mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

よっこらしょ、っと。

2015-08-20 20:39:25 | 日記

 昨日、26日の苗場山の準備と手配を片付ける。仙骨の痛みのせいで、今回私は、苗場山に登れない。友人のKさんに頼む。こういう時に限って、参加者が9名と北岳よりも多い。何度か上ったことのあるKさんは下見に行こうかと構えているが、その必要はあるまい。それよりも、台風がちょうどやってくるのではないか。そちらの方が心配で、タクシー会社にまだ、電話できないでいる。

 

 今日は30度を超える気温ではないが、蒸し暑い。「車の外気温」も26度と標示が出て、冷房の温度よりも高い。冷房を切って窓を開けて走る。図書館へ寄り、本を返し到着している予約本を借りだし、足を延ばして生協へ寄って買い物をしてくる。ぱらぱらと雨が降る。

 

 明後日からの「合宿」に向けた「資料」をつくる。といっても、この何か月間かに溜めおいたものから選別し、参加者数分だけコピーを作る作業。コピーの安いご近所のスーパーに行って、A4版用紙40枚分くらいになったが、果たしてこれだけの「資料」を読み込んでやりとりがどこまでできるか、気になる。これでも、数十枚分をつかわなかった。

 

 宮部みゆきの『天狗風――霊験お初捕り物控(二)』(講談社文庫、2001年)を読み終わる。「霊験お初」の物語りはいつか読んだなあと思っていたので、検索をかけたら、昨年の11月21日の当ブログに『震える岩――霊験お初捕り物控』(講談社、1997年)を読んだことが記してあった。「検索」っていいなあ、記憶から消えていても瞬時に呼び出してくれる。いつだったかの新聞に「教養が廃れる」ことを「(共有していた文化的な出来事を)記憶しなくなったから」と書いてあったが、パソコンやスマホでこうやって「検索」したりして呼び出すようになると、記憶する必要がなくなる。もちろんその分、かつて尊重されていた「人間能力」が衰えることになる。これは、車社会になると歩く能力が衰えるのと同じではないか。となると、それを「教養が廃れる」と嘆くのは、お門違いということにはならないか。あるいは、そうしたメディアが発達したために「教養」とか「感性」とか「思考」の方が変化するのは当然と考えると、「教養」という文化の方が転換期を迎えていると言ったほうがよい。「知性主義」も「反知性主義」も、そういう次元で、もう一度見直す必要があるのではないか。そんなことを考えた。

 

 宮部の作品そのものは、相変わらず理不尽と合理性の狭間におさまらない魂のありようを拾っていて、彼女なりの水準を保ってはいるが、少しエネルギーが落ちているように思った。活劇ものの映画を観るよりは気晴らしになった。

 

 さて、明日からオーストラリア向けの準備を始めなければならない。ぼちぼちと必要なものを取り出して、用意部屋に並べはじめる。行く気分がどこまで高められるか。海外はメキシコ以来。1年半のブランクだから、動き始めるのに力がいる。よっこらしょ、っと。