mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

世界と我が身(2)――星の子どもたちの奇跡

2015-08-25 08:11:11 | 日記

 ハイデッガーの後援を得たのは、「学ぶ」ことに関するダイナミズムである。

 

《「初めから自分の手元にあるものをつかみ取ること」あるいは「初めから自分がもっているものを獲得すること」こそが「学び」の本質なのではないか》

 

 とハイデッガーは論じている(と森田真生は紹介する)。つまり、個別性と言われる「経験則」がベースにあって「学ぶ」という普遍性への道が開かれる。学ぶ人が知らない何かを与えられるのではない。そうみることによって、「経験則」という身体性と「普遍性」という世界性との接点が見えてくる。学ぶということは自己の輪郭を描き出すことだと言える。誰がものごとを認識しているかを決して失念していない。

 

 それは繋がってはいるが、順接しているとは限らない。(思考している人の)視点を考えると、むしろ、学ぶ人の内面と逆立する「世界」へ旅立つともいえる。その旅立ちには「飛翔」ともいえる跳躍がある。それは確固不動の自我を前提にしたら、じつは成り立たないと私たちは論じてきた。(自分の)外部の感触がじつは自分の内部の輪郭であったという覚醒が「わかる」という実感なのだが、そこには大きな視点の転換がある。自らを世界に位置づけてみてとることが同時に行われているのである。それは、自己と異なる他者の視線を組み込んだ自己認識である。それを媒介する要素には、自己を対象化する「他者の視線」が補助線としてひかれなければならないのだが、これが自己中心的な社会関係で育った子どもたちの教育においてはまことに困難であった。「どうして学ばなければならないか」と問い返す子どもたちを「わからせて」次のステップへ誘うことは、ほとんど不可能に近い。自己を対象化することには自己批評性が不可欠だからである。

 

 教師という仕事を生業とするということは、そういう意味では、生徒の自己充足的な精神性に対して槍を投げ込む役割を果たすという覚悟が必要であった。彼らと「いい関係」を保つことによって彼らの「学ぶ意欲」を引き出すという論議をしばしば耳にしたが、「いい関係」を保つことの中には、「教える側」の身体性が批評性よりも同調・共鳴性を優先する心理的な働きが作用する。つまり大人の世界に違和感なく誘おうとする余計な身体性が働いてしまう。これはおそらく、私たち大人も生育中に持ってきた社会関係のありようが、自ずから構成してきた身体性なのであろう。何事につけ、もめたくないのだ。それが、「他者の視線」の優越性を削ぎ、自己を対象とする批評的自己言及の厳しさを回避させてしまう。これは「学び」ではなく、「教化/訓育」である。そこから生徒は「従順」を学び取るかもしれないが、「自らの内面の発見・吟味」には至らない。そういう見極めの上に、私たちは教育論を立論してきた。それが世の中の風潮に逆らい、齟齬を来たし、それゆえにマスメディアに(反面教師として)採用されたこともあったが、全体としてはあまり受け容れられた様子はなかった。

 

 さて話を本筋に戻す。森田真生がハイデッガーを援用して解きほぐそうとした「学び」の人間観・世界観は、(1)福岡伸一『動的平衡ダイアローグ――世界観のパラダイムシフト』 によって、「実存」のとらえ方に転轍される。福岡は「実存」そのものを問題にしているわけではない。だが、彼がとらえる生物学からの生命観は、「実存」が「関係的存在」であることをあきらかにする。それを福岡は「動的平衡」と表現する。つまり、「実体」としてとらえるのではなく、「かんけい」的にとらえよとする「転換」を図っている。次のような指摘がある。

 

 《例えば、因果律の考え方もその一つです。複雑系のような比較的新しい議論も、チョウが羽ばたくとはるか離れた場所で嵐が起こるというように、基本的には因果律を認めています。でも、実際そこにあるのは動的な平衡状態によるある種の同時性だけで、チョウが羽ばたいて嵐が起こることもあれば、起こらないこともある。自然をパターン化して捉え過ぎると、東日本大震災のように「想定外」のことも起きます。その意味でも、この世界のすべてがアルゴリズム的に記述できるという考え方は、そろそろ見直さないといけないと思うんです。》

 

 ここで「自然をパターン化して捉え過ぎる」と言われていることは、簡単に「普遍性」に巻き込まれてはいけないと注意を促しているのである。つまり、「普遍性」はつねに「個別性」とのやりとり(フィードバック)の上に成立していることであり、言語矛盾のように思われるかもしれないが、「普遍性の身体性」を見失うなと指摘しているのだ。上記文中の「アルゴリズム的に記述できるという考え方」は、いわば「パターン化して捉えることの集積」を意味している。今の(デジタル)時代は、すべてがこれで成り立っていると言ってもいいほどであるが、それを「見直さないといけない」というのは、もう少し次元を変えた視点を持とうという提案だと言える。

 

 (ちなみに、このブログの2015年5月5日は、森田真生の上記所論を取り上げて、電子チップにハードウェアを進化させるある課題を与えて作業をやらせたところ、100個ある論理ブロックのうち37個しか用いず、しかもそのうちの5つは、他の論理ブロックといっさい繋がっていなかったという話を紹介した。すなわち、デジタルの進化作業を行っていた電子チップも、「論理」ではなく、使えるものをうまく使って進化するというアナログ的な「経験則」的な用法を採用していた、というのである。人間の考える「論理」の狭隘さを表しているのか、「つながらない論理ブロック」をノイズとして排除する人間の論理の方に間違いがあると指摘しているのか。まだまだ不分明な世界が広がっていると思わせる。)

 

 「自然をパターン化して捉え過ぎる」とは、人が物語りをつくってしまうと逆にそれに縛られてしまうことを指している。(2)ミチオ・カク『フューチャー・オブ・マインド――心の未来を科学する』が、それをほぐして、次のように指摘する。

 

 《コペルニクスの原理によれば、われわれは星々のあいだをあてどなく漂う、微々たる宇宙のかけらに過ぎない。……この原理は、宇宙は声明に適合しているというものである。……しかし、生命の存在を可能にするには、明らかに宇宙に存在する力が絶妙に調整されていなければならない。……例えば、核力がもう少し強かったら、太陽は何十億年も前に燃え尽きたはずだから、DNAが出現する暇はなかっただろう。逆に核力がもう少し弱ければ、太陽はそもそも転化されず、やはりわれわれは存在していまい。同様に重力がもっと強かったら……。このような微調整は、身体の一個一個の原子にまで及んでいる。物理学では、われわれは星屑でできている、身の回りにある原子はすべてすべて恒星の熱で作られた、などと言われる。われわれは文字通り星の子どもなのだ。/しかし、水素を燃やして、我々の身体を構成するもっと重い元素をつくりだす核反応は、きわめて複雑なので、いくつもの段階で失敗していた可能性がある。もしそうなら、われわれの身体を構成する重い元素はできず、DNAや生命をかたちづくる原子が存在することはなかっただろう。/言い換えれば、生命は貴重であり、奇跡なのだ。》

 

 この後半の記述は、丁寧に生命の誕生の条件をたどっている。そうしてそれを「奇跡」と表現するところに、「個別性」と「普遍性」の跳躍を寿ぐ心もちを感じる。もしそれを[神の仕業]と言ってしまうと、大自然ではなく、神の偉大さに収斂してしまう。「奇跡」と呼ぶことによって大自然に対する畏敬と感謝の念を込めて己の存在をとらえている感触が込められる。私はそれを良しとしたい。

 

 今回の合宿は、私たちの歩いている地点が、まだまだ地平線すらみていないところにいることを感じさせる。でもそれでいいのだ。いつでも、高みに達したと思ったら、その向こうに開ける地平はさらに広大に広がっていることがわかる。そのバトンが手渡されてさえいれば、いつまでも私たちは歩いて行ける。文字や画像などのエクリチュールとそのメディアが、バトンを受け継いでくれている、そんな「奇跡」を思わせて愉快であった。(とりあえず、終わり)