mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

変化に富んだ仙人が岳のルート――山案内人から解放してもらえるか

2016-03-23 05:04:57 | 日記
 
 昨日は山の会の月例登山。足利市の最高峰・仙人が岳。最高峰といっても標高は662m。上り口は標高200mであるから、途中上り下りがあっても累積標高差は500mほど。歩行時間は5時間程度、むつかしくはない、と考えていた。
 
 8時20分に到着する電車で足利市駅に全員が集合。借用したrent-a-car2台の運転手を務める私とKさんは、手はずを整えて駅前で待っていた。登山口へ向かう。岩切の駐車場付近のサクラは5分咲きというほどに咲いている。ソメイヨシノではないのかもしれない。梅も花開いていて、山の春は一斉にやってくるという気配。私は昨年の2月にここを歩いている。その時の感じでは猪子峠までがすぐであったように思ったのに、今日は30分近くもかかる。先月末からの痛風以来、八重山諸島に旅はしたものの、山らしいところは歩いていない。私にとってはこの春の初山行、体が慣れていないのだろうか。皆さんの歩調は快調である。
 
 猪子峠には「赤雪岳への登山路が崩落して通行止め」と地図を掲げて表示してある。ここから仙人が岳を回って赤雪岳に下山するルートをとる人もいるのであろう。そこから上りにかかる。ジグザグに道をとりながら急斜面を登る。猪子トンネルの上を通るところで、赤い花が咲いている。ツツジだとKwrさんがいう。ミツバツツジだろうか。葉は一葉もなく、濃い赤の蕾が今にも開かんとたくさんついている。その先には花が開いている。蕾と異なり、明るい赤に白い花びらも混じって大きい。さらに日当たりのいい上の稜線では、その木の花が全部満開という状態。暗いスギ林を過ぎて枯れ木ばかりの冬枯れの木立の中に赤い色を付けたこの花は、いかにも際立つ。小さいスミレが2輪足元にあった。後方の人たちは「アシカガスミレ」と名づけて、喜んでいる。標高429mの地点を過ぎてひと休止する。約1時間半。風はない。曇り空がほどよく、汗もかかない。急斜面で黙々と歩いていた人たちも、おしゃべりが出てくるほどに気持ちがほぐれてくる。そのうち鼻歌も交じるようになった。子犬を連れた若い男二人が勢い良く登ってきて、追い越してゆく。
 
 登山路の途中に「トレイル・マラソン 3/27(日) ご協力ください」と、ビニールの覆いに包まれた掲示が掲げられている。四日後の日曜日だ。どこからどこまでのマラソンかはわからないが、春の陽ざしを受けて走るのだ。そういえば昨年ここを登ったときに、トレイル・ランニングのトレーニングで上ってくる若者二人に出逢ったことを思い出した。彼らはほんの小さなリュックを背負って、半袖姿ではなかったか。生不動尊からのルートが迷いやすく困ったとこぼしていたなあと、不意に細かいことが思い浮かぶ。
 
 標高511m、猪子山山頂。東の下方に大きなダムが見える。松田川ダム。猪子トンネルを抜けた先に設けられた足利市の水源である。遠方に赤雪岳も見える。ここを歩いてわずか1年にしかならないのに、私はほとんどこのルートのことを忘れている。たしか「犬返し」と名づけられた小さな岩場があった。稜線はだんだん細くなって、小さな岩を乗っ越すように歩かなければならない。正面の大きな岩が重なり合って屹立するのが居に返しかと思っていたが、近づいてみると、傍らの崩れた小石を踏みながら登る急斜面。こんなものではなかった。
 
 それを過ぎたところで、岩場はあった。鎖もついている。だが私は、鎖を離れて右の方へどんどん上る。岩は垂直に近くなる。手がかり足掛かりはある。だが、最後のところを登るときに、女の人の身の丈と手足の長さではここはちょっと難しいかな、と思う。そこで、違ったほうを覗いてみると、下にあった鎖はこの上部までつながっていて、それをたどると、それほどスタンスを大きく取らなくても上ることができる。声をあげて、そちらへ方向を変えてもらう。私の後に続いて中間地点に来ていたKwさん夫妻が、左へトラバースして先頭で上がってくる。最後のところも上手にクリアする。「あなたの上がったルートを直登するのは、俺には無理だよ」とKwrさんは言い、「いやあ、面白いねえ」と嬉しそうだ。この緊張感がたまらないという風情だ。
 
 でも下にいる人たちは、10mほどの岩場にしり込みしている。Kさんが途中まで登って、「そこを左、その岩角に足をかけて、そう、右手で岩をつかんで……」とガイドしてくれている。一人ずつ、Kさんのガイドに従って岩にとりつき、鎖をもち、岩角をつかんで這い登ってくる。顔は緊張感に包まれて引き締まっている。いい顔だ。「岩場があるから怖い」と言っていたOkさんが、上がってくる。上について、「やったあ」と声をあげる。「何よ、こんなの登れないわよ」と愚痴っていたMrさんも、上からみている限りでは、さほど難しくなくクリアする。「Kさんは神様です」と、Kさんのガイドをほめちぎる。あとの人たちは、手際よく登って、達者であることを示している。誰かが「さっきのイヌは越えたのかなあ」とつぶやいていた。
 
 地理院地図には山名はほとんどないのだが、一つひとつのピークに、「維の岳500m」とか「宗の岳530m」と、小さなプリンタから打ち出した山名がビニール袋に包まれて木立に縛り付けられている。その「宗の岳」でお昼にする。11時半過ぎ。先ほど通過してきた岩場のことが話題になる。優しいエスケープ・ルートもあるはず、と誰かが言う。栃木百名山というガイドブックに書いてあったらしい。「ならば、それを探せばいいのに」と口を挟む。「だって……」と、リーダーである私が先へ行っているのに口を挟むことはできない、と言いたいのであろう。私はそういうエスケープルートがあることを知らない。それを通過するのが難しいと思った人が自ら調べて、安全な道をとるのは必要なことだ。それをリーダーのせいにしては、我が身は守れない。
 
 「妙義山のときは安全確保のカラビナなどもあったし……」という。「自分に必要なモノだったら、ご自分で購入して使うようにするものですよ」と付け加えながら、そうだ私がこの山の会のガイドをつづけていてなんとなく釈然としなかったのは、私に頼りきりで、独り立ちするような気配をみせない会員がいたからだと、ふと気づいた。「退会しろってことでしょ……」とどなたかがぼやく。「違う、違う。退会しろなんて言ってない」と言いながら、(私は案内人になりたくないのだ。同行者になって一緒に山を歩きたいのに、私を案内人にしたてる構えが嫌なのだ)と、私自身の内心が見てとれたような気がした。
 
 標高50mほどを下ってさらに100m上るようにして、「知の岳561m」に着く。そこから5分ほどで「熊の分岐」、生不動尊からの登り道と合流する。「← 仙人が岳 20分」とある。Kwrさんが先頭になって山頂を目指す。6分ほど歩いたところで、「(山頂は)ここじゃないの?」と振り返る。山歩きのときには、時間の感覚は体の疲れの感覚に応じてしまう。わずか6分で20分歩いたように感じているのだね。そういうペースを体に覚えさせることも、一つの技法だなと思う。17分で「赤雪岳との分岐」につく。「← 仙人が岳 0.3km」と表示してある。「行こう、行こう」と、腰を下ろした先頭を追い越して頂上に向かう。なだらかな稜線は落ち葉に包まれてふかふかと歩きやすい。だが、周りの木々の根本は黒々と焼けた跡を残している。去年は気がつかなかった。この山のずいぶん広い部分が焼けてしまったようになっている。倒れている木もある。渓の下を覗くと、切り倒された根株が何本も切り口をさらしている。焼けたから切り倒されたのか、延焼を防ぐために切り倒したのかわからないが、その谷の向こう側の斜面の木々も、根方が黒々としているから、延焼防止には役立たなかったと見える。新しい実生がかなり背丈を高くしているから、数年は前のことかもしれない。私も、何も見ないで山を歩ているんだなあと、去年のことを思い出していた。
 
 山頂でもおしゃべりをして賑やか。「神様のKさん」の足のふくらはぎ筋肉が固い、「触らせて」と女性陣がワイワイやっている。アスリートの彼の体脂肪率は「8か9。近頃は二ケタになった」と。あと3月ほどで後期高齢者になるという。彼の話を聞いてほかの方々も、元気を回復しているようだ。風が出てきた。下山にかかる。
 
 先ほどの「熊の分岐」まで15分で戻り、そこから先頭をOkさんに行ってもらう。彼女はさかさかと急斜面を下り、後続との距離が開いてしまう。「早すぎるよ。速度違反、後方注意義務違反」とMrさんが言い立てる。生不動尊で一度合流し、今度はMsさんが先導してまたどんどんと先へ下る。Sさんがニリンソウの花を見つける。後から行く私が、それをカメラに収める。と、斜面にカタクリの葉を見つける。上へと目を移すと、上方に花が一輪咲いている。先行する人たちに声をかけるが、沢の水音に消されてか届かない。枯葉を踏んで斜面を上り、それもカメラに収める。
 
 里の感じが漂う頃、ツバキの花が、みずみずしい常緑の緑の葉に囲まれて、咲いたばかりの新鮮な赤色をみせている。傍らには今にも咲かんとする蕾がいくつも出番を待っているようだ。サクラもほどなく満開の風情。畑の梅は終わって、実をつける用意が整っている。2時半、駐車場に着いた。先着の皆さんは、荷物を片付け、4月からの山歩きの話をしている。
 
 下山中に話の出た「お花見」をすることにした。今月末頃が満開の見ごろになる。Kさんがチーズフォンジュをつくるよという。私がワインとフランスパンを用意することにした。Kwさんが松山のヤキトリを手に入れてくるといい、すぐにそこで、日取りを決めて森林公園で行うことになった。
 
 さあこうしてはじまる、5年目の山の会、山歩講。私を山案内人から解放してくれるだろうか。

経済システムの裾野と臨界点

2016-03-23 05:04:57 | 日記
 
 3/19の朝日新聞「折々のことば」で、鷲田清一はカール・ポランニーのことばを取り上げている。
 
《社会関係のなかに埋めこまれていた経済システムにかわって、今度は社会関係が経済システムのなかに埋めこまれてしまったのである》
 
 そうして次のように解説する。
 
《身も蓋もない言い方をすれば、あらゆるものが貨幣価値で測られるようになったということ。何事も利潤を動機として動く人は未熟であり、「経済的人間」を本来の人間と見る人は哀れなばかりに単純だ。「人間の社会的想像力が疲弊の色を示している」と、経済人類学者は嘆く。「経済の文明史」(玉野井芳郎・平野健一郎編訳)から。》
 
 鷲田は社会関係が交換関係に覆いつくされたとポランニーのことばを拾っているのであるが、私はこの言葉に最初接したとき、経済関係を社会関係から切り離して、それに先行するシステムととらえることの愚を指摘していると考えてきた。経済活動を下部構造として、上部構造とする政治や、文化、社会活動はそれに規定されるというマルクス主義への批判が含まれていると考えた。つまり、上部構造の条件を抜きに経済原理が成立するという(アダム・スミスが意識しないで前提にしていた)ことが、ポランニーの見方によってもう一段深いところでとらえ返される必要がある、と。
 
 科学的経済学とか純粋経済学理論というものが、じつは経済活動の前提とする諸条件を捨象して、モデル化した経済活動だけを取り出して数値化し、あるいは論理的に裁断して、一般化していることへの批判であった。つまり、截断した断面を普遍化してしまうことの愚を、人間社会の総合学としての文化人類学から指摘したと考えたのだ。だからポランニーの経済論を「経済人類学」と呼んで、文化総合的な視点から組み立て直そうというこの所論は、経済学者によってよりも、政治学者や哲学者、社会学者によって評価され、資本制社会の行き詰まりを考察する際に用いられてきたといえる。栗本慎一郎の紹介が、きっかけになっている。
 
 今でいうと、たとえば佐伯啓思『さらば、資本主義』(新潮新書、2015年)の前半は、ポランニー同様に、資本主義が軌道に乗って作動する政治的文化的な、マルクス主義のいわゆる上部構造の前提条件に目を留めるよう教示している。だがこの本の中心部分は、後半、トマス・ピケティの『21世紀の資本』を手掛かりにして、資本制社会の行き詰まりを説いているところにある。「第九章 資本主義の行き着く先」は、ちょうど私たち戦中生まれ(戦後育ち)世代が、一人前になって生産活動に従事してきた時代と重なっていて、我が世代の径庭を見て取るうえでも大いに参考になる。それを少しくたどりながら、考えてみよう。
 
 1950年代から80年代までの30年間を除くと経済成長率は利潤率を下回っている。ピケティのいう「r(利潤率)>g(成長率)」である。佐伯によれば、先の30年間の時代には、経済成長によって手に入れた利潤は次の投資へとつぎ込まれ、それがさらに成長を促した。むろん賃金の高騰をもともない、大量の中間層を生み出すことになった。アメリカと日本の進捗に大きな時間差があったにしても、まとめて「産業資本主義の時代」と呼んでも差し支えないほど、世界的な大変動であった。
 
 ところが、1980年代以降、新自由主義が世界的に採用されていったにもかかわらず、競争とイノベーションによる経済成長には至らず、r>gになっているのはなぜか。《「資本」は利益を上げているけれど、資本主義社会は成長していない。》と佐伯は見立て、そこがピケティの著書の「画期的」なところだと評価する。なぜそうなるのか。そのわけは、利潤が金融市場に回されて高い利益をあげてはいるが、産業資本として再投資されることに向かっていない(言葉を換えれば、金融市場でぐるぐる回っているだけ)と一応説明されるとしたうえで、もう一歩踏み込んでいる。
 
 差異が利益を生み出す「市場経済/資本主義」の原理からすれば、経済成長をもたらす要因(労働人口の増加と労働生産性の増加、市場の拡大)は、「外生的」である。19世紀にそれは、植民地の獲得・拡大という帝国主義政策として達成されてきた。だが20世紀になって帝国主義が行き詰りをみせたときに登場したフォーディズム(フォード的な生産と需要拡大の産業資本方式)は、内需の拡大と大量の中間層を生み出して、さらなる需要創出をしていった。ここでは、利潤は次の資本再投資に用いられ、経済成長をもたらし、雇用の増大と市場の内的拡大をもたらしていく循環を形成していった。それが(二つの大戦をはさんで)20世紀の主潮流となり、遅ればせながら日本も、敗戦後の50年代から80年頃にかけて「一億総中流」と言われる時代を画するところにまで到達したのであった。佐伯啓思はそれを「産業主義的循環」と名づけ、《同質化し画一化した人の群れである大衆社会》が実現した「内爆発」と呼んだ。
 
 この「内爆発」による成長のメカニズムが行き詰ったと、佐伯は指摘する。「(製造業における)イノベーションが成長を生み出すことは困難な時代」、つまりそこに「フロンティア」見出すのは難しくなった。だが90年代以降追求されてきた「フロンティア」の一つは、「グローバリズム」であり、もうひとつが「イノベーションの徹底した内爆発」とみる。前者はITを用いたネットワークと世界的な流通の高速化によって、市場を単一化・平準化しつつある。新興国の急速な発展であり、それが追いついてくることによるヒト・モノ・カネの交通の増大と敏速化である。だがそれは、先進国の「内爆発」には、直ちにはつながらない。むしろ、国内の産業の空洞化と呼ばれる事態を招来し、さらに次の領域におけるイノベーションを探ることへと向かわざるを得ない。と同時に(当を得たことによる利得の偏りと事態の変動に伴う整理縮小によって)「格差」と「不安定化」がもたらされ、大きく中間層が衰退していく事態を生み出している。
 
 佐伯は現代のそれを、「人間そのものをイノベーションのフロンティアにしている」と指摘する。
 
《90年代以降の情報機器、そして今日の生命科学、医療上の革新は、……人間の「世界」への働きかけではありません。まさに人間という「主体」そのものへの働きかけなのです。……「筋肉」ではなく、「神経」が対象となる。とりわけ「脳神経」や「遺伝子」や「細胞」がイノベーションの対象とされている》
 
 と。ちなみに、もう商品見本市まで開かれているAI(人工知能)も、考えてみれば、その一つである。囲碁対決の勝利ばかりでなく、自動運転技術、当意即妙の応接・応対・案内コミュニケーション知能、ドローン宅配や力仕事補助ロボットなど、すでに現実化の直前にある。しかもAIの応用によって、あと2、30年のうちに4割の人たちの仕事が奪われるともっぱら取りざたされている。ここに発生する事態は、これまでの「フロンティア/イノベーション」がもたらしたものと同列に考えることができるかと、佐伯は展開する。そのカギは、「差異性」の原動力となる「欲望」である。人間の欲望を介在させないで、人の暮らす社会がどう保持された持たれていくか。それに「資本主義」(あるいは「市場経済」)は適合するシステムたりうるか。
 
 15世紀末の地理上の発見や17,18世紀の商業革命には消費革命が随伴していた。20世紀の産業主義的循環においても同様に欲望が喚起され、物的な高度消費社会が付き従った。だが、
 
《IT革命にせよ金融革命にせよ、それに向けられる「欲望」は、こうした社会性と自動拡張性をもっているのでしょうか》
 
 と疑問を投げかけている。つまり、需要の喚起につながる「差異性」をどれだけもたらすことができるか、と「欲望」を媒介として問いかけ、こう述べる。
 
《今日のイノベーションは、もはや、かつてのように、社会性をもって相互作用をもち、モノの購入がそのままGDPの増加になる、という種類のものではないのです。……今日、われわれがほんとうに考えるべきは、成長戦略ではなく、いかに脱成長主義社会へと移行するか、ではないのでしょうか。》
 
 ピケティが指摘するアメリカの如く、上位1%の人々が富の4分の1を占有する事態がさらに進行するのを座視するとしたら、アメリカやEUにおけるような「本音/野蛮」の復権が「人間の声の復権」のように響く世界が日本にも現出するかもしれない。私たちの子や孫は、たいへんな時代を過ごさなければならないことになる。う~む。