mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ドイツが世界を破滅させるワケ

2015-08-11 20:11:42 | 日記

 エマニュエル・トッド『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる――日本人への警告』(文春新書、2015年)を読む。面白い。トッドの断定的偏見が、読む側の殻にぶつかり、そうかこんな見方が切れ味の鋭さを持つのかと、視線の行方に引き込まれる。

 

 何しろアップ・ツー・デートな問題を扱っている。ウクライナにおけるヨーロッパとロシアの対立はドイツの仕掛けたもの、ロシアは戦争に持ち込む意図は持ち合わせていない、ウクライナ自体国家が機能していなかった、という調子。さらに日本とロシアは良好な関係の入口にあったのに、ヨーロッパに肩入れしたせいで駄目にしてしまっていると、「日本版」へのコメントも含めている。

 

 面白いのは、「経済第一主義的」にものを言っていない。むしろ、それぞれの国民の肌身に染みついた文化の違いを明快に意識して、政策的な提起のもたらすものを見極めようとしている。たとえば少数者の異議申し立てに対して、ドイツは論破することを主眼とするが、フランスは、彼らの言い分にも何かワケがあるに違いないと考える、と。この指摘は面白い。ギリシャのデフォルト問題に関しても、ドイツは(ギリシャの)しばらくユーロからの離脱を提案したが、フランスは緩やかな財政削減策を進めるための資金融資を提案した。私などは「ヨーロッパ」とひとくくりにするが、フランス人であるトッドの視線は濃やかに「社会」をみていると思える。すると、「格差」が見える。国と国との格差もさることながら、1%と99%の格差、0.1%と1%の格差を見て取りながら、「ユーロ」のもたらす社会関係が、もののみごとにドイツに利用/収奪される関係に転じていること、それに対して唯一軌道修正する力を持つフランスは、自ら追随する道を選んでいると、手厳しい。簡略に言えば、ドイツも「ユーロ」も0.1%の「階級支配」に圧倒されていることを見て取れと、政策的視線の転換を促す。

 

 あるいは、プーチンの率いるロシアが、ソビエトシステムの崩壊後の混沌の中から目下再生中であり、ヨーロッパの多くの国々と比べても良好な状況にある、とみる。それを経済的指標ではなく、「ねつ造できない」人口学的指標を取り出して指摘する。今よりも良くなると希望をもっているロシアの人々に対して、ヨーロッパの人々は不安を抱いている、と。にもかかわらず、プーチンのロシアと「戦争」の瀬戸際にまで至っているのは、古い時代からのソビエトに対する「偏見」にとらわれ過ぎて、ドイツの(ユーロを裏切る)政策的志向性を見損なっていると指摘する。フランスに対しては、過去のドイツとの対立のトラウマが直截なやりとりを阻害していると直言する。私は、中国や韓国とのやりとりのことを重ねて考えている。そうだよな、そういうことってあるよな。

 

 ひとつ重要だと思ったのは、ドイツの「裏切り」について。「ユーロ」という共同性に加わるということは共通通貨を持つという経済的なメリットだけでなく、「ユーロ」に加わる加盟国の「経世済民」を共にするということを意味すると、トッドは考えている。ところがドイツは、広大な自由市場としてのユーロ圏を確保しながら、安い労働力を調達するためにはウクライナや中国に部品調達の工場を移転している、という。つまり、「ユーロ」のいいとこどりをしている、とドイツを非難しているのだ。それに対してフランスは、(サルコジのように)グローバリズムを掲げたために、ドイツに追随する道筋しか見いだせないで来ている、ということ。「裏切り」というと、いかにも作為的な行為に思えるが、そうではない。ドイツはただ経済第一主義的な論理に基づく、ドイツ的なエートスに従っているだけなのだが、それが実は、「ユーロ」の共同性を「裏切る」行為になっているというのである。経済指標による「景気浮揚」が、とどのつまり社会的関係の崩壊をもたらしているというのは、何だか日本の現状況を指摘しているようにみえる。

 

 つまり、資本主義的な経済第一主義の論理は共同性をもっと広い場に求めるがゆえに、個別の具体的な共同性を破壊してしまう。聞くとトッドは、「ユーロ」は瓦解すると予言したことで名声を得たらしい。つまり彼は、「ユーロ」の共同性の根底を見て取っていたと言える。彼のこの本を通じて謂わんとするところを読み切ってしまうと、国際関係にせよ(複数の、単数の)国家社会の戦略にせよ、政治経済を考えるのであれば、何を基点にして国家社会/国際社会を構想しているのかを、明確にしなければならない。そうすることによって、「共同性」を忘失して政策的に暴走してしまうことを抑制することができる。単なる経済の論理は窮極のところ、富裕なる人々の懐をさらに富裕にすることに作用する。それ以外のところでは、社会的関係の徹底的な破壊に資するばかりになる、とみているようである。私たちは、政府の「裏切り」に対してどうすればいいのであろうか。

 

 もうひとつ。先ほどのフランスの、少数者の異議申し立てには何かワケがあるに違いないと受け止めるセンスは、じつは、エリート主義に付随する感性である。2007年にサルコジの年金制度改革に反対するフランスの労働者や高校生など、若い人たちの「反乱」があった。このとき、私の友人が話したところでは、「フランスではこうした反対運動があると、政策そのものを見直そうとする動きが(政府内に)生まれる」ということであった。どうしてそうなの? と私は疑問をもったが、「でも、そうなんだそうだ」という意見に頷くほかなかった。その時の疑問が、ひょんなところから、解きほぐされるように感じた。つまり、エリート主義の貫徹するフランスでは、大衆の「意思表示」を受け止めるエリートのセンスが育っているのだ。

 

 日本でこれを受け止めてくれる装置と言えば、「官僚装置」しかない。官僚制度が明治以来の伝統的エリート意識を保持していれば、(たぶん)いくぶんかでも庶民の「反乱」に対応する動きを示してくれるであろう。それとも日本のエリートもやはり、ドイツなみに、抑え込んで我が論理の正当性を主張するのであろうか。どうも、後者だな。あるいは、明治から現在に至る過程のどこかで、前者から後者に移り変わることがあったのかもしれない。そうして、我が身の正しさを主張する官僚制度が、エリート性を失ってしまったら、いったい誰が庶民の「反乱」を受け止めてくれるのかね。そんなことを考えさせられて慨嘆した1日でした。