mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ほんとうに個人になったら、楽になる

2016-03-09 19:17:39 | 日記
 
 川上弘美『風花』(集英社、2008年)を手に取った。結婚何年目かの夫婦。夫が浮気をする。でもきちんと自宅に帰ってくる。主人公の妻は、ひょんなことからそれを知り、浮気相手と会って話をするが、どうしていいかわからない。嫉妬に身を焦がすでもなく、かといって坦々と見ているわけでもなく、己自身が夫を「すきだ」という感懐に留まったままで、「事態」(の解決に向けて)に手を出そうとはしない。夫もまた、自身の振舞いに、確信的なものを感じとれていない。面白い設定だ。
 
 つまりここに描かれる「私」の不確定性、夫婦という「かんけい」のつかみどころのなさは、じつは人と人とのかんけいのつかみどころのなさを浮き彫りにする姿だ。私たちは、それほどに「不確定」な関係の中に生きている、と見える。
 
 妻は自ら働き始め、「別居」をする。夫も浮気が(転勤などもあって)自然消滅するように治まって、妻とのやり直しへ動き始める。河上弘美の物語りは、この夫婦の「かんけい」が恢復をみせたと思われたときに、妻は離婚を決意し、両者の「かんけい」は独立した個人の「不倫」のようにして、安定点を見出している。人はまず、己自身が個人として屹立することによって、他の人とのかんけいを安定的に築くことができる。そういうメッセージを、この作家は認(したた)めているようだ。
 
 川上が女性であることが、このテーマを浮き彫りにしたのであろう。「結婚」とか「家族」という制度が、そこに身を置く人を縛り、なぜそうしているのかを自らの問いかけないではいられない「情況」を日々生きている。それはことに女性にきつく現れていると言えるようだ。日本の制度的なきつさもあろう。それよりも、社会的な規範意識の強さが女性に対して強く作動していると思われる。目下の、夫婦別姓の問題も、離婚後の結婚禁止の時期の設定も、家族制度の旧来の規範に根差している。
 
 それを軽々と超えようという感覚が、この川上の作品に提示されている。面白い。すべての人が個人として自立して、その上で、結婚とか家族とか人と人とのかかわりを再構築していこうという考えと受け取れば、一挙に社会関係の構成法を、根柢から考え直すきっかけになる。もう時代がそこまで来ていることは、この作品の背景に描かれている社会状況を読み取れば、十分納得できる。
 
 ところで、この作品中に夫のシステムエンジニアが「小説の何が面白いかわからない」と問う部分がある。もちろん夫は、「波動方程式が面白いというのをどう説明していいかわからない」というのと等値において、それ以上踏み込まないのであるが、それと同様に、個々人間の差異は、説明しようのないことである。それをあたかも、説明できることと想定してやりとりしている私たちの日々は、「誤解」や「誤配」もふくめて、いったん「わかりあえない」地点を共有して初めて、出逢い直さなければならないと、訴えているようである。
 
 そういう意味では、この社会に暮らすみんなが、ほんとうの個人になったら「かんけい」が楽になるのかもしれない。