mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

これぞ、春の夢か

2016-03-30 16:04:51 | 日記
 
 昨日も今日も、暖かい。最高気温が22℃になると予報がいう。5月の気温だ。半袖でも過ごせる機構ということである。一昨日のように曇り時々晴れ、気温が一桁台と低いのでは「寒の戻り」がつづくと思えたが、昨日、今日のこの気温と陽ざしは、何か新しいことをはじめてみようかと、気持ちまで前向きにさせる。「気持」だけね。荒川沿いにあるサクラソウ自生地に出かけて、2時間ばかり「お花見」をしてきた。サクラソウはきれいに咲いていた。ノウルシがまだ背を大きく伸ばしていないから、全身が見える。ノウルシも根株の赤い苞が残って見えている。アマナも幾種ものスミレも、カントウタンポポやシロバナタンポポも花をつけて、春を言祝いでいる。今年開花宣言の早かった桜もむろん、3,4分咲き。日当りのいいところは、明後日くらいには満開になるだろう。ユキヤナギやレンギョウがにぎやかな雰囲気を醸し出している。
 
 気持ちだけ前向きの私は、家に帰ると閉じこもって、本を読んでいる。
 
 渡辺靖『沈まぬアメリカ――拡散するソフト・パワーとその真価』(新潮社、2015年)。
 
 《これまでの「地域コミュニティ」に限定されない「テーマ・コミュニティ」を主題に据えた》
 
 と狙いを語る。コミュニティというと私たちは、自分が住まう地域、あるいは国を考える。「アメリカという国」を対象とすると、いまや「凋落のアメリカ」、「衰退するアメリカ」が主たる話題になる。だがアメリカが育んだ「ソフト・パワー」となると、俄然、話は違ってくる。アメリカ映画、グーグルやフェイスブック、企業経営や国際機関を動かす方法、軍事的席巻やポリティカル・コレクトまでを、「アメリカのソフト・パワー」の側面からみると、(私の身の周りを眺めるだけでも)ずいぶんな広がりを持っていて、受け容れられているとみることができる。
 
 それを「テーマ・コミュニティ」と呼んで、渡辺は考察の対象を絞る。アメリカという国が育んだ「文化=ソフト・パワー」が世界に受け容れられ拡散していく様を描き獲ろうとしている。むろんそれらを、「アメリカ帝国の覇権」とみて「新植民地主義」と警戒する向きも多い。だが必ずしも、アメリカの政治的力や軍事的力や経済的な力によって押し付けられたものというわけではなく、アメリカの文化が(むろんヨーロッパのそれや日本のそれや他の国々のそれらと相対的に)好ましく思われて受け容れられている側面を見逃すことはできない。もちろんフーコーの見立てにまで及べば、喜んで受け容れる構造がかたちづくられてきているとも言えなくはないが、それはひとまず措いておこうソフト・パワーがいま、世界でどう拡散しているかを、考察している。
 
 面白い。アメリカという国が生んだ「文化」を、7つの領域に分けて、子細に追っている。
 
1) アメリカ高等教育の世界的な広がりに目をやる「ハーバード」と「リベラル・アーツ」。UAEでのニューヨーク大学の設立と展開は、目を瞠るものがある。と同時に渡辺は、それがアラブ諸国の人々のアイデンティティと齟齬をきたさないかどうかにまで目を配って考察する。
 
2) 「毎日が低価格」を看板に小売業で世界へ乗り出したウォルマート。その株主総会を称して参加者の女性は「ウォルマート・ネイションのお祭り」と呼んだと記す。反面、韓国、台湾、香港やシンガポールに進出するウォルマートが引き起こす労働問題に目を留めて、その意味を問う。
 
3) 「反知性主義」と言われながら、アメリカの「キリスト教保守主義」を大きく塗り替えて活性化させてきたメガチャーチが、シンガポールではリベラル派によって運営されていたり、韓国では世界最大のメガチャーチを擁するという。 
 
4) 「人種や身分の分け隔てない教育」を中核とするTV番組、「セサミストリート」。三十の言語、百五十カ国にローカライズされて現地語の子ども教育番組として広がりを見せている。日本におけるように英語学習番組として放映されて来たのとは異なり、アメリカンリベラルの文化的な伝播と見ることができる。渡辺は「文化外交」と呼んで、それを検証している。
 
5) 「政治コンサルタント」の広がり。何、それ?  と思うかもしれないが、ロビイストやシンクタンクと違って、イメージ戦略やメッセージ戦略のコミュニケーションを担う、大衆社会アメリカに発生した独特の業界だ。日本でも最近は、安倍政権のそれを担当する「政治コンサル」が介在していると言われている。日本では選挙の時くらいしか顔をみせないようだが、アメリカでは世界戦略にも口出しを求められているようである。その政治手法が世界に越境していると渡辺はみる。イギリス、イスラエル、インドネシア、ボリビアなどに、アメリカ人の政治コンサルタントが重用されたとある。世論操作のエージェント(スピン・ドクター)であることが、かえってアメリカ民主主義を掘り崩す役目をしているのではないかと、渡辺は疑問を呈して、こう述べる。
 
 《トクヴィルは「アメリカのデモクラシー」の中で、アメリカ人の自治と独立の精神を称賛した。確かに、合衆国憲法に規定されたような民主主義の制度設計は大切だろう。しかし、そうした精神や気質、いわゆる「心の習慣」なくしては立派な制度も機能しない。……しかし、スピン・ドクターやビッグデータが支配する政治空間にあっては、個人の実存性や内面性が顧慮されることはなく、個人(ないしその群れ)は計算かつ制御可能なものに矮小化されかねない。》
 
 かつての「人工国家」としての建国モデルは色あせて、机上の知恵に合わせた統計的操作によってつくられる現実に、暮らしている人間が適応しなければならないという逆説が、ミシェル・フーコーの見てとったように浸透しつつある。人間が変わりはじめているのだ。
 
6) 功成った地域事業者、つまり地域ミドルクラスの親睦組織と思っていた「ロータリークラブ」が、日本では1920年に創設されたことを、私はこの本で知った。奉仕活動を第一義とする有産者の団体とは思っていたが、世界二百以上の国・地域に120万人に及ぶ会員を持つというのには、驚かされる。これを渡辺は、「こうした結社づくりはアメリカ人の十八番でもある」としてトクヴィルが「アメリカ人が公共の問題のために大きな犠牲を払う場面をしばしばみた……必要に応じて彼らが誠実に助け合う」と賞賛していることを付け加えている。その初めに、ピルグリム・ファーザーズとして大陸に渡った彼らが自律と相互扶助の精神を培いつつやってきたことは疑いもない。日本の「ボランティア」という奉仕活動がどこか偽善的な響きをもつのは、AO入試の評価の対象になったり、高校や大学の「単位」に読み替えられたりするからでもあるが、基本的に、優位者が劣位者を救済するという響きを消すことができない。「ロータリークラブ」の発祥が、キリスト教精神と自律における相互救済という根柢をもっているからこその「文化的力」だといえよう。日本で根付くためには、いまひとつ越えなければならない「ネイションシップ」があると、私には思える。渡辺によれば、アメリカにおいては、ミドルクラスの没落に応じるようにして、「ティーパーティ」運動や「ウォール街を占拠せよ」運動が巻き起こり、「ロータリークラブ」が緩やかに後退している反面で、台湾やインドなどで会員が増加するなど、新興国のミドルクラスへと越境、伝播、拡散をつづけているとみている。
 
7) 渡辺が最後に取り上げているアメリカのソフトパワーは「ヒップホップ」。彼は「現代アメリカ文化の象徴」と呼ぶ。ヒスパニックやプエルトリコ系の若者たちが多く住むニューヨークのサウスブロンクスに生まれたストリートカルチャー。DJ、ラップ・ミュージック(MC)、ブレイクダンス、グラフィティなどなど。それが1980年代になってはじけ、商業主義の波に乗ってメジャーにのし上がるようになってから、「リムジン・リベラル」(貧困救済や格差是正を掲げて優雅な暮らしを満喫している人たち)と蔑称されるようになって、渡辺は幻滅を覚える。しかし、アメリカ系とヒスパニック系とのハイブリッドがさらに進行して、いまやカンフー映画や日本のポップカルチャーをも取り込んで変容していく様子を渡辺は「アメリカならではのダイナミズム」と、そのエネルギーの拡張に目を瞠っている。
 
 《複雑性と流動性を増す現代、とりわけ「液状化する近代」を生きる若者にとって人生の不満や不安の表現手段としてヒップホップがクールな存在であることは想像に難くない。ヒップホップはライフスタイルとも密接に関係している》
 
 と述べて、若者の政治参加や社会参加のツールとして着目している。さらにむかしのルイ・アームストロングやデューク・エリントン、ベニー・グッドマンらの「ジャズ外交」に擬えて、「ヒップホップ外交」に目を配ってみせる。
 
 つまり渡辺の視線は、コミュニティの地理的境界を取り除いた「テーマ・コミュニティ」へ据えられて、「アメリカの覇権衰退後の世界」を描き出そうというものである。だが、それより早く、イスラム諸国へのアメリカをはじめとする先進諸国の暴力的介入がもたらした結果が、ヨーロッパの爆弾テロなどになって、表出している。渡辺自身が世界の警察官として展開しているアメリカの軍事基地がもつ「アメリカ文化」の波及にかかわってくるのであろうが、それがもたらした負の部分に目を向けないと、単なるアメリカ賞賛のお話しになってしまうと思うが、どうなのだろう。
 
 でも、面白かった。こうした私の知らない世界を垣間見せてくれただけでも、(たぶん)これからの私の視線は変わってくる(かもしれない)。