mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

リハビリの山歩き

2015-08-13 07:27:06 | 日記

 朝9時に宿を出る。今日は湯元から切込湖・刈込湖を経て光徳へ向かうハイキングコースをカミサンが孫二人連れてガイドする。私は仙骨のリハビリをかねて、ストックをもって小峠まででも行ってみようと考えている。近頃の病院では、手術をしてもすぐその翌日からリハビリがはじまるという。人間の身体というのは、休ませると動かない方向に固定されて、回復するのに時間がかかるという見立てである。仙骨にピリピリ響くからといって休養していては、山を歩けなくなってしまう。一歩ごとの身体の動きが微妙に仙骨にまで響くのが、わかる。下りは響きが少ない。上りはジジジと伝わってくる。

 

 金精道路までは私が先行する。20分。その先をカミサンに任せ、私は孫たちの後ろに着く。3人は調子よくさかさかと先へすすむ。仙骨は急ぐなと私に語り掛ける。息が切れるわけではないから、いつもの山行の後続者の気分がわかるわけではないが、なるほど(これに着いて行かなければならないとなると)後れを取ることへの申し訳ない感は浮かび上がってくる。今日もまるごとの緑にひたっている気分の良さは感じられる。繁茂している緑が視界を遮る。後ろをふりかえって「ほらっ、蓼の湖がみえる」といつもなら言うところでも、生い茂った草木の葉が邪魔をして湖面は見えない。

 

 小峠への登り口のところで、下山してくる3人に出逢った。軽装。トレイルランナーである。時計をみるとほぼ10時。光徳を8時に出てここまで2時間なら、まずまずゆっくりした運びではないか。カミサンが尋ねると「蓼の湖から」と応えている。そんなはずはない。蓼の湖からくるとなると、ささやぶをかき分けて登ってくるところが、ちょうど出会った場所辺りで、私たちのやって来たトラバース道と出逢うのだ。カミサンは「……?」と思っている。私は「切込湖の間違いでしょ」と考えている。

 

 10時に小峠着。約1時間。一人後続者が追い抜いて行った。孫たちは元気そのもの。あとをカミサンに任せて、ここで私は分かれて引き返す。帰りかけてからは、出逢う人が多かった。中にはすれ違いざまに「山王峠から?」と尋ねる人もいた。説明するのが面倒なので、「はい」と応じる。応じて考えてみると、光徳を7時に出ていれば、ふつうのペースでここに至る。となると、別に速いわけでもないから、まあいいかと、埒もないことを思っている。結局湯元にたどり着くまでに出逢った登山者は、30人を越えた。やっぱり夏休みなのだ。しかもこのコースは手軽。刈込湖まで行って帰ってきても、3時間半か4時間、光徳へ抜けても4時間から5時間。

 

 宿に帰って部屋に入る前にロビーにあった産経新聞を読む。2ページ目の下側に百田尚樹の近刊エッセイの広告が出ている。何という書名か覚えていないが、「図書館は近刊書を入れるな」とか「ブログに日誌を書き記すのは無意味だ」という趣旨の、(たぶん)本書収録の小見出しが踊っているのが目に着いた。上の二つは私にもかかわることだから飛び込んできたのである。この作家は、いろいろなものごとに関する「自分の感懐」を表明することに夢中である。むろん出版社や講演依頼者がそれを求めるのだから、当然と言えば当然なのだが、その求めに応じて踊っている自分を見つめる視線がどこにも感じられない。

 

 「図書館は近刊書を入れるな」というのは、作家の営業活動を阻害しているという主張であろう。著作権が金になるという世相がベースにあるのだろうが、読書人を増やすという意味で、そういう世相を培うのに図書館が(何十年と掛けて)一役買っていることをどう考えているのだろうか。本の紹介もそうだし、広告もそうなのだが、メディアが欲望を開発し増幅し一般化していることが、消費活動を大きく底上げしている。その上澄みに浮かんでいるのが百田のよく売れている作品なのだろう。そうか、百田は自分の作品を消費という観点からしか見ていないのか(ひょっとして)。

 

 「ブログに日誌を書き記すのは無意味だ」というのは、書くという行為の社会的有意性を考えているのであろうか。無意味なことばは日常生活の特権みたいなもの。おしゃべりにせよ、日誌にせよ、世の中の日常は「無意味」に満ち溢れている。無意味な言葉を発することそのものが発信者にとって意味を持っている(かもしれない)のであって、意味を汲みとるのは汲みとる側の人が行えばよいこと。そもそも発信した時点で、発信者にとっての意味はすでに終了している場合だってある。相手に何かを伝えるために発信するのであっても、発信する側は我が意の通りに汲みとられるかどうかも含めて、受信者に任せられてしまうのは、当たり前である。ブログがすでに井戸端のお喋りと同じ手段であることを考えると、それに社会的意味を求めて云々するのは、笑止というほかない。

 

 ケイタイにc-mailが入る。「いま涸れ沼でお昼をはじめる」と、カミサンからの現況報告。11時44分。順調ではないか。二人の孫も元気に歩いているようだ。あとは1時間半で光徳に到着する。返信を送るが、すでに「受け取れない」というので、「どこかへ預ける」。部屋でお昼を済ませ、車で光徳へ向かう。光徳牧場から20分くらい登山道を登る。ミズナラの森が広がり、明るくやわらかい緑のオーラが沁み込んでくるようだ。ほどなく上の方から声が聞こえる。絶え間なくおしゃべりしながら疲れた気配を感じさせない。3人が足元を見ながら歩一歩と降りてくる。先頭を歩いていた妹孫が私をみつけ「ほらっ、前を向いて」とほかの2人に声をかける。「おや、お出迎え?」とカミサンも声をあげる。ちょうどメールから1時間半。「部屋でビールでも飲んでた?」と兄孫。まさか、車で迎えに来るのに、と私。

 

 光徳牧場で「アイスクリーム」を食べ、牧場の牛を見て、車で帰る途次に湯滝を見に行き、宿へと帰着した。達成感はいうまでもないが、それほど疲れているとは思えない。