本性の中に遺伝子的に組み込まれていて、理性がそれをコントロールしているのだと解している。問題はその制御の力のありようであろう。この種の軽犯罪は、公金横領、談合、賄賂、医療ミス、名義貸しなどの犯罪に比べれば問題なく軽いはずだが、話題性に富み、面白がって眉をひそめて見せ、「わたしはそんなことはしない」と言ってみることができて便利である。ただし、当人ならびに家族はいたたまれないだろうと思って同情を禁じ得ない。」
 
 安野光雅という画家は象徴的で端正な画風が印象的で、私は好感を持ってみてきた。その私の「好感」の理由が開示されているように思った。安野は「スカートのぞき」に共感をもって接している。その行為に対して肯定的共感というわけではない。そういう衝動ってあるよなという共感である。だから「問題はその制御の力のありよう」として考えよと提言しているとも言える。もちろん安野は正面切って「提言」などしていない。ただ単に、この事象に関してため息をつくような心持を延べているにすぎない。しかし「提言」と受け取ると、この問題を社会的に考える領野が広がる。
 
 「迂闊な大学教授」とか「同情を禁じ得ない」というスタンスは、「ご当人」にも三分の理があるとみていることを意味している。どんな理か。つい、のぞきたくなるようなミニスカートの女子高校生が駅の階段を上がっている「情況」である。私たちは経験則的に、《見るということは、見られるということである》と知っているし、《見られるということは、見せているということである》とも感じている。一概に何もかもがそうだとは言わないが、(現代日本社会は)「遺伝子的に組み込まれている」本性を強く刺激する情況に満ち充ちている。その情況下で「制御の力のありよう」をコントロールするのはすべて「個々人」にゆだねられている。だが、コトはそういうことかと問うてもいる。
 
 たとえば、イスラム教の規範が女性のチャドルなど被り物を必須としているのは(この次元にまで降ろして考えると)、女が社会的に存在するときには、男への性的刺激をしてはならないと戒めているからである。イランでは自宅を訪問する人を出迎えるとき、女性客は女主人が、男性客は男主人が出迎えると決まりがある。扉のノックも男性用/女性用と分けている。それくらい厳密にしているのは、「遺伝子に組み込まれた本性」を「個々人」の制御に任せきることはできないと考えたからであろう。
 
 とは言え、いまさら日本をイスラム諸国次元に戻すことはできない。神代の昔にさかのぼれば、もともとそういう方面におおらかな振る舞いをしてきた。ちゃらんぽらんと言えばちゃらんぽらん、ルーズと言えばルーズであるが、だれがどこから見てそう言っているのかを考えれば、せいぜい武家社会がはじまってから相当年を経て男尊女卑の社会的風習が定着してからである。まだ鎌倉の初期には北条政子が、のちの女性一般の代名詞になるほど強く意識されていた。それほどに強く意識されたということは、(武家においては)最後の輝きだったと言えなくもないが、(日本の庶民文化においては)まだまだ女性の存在は捨てたものではなかった。性的ないい加減さは、幕末明治のころまで庶民のあいだには一般的であったと、イギリスからの訪問者が紀行記に記している。まして、男女同権という時代に入ってからの女性の地位は、意図的に(武家以降の)伝統社会の家制度を強調するものでない限り、生理的な男女の差異に基づく以外は、ほぼ五分とみなされることになっている。そこに残るのは、パターナリズム(父権主義)の女性保護的な構えだけ。これは欧米からの文化の流入が、今さらながら残り滓のように引き継がれている名残と言える。
 
 さて話を本筋に戻そう。じつは「スカートのぞき」だけではないと思うが、「不倫」にせよ、「痴漢」にせよ、「ストーカー」にせよ、「個人vs.個人」のかかわりとしてみれば、「加害者=男vs.被害者=女」と、お決まりの図式がある。あとの二者は、たしかに身体そのものに及ぶ「被害」が発生するから「加害/被害」を特定することに特に異議を申し立てているわけではない。だが「制御する力のありよう」としてその事案の発生状況を検討してみれば、社会的「かんけい」の誘発する要因も、決して軽視できるものではない。いうまでもなく社会的「かんけい」は、「加害/被害」の被害者が誘発したという意味ではない。日常の街中に、家庭のIT画面に溢れかえる「誘発要因」や「引き金因子」があるから、まさに社会的に解きほぐさねばならないのではなかろうか。もっとも解きほぐして、だから何かを規制するというのがいいかどうかは、また別の問題である。
 
 その別の問題というのが、安野が踏み込んでいない地平である。「平素の週刊誌のありかたにも反省があってしかるべき」というが、何を反省しろと言っているのか。「興味本位」が良くない、「報道」の「質」を保てと言っているのだろうか。週刊誌がよく「読者がいる」から報道するというのは、「売れるから」と言い換えた方がよい。読者の方にすれば「そこに商品があるから。売るから」といって、鶏と卵の話になってしまう。つまり、基本的に「スカートのぞき(趣味)」もあろうが、そうした(高名な学者が破廉恥なことをしたという)下世話な話が《「わたしはそんなことはしない」と言ってみることができて便利》ということにある。つまり、他人の「不幸」を嗤うことで我が身を「立てて」いるのだ。つまり人々の(本人にもよくわからないメンタルな救済)に役立っているとしたら、「質」を向上させよとか社会的影響を考えなさいと言っても、効果があるとは思えない。「売れればいい」のだから。
 
 とすると、コトの軽重が計られなければならないのではないか。「不倫」においても、公人と私人という分け方もご都合主義的に使われている。そもそも「一夫一婦制」という規範そのものがどれほど社会的に維持されているか、疑問である。日本においても、女性の欲望と身のあり方が公論となって取り沙汰されるようになって、半世紀以上になる。いまさら「不倫」で社会的に非難を受けている人を見ると、そんなに「愛の物語」にしがみついている人が多いのだと、驚かされる。つまり、コトの軽重というとき、我が身の裡において「軽重」を問うことを組み込んだ「報道」をすることこそが、「報道」の社会性を担保することなんじゃないかと、メディアには求めたいのだ。だって「売れればいい」というのは、略奪商法でしょ。どんな商売にでも、それがもっている社会的意味が伴う。それを問いつつ、それに応えつつ仕事をするのじゃなければ、何のために生きてるのさと問われて、応えることができないじゃないか。安野光雅もそこまで言い及べば、面白かったろうにと思う。