mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

国のない男

2016-08-08 11:17:16 | 日記
 
 図書館の書架に面白いタイトルの本を見つけた。『国のない男 a man without a contry』(NHK出版、2007年)。著者はカート・ヴォネガット(金原瑞人訳)。高名な方であるらしい。1922年生まれ、2007年に84歳でなくなっているドイツ系のアメリカ人。この系譜がどれほどの意味を持つのか、私にはわからないが、このエッセイ中で彼は、親しみをもってしゃれのめしている。遺作だという。
 
 「唯一私がやりたかったのは、人々に笑いと救いを与えることだ」という通り、世の中の様々なことを笑い飛ばし、しゃれのめす。彼は言う。「人間は何かの間違いだ」と。瞬間、私の中の何かがスパークする。そうだ! 私もそう思う、と。
 
 このエッセイの終わりの方で、次のような詩句を掲げている。
 
 《十字架にかけられし地球よ。/声を持ち/皮肉をこめて/言ってほしい。/破壊的な人間のことを。「父よ、彼らを許したまえ。/彼らは自分たちのしていることが/わかっていないのです」
   皮肉な点は、/われわれは、自分たちのしていることを/知っているということだ/……》
 
 こうも言う。
 
 《……サイコパスというのはひとつの医学用語。下記濃くて人に好印象を与えるものの、良心の欠如した連中を指す言葉だ。……そういう連中が、いま、世の中のすべてを乗っ取ろうとしている。……これほど多くのサイコパスが企業や自治体で力を持ち、現在では政府にまで巣食ってしまった原因は、彼らの迷いのなさだと思う。彼らは毎日、目標に向かって何かをこつこつとやり続ける。畏れることを知らない。普通の人々と違って、疑問にさいなまれることがない。その理由は簡単だ。その先のことなんか、これっぽちも考えないからだ。》
 
 読みながら、これは日本の現在のことだろうかと思うほどだった。私の手繰り寄せようとしている言葉が、私の口舌の前に出て紙の上に記されてしまっているようである。ヴォネガットは、人間に愛想をつかし見放してしまった人物を二人あげる。マーク・トウェインとアインシュタイン。ヴォネガット自身もそこに連なりたいと手を挙げている。
 
 民主主義でも何でもいいが、自分が住まうところに愛着を抱いていてこその「社会性」である。それを抜きにして、「くに」も「国家」もへったくれもない。地球という自然に対して呼びかけるヴォネガットの振る舞いにこそ、最後の「希望」を見たいと思ったのだが、「われわれは、自分たちのしていることを/知っているということだ」と、退路を断たってしまっている。そこまで絶望が深いということか。
 
 彼の視線が(私ならついつい文化と一括してしまいかねない)細かいことに及び、やわらかく人々の在り様を包んでいるところからすると、「絶望」を決めつけてしまうには、未練が残るように見える。でも「未練」て、「絶望」と並び抱懐されても構わないよね。そう思うと私も、「国のない男」になりたいと思った。

私たちの戦後71年――基本的人権と民主主義

2016-08-08 11:17:16 | 日記
 
 昨日の末尾で《国家と社会を切り離して考えてはいても、未だ我が国の国際関係における立ち居振る舞いに日本国憲法の謳う「理念」を持ちたいという私たちの「希望のあかり」は、消えてしまったのだろうか。そういう視線で、もう一度戦後の国際関係を見直してみたいと思う》と書いたが、その前に、私たちの「希望のあかり」の主軸である「基本的人権と民主主義」がどう内心に作用していたかに触れておきたい。
 
 「新憲法」を契機として、社会や学校において教えられた「基本的人権と民主主義」は、身を通じて感得されたことと、知識や理念として私たちが理解したこととに分かれる。わかれる理由は、前者は親や大人たちの振る舞いを通じて、それに応対する子どもたちに伝わるから、大人たちの「戦争=敗戦体験」を通じた「新憲法」感覚に変奏されている。大人たちの心裡において古い規範が崩れ、新しい国家権力者からの御託宣をどう受け入れるかの戸惑い、その混淆が相対する子どもとの状況に応じて滲み出す。こどもたちは、体で覚えたことを否定しながら新しい理念を受け容れていったと、我が身を振り返って思う。
 
 「理念」を受け容れるとはどういうことか? 「新憲法」の理念を教わることによって、世界の見方が新しく取り出されたこと。「国民主権」と教わる。それによって戦前は「天皇主権」であったとわかる。わかるというのは、それまでは「天皇主権」を自然そのものと同じように見ていたのが、人為的な制度だと、大自然から分節化される。すると次々と、だれがいつどのようにつくりあげた制度か、それの成り立ちと由来、それがなぜ権威をもつのか、ついには日本の「国体」としてもちあげられていたわけと、問いが広がる。もちろんその疑問は、日本の政体や文化的な伝統の領域にまで及ぶが、教わってすぐに出てくるわけではない。と同時に、「国民主権」とは何か、男女平等の普通選挙が何を変えるのか、と問う声につながる。さらに後に、「国民主権」という「国民」は誰なのか。隣でトンチャンと一杯飲み屋をやっている金さんというおばちゃんは主権者でないのかと気づくことになるのは、ずうっと大人になって、大学も出てからであった。
 
 「新憲法」によって世界の見方が取り出されたもう一つに、平等とか差別、公平という人と人との社会関係に関する位置づき方がある。気づいたのは小学校の高学年になってからであったろうか。それまではごく自然そのものとして身体に刻まれていた。学校の友人と遊ぶことをやんわりと母親からたしなめられ、それが彼が被差別に住んでいた友人であったからと分かったときの母親への不信感。育った田舎の造船町に社宅として設定されたあからさまな職階層の差異。親の学歴に対する学校教師の応対と視線の違い。世界は平等ではないと理解するのに、それほど時間はかからなかった。
 
 これは私たち自身の世界観に大きく影響した。社会に広がる差別と抑圧には、大人たちの尺度による優劣の基準が、そちこちに存在することを意味していた。それを反映したかどうかは別として、子ども同士のあいだにある「力の差異」と優劣、日常的ないじめも、「新憲法」の視野に置いてみてとるようになった。価値判断の基準をどこに置くかも、「新憲法」は示していた。まさに「希望のあかり」であった。
 
 日常に存在する差異・差別に目をつむり「平等」を言い立てることは、理念的な跳躍を意味していた。自分は「普遍」に生きているという観念である。だがそれは、人それぞれが抱えている個別的な差異を捨象(無視)する作用もしていた。大学に入ってのち、学寮の入寮審査を受けたとき、私の「保護者」であった父が八百屋を有限会社組織に変えたばかりであったため、その「収入証明書」を見て、「社長ですね、あなたのお父さんは」と面接官の寮役員が言い放ち、私は入寮の優先順位をぐうんと後に回された。当時隆盛であった左翼の差配する寮の管理委員会は、さほどに「概念的」であった。「普遍的に」物事を考える危うさと、後に(我がこととして)反省的に受け止めたことである。
 
 これは、「普遍的理念」がモデルとなり、それを当てはめることによって「現実(世界)」認識をするとき、「世界」そのものがモデルとは別の歩みの(個別性の)積み重ねの中でかたちづくられてきたことを捨象してしまう。演繹的方法の危うさである。個別性から離れて普遍に飛翔することの危うさとは、西欧的思索が直に持ち込まれることによって、伝統的に受け継いできた、身に備わった文化の要素を(否定的に)切り捨ててしまうことにあった。このような思考方法は、別に戦後的な特徴ではない。明治維新後の日本の、西欧化のスタンスはほぼ、この演繹的方法であった。それはちょうど、国家形成の支配的エリート層と(愚昧といったかどうかはわからないが)庶民層の対比において、エリート層がかじ取りをし庶民層がそれに導かれて力を発揮するという社会階層の構図と同じことであった。あるいはまた、戦後大きな力を持つようになった共産党はじめ左翼党派においても、前衛となる指導層と導かれる労働者大衆という構図とも、まったく一緒である。その意味では、「新憲法」がもっている限界性があったわけであるが、それらに気づくのは、やはり大学で世界認識を始めたころからであった。
 
 いずれ自らが社会の指導的立場に身を置くという意識が、私に無かったと言えばうそになる。私が進学した昭和33年ころの高校進学率は(全国平均で)50%、そのうち定時制高校が15%を占めていたから、全日制高校へ進学した割合は、35%ほど。つまり中学校卒業者の1/3であった。大学進学率は短大をふくめて10%ていど、四大では7%ほどであった。都会地と農村部と地方工業都市とで、その割合は異なっていたであろうが、瀬戸内の工業都市はほぼ全国平均程度であったと思う。そういう意味では大学で学ぶということ自体に「選ばれた境遇」という意識がつきまとっていた。ある種のエリート意識ともいえる。だが私においては、鼻が高い心持ではなく後ろめたい思いがいつも強く働いていた。高校へすすむことが出来なかった中学時代の同級生、志望の大学に合格しなければ、私よりも優秀な長兄が高校卒業後に就職しなければならなかったかもしれないという境遇のなかで、三男坊の私が大学へすすんで遊んでいることへの後ろめたさであったと思う。
 
 それは、エリートと大衆という二極に分化させて考えるべきことではなく、人と人との関係には必ず「力関係」が作用するものであり、その「場」への位置づき方に応じて、果たすべき役割が発生すると、後には考えるようになった。その取り結ぶ「かんけい」の中に、文化が生まれる。穏やかな、公平で知的・道徳的な文化であるか、差別的・抑圧的で競争的な文化であるかは、その「場」を構成する人々が取り結ぶ「かんけい」が滲み出して、いずれ定まる。その、日々の一つひとつの言説や立ち居振る舞いが交錯して生み出す文化こそが、「場」の主導権をとるものの主たるモチーフであらねばならないと、私は考えるようになった。そこで、そのときどきの自分の役割を果たす。リーダーがいるときはそれを支えて「場」をつくる。自らがリーダーとなるときは、誠実に「場」を主導し、保持する。あるいは時と所を変えて、「場」に貢献する。これが民主主義だと、私は考えるようになった。
 
 皆が同じ立場で同じことをするのが民主的とは思わない。もちろん誰もが、可能性としての「権利」を持ってはいるが、誰もがリーダーを務めるわけにはいかない。しかもリーダーは、「場」の構成員によって支えられなければリーダーたり得ない。つまり、民主主義というのは、そもそもにおいて共同性/協同性を前提にしている。そういう意味では、学校のクラスという空間で直接民主主義的に「新憲法」の基本的人権と民主主義を教わったことは、理に適っている。むしろ「場」が拡大し、代表民主主義のシステムになってからの社会関係の築き方が、民主主義の在り様を意味あらしめる決定的な要因である。なによりも、共同性/協同性の「場」そのものを大切にしようという尊崇の念を持たなければ、民主主義は機能しない。
 
 主権者である「日本住民」として存在するには、選挙の投票に足を運ぶだけでは十分でない。日常の「かんけいの場」において、民主主義の文化を築いていく一端を担っている一人の市民とならねばならない。はたしてその「場」を、どこに求めたらいいか。そんなことを考えながら、私のかかわるネットワークを見渡している。