mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

心の移り変わりを形にする

2015-08-01 06:30:32 | 日記

 8月になった。北岳の疲れも取れ、「祈念誌」の「最終校正」のプリントアウト版も届いて、明日までに終わらせて送らなければならない。「最終一つ手前校正」の部分が直されているかどうかだけをチェックすると、何カ所か直されていない。デザイナーと別にJPNの編集者が手を入れているのを見ると、なるほどこんなところにも目を留めて一貫性を貫くのだと思わせるところがある。やはりプロはすごい、と思う。身を引き締めて、もう一度丁寧に目を通すことにする。

 

 長兄の描いた水彩画の「瀬戸大橋」が2枚あることがわかった。最終一つ手前のプリントアウト版「写真帖」の水彩画は、瀬戸大橋の構造が見てとれるような描き方をしている。下津井漁港の建物も一つひとつが分節されて描きこまれている。海の波立ちも細かい。それに対して、今回の最終版プリントアウト版の写真帖水彩画は、見ている人の心もちが描きこまれているように、印象派的だ。対岸の四国の山並みが、前者は坂出近辺の四国富士と言われる独特の単独峰があるだけなのだが、後者は、さらにその後ろに四国山脈の高い山なみが遠望できる。描いた長兄の想いに気持ちを向けると、自分が生まれ12年を過ごしたた古里の四国・香川県を、その後6年と帰省先としてきた岡山の対岸から眺めて、遥けくも来つるものかはと、ふりかえって見ている感懐が見てとれる。デザイナーは、後者の方の水彩画を、原画から直接スキャンしてとりいれているから、解像度もよいし、雰囲気も良いとみて、こちらを採用したいという。その通りだが、私は、前者を描いたのちに、もう一度後者を描いてみようとした長兄の心の移り変わりに、目を留めたいと思った。だから、本誌「祈念誌」の表紙に後者を、「写真帖」の表紙に前者を採用できないかと、デザイナーに持ちかけている。さて、どうなるか。

 

 北岳へ行ってくる間に、宮部みゆき『R.P.G.』(集英社文庫、2001年)を読んだ。文庫のための書下ろしという。最後のアッと驚くような仕掛けがあった、それがタイトルになっているんだと分かって、面白い。それにもまして、一人ひとりの人間を描く宮部の視線が、人間観や社会観の奥行きを湛えていて、大きな仕掛けを忘れてしまいそうになる、というか、大きな仕掛けなんかどうでもいいと思わせる。そこが、彼女の作品の魅力なのだ。明後日からの北海道にも、手軽だから、宮部の別の文庫作品を持参する。山中で停滞でもしたら、退屈しないで過ごすことができる。

 

 さて今日もきっと暑い。「校正」に疲れたら、大宮まで行って明後日からの山行の準備をしなければならないと思っている。疲れたらというのは、校正をしていると「目が疲れる」と感じる。しょぼしょぼして、だんだん見えなくなってくるのである。歳のせいなのか、仕事のせいなのかわからないが、むかしはもう少ししょぼしょぼとなるまでに時間がかかったと思う。今は2時間もみていると、ほんとうに見えなくなってしまう。これじゃ寿命より早く眼が使えなくなってしまうのかなと、ほとんど盲いになって最後の10年ほどを過ごした母のことを思い出して、沈みそうになる。どうこう言っても、目の感覚を優先して世界をかたちづくってきたのだなあと、我が身の偏りを感じている。

 

 さて、こんな文章を書いているのも、目が疲れる一つになる。これよりは、最後の校正に取りかからなければ。