mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

最果ての「ふるさと」を訪ねて(2) 西表島に人生の径庭をみる

2016-03-19 11:07:21 | 日記
 
 西表島に行って初めて知ったことだが、八重山諸島の島々のうち、石垣島と与那国島を除く島々は竹富町の行政区に入っている。そして驚いたことに、竹富町の町役場は石垣市に置かれてある。その町役場を町内に写すという住民投票が行われて、晴れて今年中に西表島に移される運びになったともいう。どうして町役場が石垣市に置かれていたのか。バスの運転手の話だと、行政的な利便性から石垣市にあった方が良かったから、という。
 
 とすると逆に、どうして竹富町に属する島々は石垣市に入らなかったのだろうか。西表島から石垣島に帰る途次に立ち寄った大原港の地産品売り場の40歳ほどの売り子さんに尋ねた。「石垣から独立するのが50年来の悲願だった」と、町役場が西表島に移設されることを嬉しそうに答えてくれた。行く前に読んだ池上永一の小説『統ばる島』(ポプラ社、2011年)では、最後の章に登場する「石垣島」が周辺の島々を統べる要であることが浮かび上がり、ばらばらに描かれていた神々の物語りが焦点を結ぶように感じたのだが、これはひょっとすると、石垣島中央集権的な視点であって、他の島々はつねにそれに反発して暮らしを立ててきたのかもしれない。長い人々の自給的な暮らしがまとまりを持ち始め、「統一」や「近代化」の過程で味わってきた「確執」がいろいろとあったのかもしれない。そうして私自身の視線が、いつのまにか中央集権的な視線に安定感を感じる感覚を持つようになっているのかもしれない、と思った。
 
 もう一つ不思議に思ったことがある。「日本最南端 大自然と文化の町 ぱいぬ島ストーリー」(竹富町観光情報誌)という表題のパンフレットが港にあった。それをみると、9つの島が竹富町に属すことを紹介して、それぞれの島の人口を記載している。人口2人の嘉弥真島から2346人の西表島まであるのだが、次に多い小浜島は655人、竹富島は364人、それ以外は二ケタの人口ばかりである。どうして「竹富町」という名称にしたのであろう。なぜ「西表町」にしなかったのであろう、とやはり売り子さんに尋ねた。彼女は、「う~ん、ムツカシイ問題ね。私も知らない。そう言われるまで考えたこともなかった」と応じた。
 
 「西表島の人口の4割は移住者」と、自らも北海道からの移住者であるバス運転手の言。でも圧倒的に、西表島の原生林は深く、大きい。標高400mを少し越える山地は海岸縁まで押し寄せて、人の住まう地域を限っている。北西端の舟浮地区などは、いまでも船でしかアクセスできない。切り拓かれている農地はわずか。二期作の水田になっているという。牧草地と思われるところも、湿地のように雨水が溜まり、クイナやムラサキサギがうろついていた。もっぱら漁業と観光業で食いつないでいるようである。といってもホテルなどの宿泊施設は少なく、大きなレストランなども日帰り客向けの応対をもっぱらにしていると見えた。
 
 観光客は、驚くほどたくさんやってきている。1時間ごとに到着する船便を運行する会社は2社、4航路ほどあり、石垣島や竹富島(その他の島)との行き来を担っているが、ウィークデイというのに百名ほどの乗船定員はいつも満席のよう。乗る船を間違うなと言われるほど頻繁で出入りし、混雑している。到着する船からは段ボールに入った荷物がたくさん積み下ろされ、入れ替わりに積み込まれる。野菜などの食品中心に見えた。乗船客のキャリアの大きいのをみると、長旅の客にみえる。中国語が飛び交う。
 
 西表島の初日は、南側の大原港から北側中央部の宿までの間のこれと言ったところにバスを止めてもらって、その周辺を歩くというものであった。田んぼを覗くと、コサギやアマサギ、ダイサギがいる。ムラサキサギがいるというので双眼鏡を覗くがなかなか見つけられない。近づいていくと、思わぬところからパッと飛び立ち、何だあんなところにいたのかと思う。シギやチドリもいる。だが、皆さんのお目当てはカンムリワシ。この地特有のワシタカ類。遠くのコンクリートの電柱のてっぺんに止まっている。と、脇の茂みの中からふわりと飛び立って、向こうの川筋へ消える。羽の下側に走る白い筋がきれいに見える。走行中のバスの運転手が車を止めて、何かを言っている。窓を開けて見上げると、すぐそばの電柱の上にカンムリワシが止まって背を向けている。頭の上に手編みの毛糸の帽子を乗せているように見える。ワシタカ類の鋭い顔つきはなく、剽げているような表情で、おかしい。後に何度も見かけるようになり、ほんの5メートルのところの木の枝にとまって、しばらく、お気に召すまま見せてあげるわというときもあった。のちに「カンムリワシはもういいでしょう」と言って通り過ぎるほどになったから、堪能したというか、見飽きるほど見たといえる。それでも、旅を終わってから(現役のときにはTV局のカメラマンであったという)Nさんが送ってくれた「カンムリワシ」の写真には、正面からのクローズアップの頭の後ろから飾りを付けた冠の羽が湧きたつようにとらえられていた。さすがというのと、名前の由来が腑に落ちる一葉であった。
 
 森の中につくられていた宿は「パイヌマヤ」、南の猫という意味の現地語だという。イリオモテヤマネコにあやかっているのであろう。夜行性だから、日中、人の前に出てくることはない、という。部屋から見える標高400mほどの山頂まで、びっしりと緑の木々に覆われた深い渓と森を抱えた稜線が、視界を覆うように先に伸びてつづいている。
 
 さらに奥に向かう散歩道があり、草付きの広場もあって、そこにやってくる鳥をゆっくりと観察できた。カンムリワシも木の枝にとまって、身を休めている。サンショウクイがいる。シロハラもいる。リュウキュウヒヨドリは(本土のモノより)色が黒っぽい。ハシブトガラスも体が小さく鳴き声も少し可愛い。オオコウモリがひらりひらりと森の上を飛んでいく。とみると、常緑のヤエヤマガキの木の実を食べているコウモリがいる。足で木の枝をつかみ、羽の先に着いたカギ爪を木の幹に掛けて、そろりそろりと這って移動する。まるでコスタリカでみたナマケモノと同じような動きを見せている。別の木の葉には、ジャコウアゲハの仲間が止まっている。上から観ると、アゲハの羽飾りの末端が白い飾りをつけているように見える。ところが羽をたたむと、その白い飾りが赤い飾りにみえる。チョウを専門とする人がいたのだが、「リュウキュウジャコウアゲハって名づけたいね」というほどのものだそうだ。ハイビスカスの花が赤や白の大きな花をつけている。それほど暖かいわけではないが、常夏の国という趣である。この夜、宿の周りでコノハズクが鳴いていたと聞いた。次の夜に聞き耳を立てていると、9時前から30分ほどの間、コホッ、コホッと小さく含むような声を立てているのがわかった。
 
 翌日、さらに北西部の奥地へバスをすすめ、浦内川のジャングルクルーズに乗る。全長17kmというが、水量が多く、川幅は2、300mもある。海に流れ出るところだから満潮になると水量が多くなることもあろう。だが、マングローブに包まれた川縁は幅広く、ずいぶん奥まで水が入り込んでいる。支流もあって、かつては伐りだした樹木を枕木につかったり、掘り出した鉱石を海までほこびだすのに利用されていたらしい。ということは、今は人も住まない上流部に、人家があり畑があり集落があったとガイドが解説する。マングローブにもいくつかの種類があり、幹の太いものもあれば、気根と呼ばれる細い根が幾本も幹から出て水に突き刺さるように生えて、幹を支えているのもある。赤い花がついている。植物を専門とする方であろう、落ちた花をつかん田私に、これは苞であって花びらではないと話してくれる。船のガイドが指さす先にはヤエヤマヒルギと呼ばれるマングローブの小さな木の葉が育っている。これで3年ものだという。マングローブも、育つのにはなかなか大変なご苦労をしているようだ。
 
 30分ほど奥の船着き場に着いてから、歩き始める。45分歩いて奥地にある滝へ行って往復してくるというモデルコースがある。私たちは鳥を観る人。平均年齢が(たぶん)70代の前半くらいであろう。この山歩きのようなコースは身に堪えるのではなかろうか。大半の方はすたすたと歩く。私は、いちばんの年寄りに着いて、ゆっくり上る。こんなところを歩くと分かっていれば、ストックを用意するんだったと言っている。そうだよね、それくらいの心得をしていかねばならないのが西表島だと、私は思う。30分の展望台まで50分ほどかかり、その先へ向かうのはやめて引き返した。でも、展望台からみたマリユドウの滝とカンビレーの滝とそれをとりかこむ奥深い山々の眺めは見事で、上っただけのことはあると自画自賛していた。鳥はわずかしか見かけなかったが、下山してきて、川縁の岩に乗ってみると、ポットホールと名づけられた甌穴がいくつもある。大きな岩の孔に入り込んだ小さな石が水流に転がり回っているうちに大きくなった穴がそちこちに開いている。今まさに水流の中で大きく出来上がりつつあるのもある。面白い。と、地質をもっぱらとする方であろう、これは砂岩だという。すると、傍らを通りかかった若い人が泥岩だと訂正する。その二人がやりとりをしていたが、やがて(スマホを開いて)結論が出たようだ。「砂質性泥岩」と後で話し合っていた。面白い。鳥を観る人たちの前歴が、昆虫や地質や植物や写真を専門としてきたことが、こういう旅の途上で活きてくる。この人たちの歩んできた径庭に思いを致すだけでも、「旅」は面白いと思う。(つづく)