mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「火の山のマリア」――我が身の裡に淵源を探れ

2016-03-22 10:14:43 | 日記
 
 映画「火の山のマリア」を観る。去年のベルリン映画祭で銀熊賞を受けたという。グァテマラの若い監督・ハイロ・ブスタマンの初長編との売り込み。2/12の朝日新聞(の伊藤絵里奈)は「近代化が急速に進む一方で、格差は広がり差別はそのままの現状を伝えたかった」という監督の言葉を紹介しているが、そうなのかなと私は思った。
 
 じつはこの記事は、読まないで切り抜いてとっておいた。チケットは1月に手に入れていたのだが、まだ映画を観ていなかったので、「批評」を事前に読まないようにしていたのだ。先日、八重山諸島から帰ってきて、やっとこの映画を観る暇を得た。そうしてこの記事を読んで、監督のことばとは違う感触を私は持ったことに気づいた。どういうことか。
 
 「格差と差別 伝えたかった現状」という(この記事の)見出しにもなっている受け取り方は、「近代化」を是認している地点からのものである。近代化はいいが格差と差別を残してはいけない、と訴えている。だがそうか。そんなに透視する距離の短い主題なのか。
 
 映像そのものは、開発の手が入るマヤ族の村で育つ女性が、外の世界へ出たいという願望をもちつつ運命に翻弄される断片を切りとった物語である。そこには人類史の歩みと人間存在の哀切さを象徴する切片がみてとれる。
 
 《「都市部のスペイン語しか話さない人たちは、これまでマヤ族を見て見ぬふりをしてきた。でも今回は自国の映画なのに(スペイン語の)字幕を読まなくてはいけなかった」と笑う》
 
 と、この監督のことばを紹介している。だが、「近代化」というのは、ネイションの形成であり、その出立点としての言語の共通化は前提でもある。征服民族のスペイン語がネイティヴのマヤ族のことばを退けたからといって、それを「差別」と呼ぶだろうか。「……と笑う」という監督の姿は、もはや取り返しのつかない事態を前にした「苦笑」ではないのか。
 
 上記のことばにつづけて、監督が次のように語ったことも(記事は)付け加えている。
 
 《「なぜ人間はこんなにも愚かで物事を複雑にさせるのか、なぜ感情が理性に勝るのかに興味がある」》
 
 この監督自身が、「14歳までマヤ族の村で暮らした」という。彼にすれば、マヤ族(のことば)の世界は「閉じられた世界」である。スペイン語の通用する世界こそ「近代」であるとともに、「人間の世界」なのだ。だが彼の「身」は「閉じられた世界」でかたちづくられ、「人間の世界」で生きていて、引き裂かれている。この「引き裂かれた事態」に苦笑しつつ、人間を「愚かで物事を複雑に」するというのは、人類史的な視点から鳥瞰しているときに生まれる感懐ではないのか。言葉を換えれば、「近代化」はもはや行き詰っているという地点から、モノゴトをみている。
 
 「なぜ感情が理性に勝るのかに興味がある」というのも、(マヤ族の少女が)外の世界にでたいという衝動がなぜ生まれ出るのかと重ねると、「興味がある」というレベルではなく、晴と褻の人間本性というか、ただ坦々と生きることへの耐えられなさが湧き起るのはなぜかという問いに変換される。これは縄文の時代から綿綿と、そしてもっと急速に、明治以降の私たち日本人がたどってきた道程が問われていることでもある。それは「愚かで複雑に」することと、片づけることができることだったか。そういう問いの前に立ち尽くす言葉にみえる。そう考えた時点で、「格差や差別」が思い浮かぶか。
 
 ちなみに私はいま、レミングの集団自殺を想い起している。何年かに一度大量発生したレミングの群れが直進行動をとって断崖から海へ身を投じてしまうという、子どものころ知った話だ。確か映像も見たような気がするが、物の本で読んだ時の、私の思い描いたイメージかもしれない。人類が押しとどめようもなく滅亡に向かって暴走するイメージと重なってくる。もう「苦笑」するしかない、というふうに。
 
 とは言え、シニカルに考えているのではない。昨年の11/7のこのブログで《記憶に悲しみが宿る――忘却の残酷さ》として記した、チリのパトリシオ・グスマン監督の手になる映画『真珠のボタンEl Boton de Nacar』(2015年)と『光のノスタルジアNostalgia de la Luz』(2010年)の感想とダブらせて、記憶にとどめたいと思っている。私たちが向き合っているすべてのことごとは、系統発生的に私たちの現実存に堆積されている、と。それを忘れるな、ということ。そして、目前の出来事に目を奪われてしまうと、もっと本質的なことがらに気づかないまま「暴走」に加担してしまうぞ、ということ。すなわち、すべては我が身の裡に淵源を探れ、と。
 
 一緒にこの映画を観たカミサンは、「そうだよね、外へ出たかったんだよね」と、マリアに身を寄せて感想を漏らした。彼女自身が、四国のチベットと言われた土地から抜け出してきた径庭を振り返っているようであった。