mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

他者との出会いがより深く自分と世界をみるのに必要

2016-03-20 07:57:18 | 日記
 
 カズオ・イシグロ『私を離さないで』を原作とした連続何回かのTVドラマを観終わった。原作を読んだ時の読後感を昨年7/25のこの欄に記しているから、私が強い印象を受けたことは改めて言うまでもない。だがこのドラマを観て、書き記されたもの(エクリチュール)を映像にするというのは、ストーリーといい画像といい、さらにひと段階違った創作活動なのだなあと思った。
 
 原作の主題はしっかりと保持されている。原作の読後感では、《描出される情景の輪郭がぼやけている。いや、ぼかしているのだ。なぜぼかすか、どうしてぼやけるかという謎が、中ほどで垣間見える》と、読みながら感じている「もどかしさ」を私は綴っている。ところが、映像というのは「あいまい」にしておけないところがある。登場人物の着衣、表情、かかわりあう「かんけい」などは具体的でなければならない。さらに(たとえば移動中の)背景の人物や情景も映り込んでしまうのだ。もちろん、焦点をワン・フォーカスにして他をぼかす手法もないわけではないであろうが、全編それをやると、面白くないセリフ劇になってしまう。
 
 つまり、エクリチュールを画像にする段階で、映像作家のイメージ(世界)が具体的に介入する。それは、完成作品をみるものの眼を限定してしまうことでもある。視聴者は、自らの視線が限定されていることに気づかず、画像のイメージのままに受け取る。原作を読むときは、良くも悪くも、読む者の心裡で結ばれるイメージは(無意識も含めて)自らの(世界の)輪郭であることを承知している。だから読み方によるが(読み終わるまで)作家と読者の格闘が行われ続ける。そういう意味では集中力がいる。ところが映像は、映像作家の世界イメージが眼前に提示され、それをそのまま受け取ることもできる。疑念を挟まずに直に心理に飛び込んでくるともいえる。身体性や無意識に直に作用して、気づくことなく画像の提示する世界に誘導されることも、しばしば起こっている。サブリミナルではないが、いつ知らず画像作家の世界に取り込まれ、「洗脳」されているというわけである。これは、怖い。
 
 むろんこの連続ドラマが何を「洗脳」しているかと問題にしているわけではない。これはこれで、原作とは別の「創作」だと言いたかったのである。だが、ここまで書いてきて、意識的に受け取ったものといつ知らず受容しているものとの落差がどのように私の心裡で「かんけい」しているのかいないのか、そちらの方が気になってしまった。「いやな感じ」を感じとっていれば、すでに「落差」の自覚である。だが、まったく違和感なく心裡に入り込んでいるというか、「面白かった」とか「しっくりきた」という好印象を持ってしまったときに、なぜそう感じたかを言い当てるのは難しい。それは自分の輪郭を自分でみることのむつかしさに通じる。
 
 やはり、心地よいことよりも違和感を感じさせるコトの方が、娯しいことよりも哀しいことや切ないことの方が、自分の輪郭を照らし出し、世界を見て取るのには意味が大きいように感じる。他者との出会いがより深く自分と世界をみるのに必要ということかもしれない。