mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

世界と我が身(1)――ハイデッガーの後援を得た

2015-08-24 16:14:10 | 日記

 昨日から「合宿」。3本のテキストを読み、やり取りをしてきました。

 

 (1) 福岡伸一『動的平衡ダイアローグ――世界観のパラダイムシフト』
 (2) ミチオ・カク『フューチャー・オブ・マインド――心の未来を科学する』
 (3)  森田真生『数学する身体』


 
 この3本に共通のテーマを発見していたわけではありません。もし共通することがあるとしたら、著者がいずれも自然科学者ということ。そして、いずれも人文社会的な視線を組み込んで、論を展開しているということ。そこに、私たち、読む者の視線を補助線的媒介にするとどうなるか、それが今回の関心でした。うまく当たったと、「資料」を選定した私は思っています。

 

 3本をつなぐ糸は、(3)の森田真生が提示したハイデッガーの言葉によって結ばれました。mathematics(数学)ということばが ta mathemata というギリシャ語「学ばれるもの」に由来するとしたうえで、ハイデッガーが「学ぶ」というのはどういうことかをもう一歩掘り下げて考察していると、以下のように援用しています。

 

 《ハイデッガーは「初めから自分の手元にあるものをつかみ取ること」あるいは「初めから自分がもっているものを獲得すること」こそが「学び」の本質なのではないかと論じる。普通、何かを「摑む」というときには、手元にないものをつかむし、何かを「獲得する」というときには、自分の持っていないものを「獲得する」ときには、自分思っていないものを獲得するわけだが、手元にあるものを摑むこと、自分の持っているものを改めて獲得すること。それこそが学びだ、というのである。同様に教えることもまた、単に何かを提供するということではない。普通、何かを提供するというときには、相手がもっていないものを提供するが、そうではなく、相手がはじめから持っているものを、自分自身でつかみ取るように導いていくことこそが、教えることの本質である。荘ハイデッガーは論じるのだ。》

 

 森田はこの展開によって、「(数を数えるという)数学するという(経験則的)行為」が、「アラビア数字」を媒介にすることによって計算(思考)過程のアルゴリズム(手順)そのものをみることができるようになり、それはとりもなおさず「自分たちの認知能力の過程を研究されるべき対象とした」。つまり、思考が思考自身について思考する「自己言及性」によって、「普遍性」を獲得するに至ったとみています。ハイデッガーのいう「学び」は、「経験則的」イメージや実感の延長ではなく、跳躍であり飛翔であると述べようとしているようです。「述べようとしているようである」というのは、直ちにそこには向かわないからです。「数学する行為」が自らの能力の延長として用いる「道具としての数字とその技術」(数学)は、その過程の一つひとつにおいて「内面化されていく過程の経験」をイメージ化しているとみる。つまり、個別性(経験則)が普遍性に高められていく過程の「把持可能」性を忘れるなと念を押している。本居宣長を援用して「考える」とは「(か)むかう」こと「身が交う」こととして、「数学する行為」が堆積する「イメージ」が「数学する風景」を育んでいるとみなすわけです。

 

 こうして「数学」が「物理学」から飛翔することにも言及するが、そちらに飛翔することを本命としていません。建築家・荒川修作を介在させて、あくまでも「行為/身体性」を手放さずに普遍へ至る道筋がほの見えていると直感を述べている。《「私」とは何かということをろくに知りもせず、「私の死」ということに怯えている》として《あらゆる所与に抗おうとする荒川修作の「天命反転」の壮大な企て》へ視線を送る。森田はこうして「身体性」を手放さずに「数学(する行為)」を再構成しようと意図しています。これは、「普遍と特殊」「普遍と経験」というこれまでの観念を、全面的に転覆させようとする試みのように思え、たいへん面白いと感じているところです。

 

 このハイデッガーの「学ぶ」ことについての記述は、常日頃教師をしながら私が考えていたことと重なっているように思っています。今でもそうですが、(こうしてブログを書いている理由は)自画像を描き出すことだと感じています。それは同時に、私の外部の「世界」を描き出すことでもあると、繰り返してきました。我が身を実体化せず、内と外とをその交通の瞬間においてとらえる、そういう気分がずうっと底流しています。(つづく)