mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

『八月の六日間』――洗練されたセンスの自画像

2015-08-21 21:22:04 | 日記

 去年の9月7日のブログに、次のように書いたことがあります。

 

 今朝(9/7)の朝日新聞「読書」欄に、「自分を取り戻す登山の魅力」と見出しを付けて、北村薫著『八月の六日間』(KADOKAWA、2014年)という本の書評が出ていました。評者は佐々木俊尚というジャーナリストです。そこにこう書かれています。
 《他の登山者と出逢って言葉をかわし、そして別れていく。歩きつづけてようやく山小屋に着いた主人公はこう書く。「夕食の支度がすすむ家に帰ってきた、子どものときのようだ」。まるで人生の縮図をなぞっているようなこういう感覚は、登山を好きな人ならだれにでも理解できるだろう。》

 

 じつは私は、この本を読んだことはありませんでした。(たぶん)これを書いたことがきっかけで、図書館にこの本を「予約」したのだと思います。それがやっと届きました。11か月ぶりですね。(たぶん)それほどに評判の本なのだろうと思います。読み終わりました。するすると読める、よくできた本です。

 

 山歩きということで言えば、山を歩き始めた「初心者」の初々しい心持が随所に表現されています。末尾につけられた「註」を読むと、けっして初心者のすぐに取りかかれるコースではなく、3年ほどの準備が必要であったと、小説としては異例のコメントをつけています。でも、山を歩くということに関しては、この著者・北村薫が感じ続けている気持ちが見事に込められていて、あたかも自画像を描くように心に浮かびくる思いを拾いながら、山を歩いていることがわかり、私自身の実感と重なります。

 

 山を山として取り出して、山歩きの「記録」を綴ってきた私にとっては、フィクションとして表現するということは思いも及ばなかったのですが、こうして「作品」になってみると、なるほど(私の実感と)かなり近い線を誰もが感じているのだと、外部化してみることができます。もっと子細に描きこんでいくと、人生としての山歩きが語れるかもしれません。ですが、それを語るために山を歩いているわけではないし、といって、ただ歩きたいから歩いているだけではありません。歩きながら、外部を描きとることで私の内部の輪郭を描きとめようとしていると言いましょうか、自己確認の作業だと言えるように思います。つまり、私の人生そのものなのですね。

 

 それにしても、この小説の主人公の山歩きは、軽快であり、贅沢です。もちろんその贅沢は、この主人公の、洗練された文化的センスによるものなのですが、そうかこういう世界を山歩きの中にもっている人もいるんだと、あらためて感じ入った。近頃山で出会う若い人たちや中年の(山ガールとよばれる)方々は、ひょっとしたらこの世界を、すでに文化として持っているのかもしれません。豊かな時代になったものだと、敬服するとともに、その裾野が緩やかにでも浸透して行ってもらいたいものだと、思いましたね。