mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

神意

2016-03-04 11:23:47 | 日記
 
 昨日、さいたま市の図書館が2週間ぶりに開いたので、借りている本を返しに行った。毎年この時期に、かわるがわる図書館を閉じて、本の整理をしているのであろう。長い閉館明けとあって、人の数も多い。ふと見ると、書棚に懐かしい名前がある。「山田宗睦」。『危険な思想家』という本を出してベストセラーになった。(光文社、1965年)に出版された本だ。当時は、「そもそも危険でない思想家なんか思想家じゃないよ」と揶揄する批評が多かったと思うが、面白かったという印象を持っていた。その彼が『わたしの日本誌』をいう本を書いている。全然ジャンルが違うじゃないか。面白そうと思って、とりあえず借りてきた。
 
 帰宅して、午後ブログを書いてアップしてから『わたしの日本誌』を開いて、ちょっとした驚きがあった。今書き終えたばかりのことについて、補足を必要とするようなことが書いてあったからだ。紀貫之の「賀の歌」を引用し、その「かざし」について《「かざし」というのは「挿頭」、髪飾りのことでしょう。》と軽く付け加えていた。ところが山田宗睦は第一章の「花の文化史」で、次のように書きつけている。
 
 《……神のよりくる植物を身につけることのひとつを〈挿頭す〉とよび、その植物を〈挿頭草〉といった。カザシ草のことはすでに万葉集にでてくるが、その代表的なものがフタバアオイで、このためカザシグサはフタバアオイの異名にもなった。》
 
 私が「補足を必要」と思ったのは、「神のよりくる植物」という点である。私はすっかりそれを関知せず「髪飾り」と考えている。大野晋の『古典基礎語辞典』の《かざす/挿頭す》をみると、
 
 《本来は植物を冠にさして、その生命力を人に移して、健康や幸福、繁栄を祈願する呪術的行為として行われたが、のちには単に装飾の目的でなされるようになった》
 
 とある。つまり私は、「単に装飾の目的でなされるようになった」のちの世代であることを、もろにさらしている。引用したのは紀貫之の歌。彼は9世紀から10世紀にかけて活躍した方であるから、少なく見積もっても1000年以上前のこと。しかも歌は「君が千年のかざしとぞみる」のだから、「神のよりくる」カザシグサでなければなるまい。まず私のセンスから、神々との交歓のあわいを感じとることがすっぽりと抜け落ちている。自分でいうのもなんだが、私はどちらかというと呪術的、アニミスティックな感覚にわりと親和的と思ってきた。にもかかわらず、ふとした弾みに露呈する感覚の中のそれはずいぶん希薄になっている。無知というより、そういうことを感じとる感覚の欠落がイタイ。
 
 *    *    *
 
 もうひとつ私の感じ入ったのは、なによりも、1000年も前の方がつくった歌を、ほとんど現代語と同じ感覚で読んでいたことだ。するすると分かってしまうことが、「読むこと」の背景に揺蕩っている、神々との交歓/呪術的センスの衰退(という時代変遷からくる違い)に、気づかせないのかもしれない。
 
 英語学の達者に昔聞いた話であるが、古語としての英語は、ほとんど現代人には読めない、という。思えば、今使われている共通ドイツ語にしてもルターによってドイツ語訳が行われた「ルター聖書」によってはじめて誕生した、と言われる。16世紀の半ば、約500年前。それ以前は、ごく少数の人たちによって用いられてきたラテン語が共通語であったから、一般の人はまったくわからなかったといわれる。
 
 この点でも、日本語の、体感的な時間的蓄積の恩恵に、私たちは浴している。わりと簡単に「わかる」ゆえに、逆に時代的な変遷によって昇華されたり変容したりしてきたことに、鈍感なのかもしれない。(余計なことだが、それゆえに、たとえばドイツ人はわりと達者に何カ国語かをこなすのに対して、日本人が外国語に上達しない大きな原因をつくっているのかもしれない。)
 ともあれ、そうしたことを思う。
 
 *    *    *
 
 だが、それ以上に私が感嘆しているのは、図書館で山田宗睦の、この本を手に取ったこと。何か「神意」が働いているのではないかと思わずにはいられない。人は自分に関心のあることしか受け容れようとしない、逆に興味関心が赴けば、自ずから対象が目に飛び込んでくるとよく言われ、私もそうだと思ってきた。だが今回のこれは、ちょっと違う。まさに天の引き合わせと思える。まあ、それほどの(たいした)出逢いではないといえば言えるが、やはり私は、幸運の神に付き添われているのかもしれない。
 
 黙然(もだ)居(を)りて賢(さか)しらするは酒(さけ)飲(の)みて酔泣(ゑひな)きするになほ如(しか)ずけり
 
 昨日最後に引用した万葉集の歌も、1300年以上も前のもの。〈独りつまらぬことを考えているより(誰かと一緒に)酒に酔ってる方がまし〉と読み取っているが、それとはまったく異なった意味合いが込められていたかもしれない。ちなみに、私の痛風も痛み止めの薬を飲みはじめてちょうど一週間、今日から尿酸値を下げる薬を飲みはじめる。むろん、お酒も今日から飲めるわけではありますが……、さて。