mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

見えないものを影に見る

2016-03-07 16:21:46 | 日記
 
 宮部みゆき『お文の影』(KADOKAWA文庫、2014年)は宮部の短編集。2012年に出版されていたものを改題して出した。その中の表題作「お文の影」と「倒債鬼」には、目に見えぬことを影に落としてみてとる場面が出てくる。面白い。作家というのは、目に見えぬ象徴世界を眼前に展開して見せる技量をもっている。そうすることで、私のような胡乱な読者にもはっきりと「世界」を読み取れるようにしてくれる。いわば、異世界と現実世界との橋渡しをメッセンジャーしているというか、翻訳者でもある。
 
 じつは目に見えぬ世界を、ふだん私たちも見ているのだと、気づかせてくれる。つまり私たちが見ている「物の姿」は「光」が当たっているから見えるのではなく、光によって生まれる「影」によって姿になっている。光の部分をみるということは、影の部分を同時に見ることであるのに、私たちは光の部分に名を付けて、それを実体としてみてしまい、影をすっかり忘れてしまう。影は、そのとき見落としてしまうである。その「姿」がもっている「かんけい」が「影」として備わっていることをみてとらなければなりませんと示しているようだ。見える人にしか見えないというのは、そういうことなのだ。
 
 それをもっと明快に提示して見せるのが池上永一『統ばる島』(ポプラ社、2011年)にあった。図書館の書架に並んでいた。八重山諸島の名を冠した8つの「連作短編」でなっている、と思った。実は今週半ばから八重山諸島への旅に出る。羽田から新石垣空港に飛び、そこから与那国島や西表島に足を延ばす。八重山諸島の地誌を少し読んでおこうと思っていたときに、この本が目に止まったので借りてきたのであった。ところが、まったく違った。八重山諸島に数多ある御嶽(うたき)の神々にまつろうお話しである。人々の暮らしの中に沈潜している「神・神」との交歓に、当の島人自身が気づいていないことが浮かび上がる。竹富島、波照間島、小浜島、新城島、西表島、黒島、与那国島、と石垣島という八つの名のある島によって構成される八重山諸島は、ちょっと大雑把な言い方だが、日本の最西南端である。与那国島の向こうには、天気のいい日には台湾が見える。その地勢的位置も、物語りには大きな要素をなしている。「影」が、島の行事ごとにちらりと顔を見せる。人の動きが海や森という自然との闘いになり、人とのかかわりが物の動きにもなり、そのものの動きを準備し整える生業が、島の「かんけい」をつくりだしている。石垣島が最後の章を飾って、諸島の神々の結びつきを解き明かすように物語られる。
 
 ほとんど八重山諸島の地誌を読み取ることにはならなかったが、深く人々の暮らしに底流する御嶽とそれに仕えるツカサと、その心情を汲みとる世界を覗き込んだような気分だ。御嶽をみて来ようと思った。