mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

跳躍していた想念が瞑想になる

2015-08-27 20:20:17 | 日記

 先日もとりあげた『八月の六日間』では、登場する主人公が山を歩きながら胸中にもたらされる仕事のこと、同僚との関係のこと、自分の伴侶のようにかかわっていた男のことなどを、内省的にとりあげている場面が、旋律をつくるように描かれている。そう言えば『草枕』にも「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角かどが立つ。情に棹さおさせば流される。意地を通とおせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」とあった。とかく山を登っているときというのは、いろいろな想念が経めぐるものだ。

 

 不思議なことに、私もそうだが(山に限らず)歩くという行為はなぜか内省的な視線を起ち上げる。この感触は何だろうか。歩くという身体性の持つワケがあるのであろうと考えている。若いころは、日ごろの憤懣が噴き出るように頭の中を経めぐり、同じことが繰り返し、ぐるぐると想い起こる。そしてある時、ふと、そういう自分に嫌気がさし、考えるのを止めようと思うが、なかなかやめることができない。そうして下山してみると、胸中を経めぐっていたことの(自己中心的な)つまらなさが、はっきりと見て取れる。つまり断続的に自己の内部に向かう視線は、当初は、必ずしも自省的というわけではなく、端から自己中心的なのだ。それが歩く行為の積み重ねに伴って、内省に向かうように思う。歩くという行為そのものが、「外部」と向き合うことになる。それが山路を歩くような困難をともなえば伴うほど、その困難の根源である自己の身体性と向き合うことである。自己中心的であるのなら、「なんでこんなところに来たのだ」と自分に腹を立てることになる。そういう時間が持続すると、いやでも応でも自分と向き合うしかない。

 

 もちろん単独行のときがいい。他の同行者がいると、そちらとの関係が気を紛らわせてしまうから、思索の方向が自分に向かわない。もっともすぐに内省的に視線が向かうわけではない。「外部」に比して「自己」がいかにもちっぽけだと感じるところに至って初めて、自己を対象としてみる「超越的視線」を自分の思考の中に組み込むことができるようになる。

 

 そのようにして、道中の想念の様子を振り返ってみると、いつしか、自省的な視線が組み込まれている。それはしかし体系的ということではない。さまざまなプロットがポツ、ポツと浮かんでは消え、浮かんでは消えして、何か大切なことを考えていたという印象は残るが、何を考えていたのか分からなかったり、忘れてしまうようになる。こだわらないと言おうか。ぴょんぴょんと思考が跳ね回っている。川喜田二郎ならば、歩きながらカードに何かを書き記したかもしれないが、こちとらそんな余裕はない。何より歩くために歩いているわけであるから、カードなど持ち歩かないし、立ち止まって書き記そうとするようなことは酔狂もいいところである。

 

 いつのころか、ほとんど無念無想といってもいい状態になって歩いている自分に気づいた。眠っているわけではない。足元の岩場や木の根をしっかりとみて踏みしめながら、しかしその余のことは何も考えていないような状態に陥る。気がつくと2時間経っているということが、そのうちときどき起るようになった。ある時は、単独行ではなく、若い人を連れていたのに彼のことを忘れ、坦々と歩いていて、「そろそろ休みませんか」と言われてハッと気づいたとき、すでに2時間が経っていた。私はそれをクライミング・ハイと名づけて「山歩きの瞑想」として大切にした。そのころには、自省もなければ、雑念の妄想に悩まされることもなくなった。ただただ山歩きに集中している自分が好ましく思われたのである。

 

 ピークハンターとでもいうような若いころの山歩きと違って、リタイアしてからの山歩きは、逍遥という風情になった。目的の地は持つが、何時にどこに着くかを大雑把に想定するだけで、コースタイムに縛られたりもしなくなった。気分が良ければ、山頂で寝転がって時間を過ごすし、調子が悪くてくたびれてしまえば、途中で引き返しもする。山にいること自体が、つまり山歩きの瞑想が愉しみで、山に来ているようになった。そろそろ仙人の境地に達するのかなと思う。