mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「もうあるべきでないものが確固としてある」

2016-03-17 08:47:35 | 日記
 
 昨日のこの欄で《(探鳥は)「ふるさと」の感触を残しているところを観て回る。……「ふるさと発見」というところだ。遠くに出かけてみるというのも、遠くにありて思うそれと似ている。》と書いた。今日(3/17)朝日新聞の「折々のことば」で鷲田清一が、宮地尚子のことばをとりあげている。
 
 《失うのは一回きりだとしても、人は何かを失ったとき、それを失い続けるともいえる》
 
 そして、こう続ける。
 
 《大事な人を失った人はその喪失感をいつまでも反復せざるをえない。食卓での些細な会話、もう洗うこともない泥だらけのユニホーム、しがみついてくる小さな手。予感に身体が動いてしまうが応えはない。「あるべきものがそこにない」とうより「もうあるべきでないものが、そこには確固としてある」と表現したほうが正確だと、精神科医は言う。「ははがうまれる」から。》
 
 私が「ふるさと発見」と書いたことは、この鷲田のいう感触に似ている。私にとって探鳥ということは、じつは幼いころに身体が体感したことを「探し求めて」意識的に「発見」しているのかもしれない。とすると、日ごろの暮らしの中で見失ってきたこと、「ふるさと」がそこにないことが、確固としてあることを自己確認しているのだ。旅をして、新奇なモノを求めるというのは、ひょっとすると10万年近くになる現生人類の歩みの中で「体感」した「あるべきでないこと」が「確固としてある」ことをしっかり認識しようとする振る舞いとも言える。
 
 思えば、9月に「長良川の鵜飼い」を見に行こうと古い友人のOくんがプランニングしてくれたのも、鵜匠が(宮内庁職員として)長く伝承されてきたことによって辛うじて「もうあるべきでないものが確固としてある」ことをみることができる。それはじつは、私たちの日常にはもはや「ないこと」としてあることを現認する旅になるといえる。
 
 こうも言えようか。幸いにも(いつかも書いたが)、私たちは平安時代に謳われた歌を今のことばで聞いているように読むことができる(五母音の和語が今に一貫している)。これも、海に囲まれて孤立し、それゆえに(共同せざるを得ないこととして、共に時間と空間という)文化を共有することができたからこそ、失われないできたことである。そうして間違いなく、今の感覚と千年前の紀貫之の感覚との差異やズレこそ、「もうあるべきでないものが確固としてある」こととに目を留めて見つめる必要がある、と。
 
 目に見えるものに目を奪われるというと、同義反復の笑い話のようになってしまうが、私たちの日常は、見えないものをみていない。次々と目に見えるものが通り過ぎていくことによって、表層をなぞるように視界が流れ過ぎて、それが意識をかたちづくっていく。じつはその深層で揺蕩っていることや「あるべきでなくなっていること」を、心に留めることなく「失っていく」。そうすることによって、「あるべきでなくなること」は、二重に抹消されるのである。
 
 そりゃあ、生者の世界ではなく、死者の世界だよと言われるかもしれない。だが「かんけい」としてみれば、死者も生者と同じに今の世界に堆積している。つまり(死者からも受け継いでいる)「かんけい」をしっかりとみて生きていきなさいよと、告げているのである。