mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

世界と我が身(3)――目線のデノミ

2015-08-26 10:13:21 | 日記

 「世界と我が身(2)」で(とりあえず、終わり)としておきながら、すぐに翻意。ごめん。

 

 片山杜秀が今日(8/26)の朝日新聞の「文化・文芸」欄で「今月の注目作」を取り上げ、面白い指摘をしている。タイトルは「小説の限界」と打ち、サブ・タイトルを「複雑な時代にどう紡ぐ」と見出しをつける。三輪太郎「憂国者たち」(「群像」9月号所収)と川上未映子「苺ジャムから苺をひけば」(「新潮」9月号所収)の2作を対照させて、世界をどうとらえようとしているのかに分け入っている。

 

 三輪の作品は、三島由紀夫の作品と生涯の評価をめぐる対立を軸に「小説で世界を総体的に認識する」ことができるかを問うている、と。そうして片山は、

 

 《『憂国者たち』はまさに日本の今をつかまえている。文学の機能不全。混乱した現実を前にしての社会全般の判断力低下。……この国の危機を思い知るのに格好な時局認識に満ちた、小説についての小説だ。小説に死刑宣告する小説だ。》

 

 と結論する。その上で、

 

 《いったいこんな時代に、なおもどんな小説が紡がれうるのか。》

 

 と自問して、川上の小説の「アプローチ」に目を留め、以下のように視点を転ずる。

 

 《作家は高みから世界を明察しえない。でも大人びて作家らしく振る舞おうとすれば、如何に不条理な世界でも総体的に認識したくなる。観念や理想で再編したくなる。……そこから逃れるためには言わば作家の目線のデノミが必要だ。視点を切り下げる。話者は12歳の子供。》

 

 川上の作品が12歳の子どもの目線から構成されていることをテコに「作家は子どもに化けることで居丈高な文学者目線からも、もっともらしい小説否定の虚無主義からも逃れられる。子どもならわからないことだらけでも何も恥ずかしくない。そして子どもこそ、身近な世界をさかしら気にならずに疑い続けられる。そこから全世界に疑問符を広げる。そして苦しむ。大人になれる道を探す。」と展開し、それを「希望の道がここにひとつある」とする。

 

 大筋において同意しながらも、う~ん、この展開に片山の思念がもっている「社会的に一般的な前提」に対する疑念がいくつも浮かび上がる。まず最初の大きな「疑念」は、作家というのが世界を総体としてとらえ高みから明察している(べきである)とする前提である。むろん世の中のメディアや権威が、このような常識を持っていることや、それを前提に振る舞う作家たちがいることを知らないわけではない。そうして何時も感じるのだが、何を根拠に彼らは自分たちがそういう位置を得ていると考えるのかが(私には)わからないのだ。

 

 そもそも「世界を総体的に認識する」というのは、どういうことか。人間観や社会観や宇宙観をふくめて「世界」を認識するということが、普遍的に語れるのか。誰がどこからいつ「世界」を認識しているのかと問うだけで、限定が立ちふさがる。むろん小説は、直ちに普遍を語るわけではないから、個別性を描きとりながら「世界の総体を語る」方向へと向かう。だがそれ自体は、断片であり、途上である。またそれを読む者が、どこにいていつ何を読み取るかと考えると、「郵便的誤配」もふくめて、「世界の総体」は語ることができない。

 

 「世界」は、書かれた作品があり読み取る読者がいて、その間の魂の交通の合間に垣間見える瞬間であって、見てとった時それはすでに別のものに変容しているという格好のものなのではないか。つまり「世界」というのを実体的にとらえることはできないのであって、実態的に、つまり「かんけい」的に認知できるにすぎないのではないか。もしそれを「総体的に」認識しようとすれば、遠近法的な視線の消失点において表現するしかない。「色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是」と。これを「虚無主義」とみるのは、「世界を総体的に認識する」主体がどこか超越的に実在すると仮構するからであって、一個の人間にみえる世界は、我が立ち位置からしか見えないのだ。だから遠近法的消失点が「普遍的真理」になる。「人は誰でも死ぬ」と。だが、「死ぬことが人生」なのではない。死ぬまでの存在と関係的実在の総体が人生である。「かんけい」的に見て取ると、見えた(感じた)と思う瞬間に(形を変えて)消えてしまうということも「関係的実在」にほかならない。

 

 じつは川上の据えた「子供の目線」というのが、上記「色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是」に至る出立点である。「わからないことだらけでも何も恥ずかしくない」のは「子ども」だけではない。大人だって恥ずかしくはない。それを「恥ずかしい」と思うのは我が無知を知らないからだ。「受想行識(人のあらゆる感覚や認識)」もまた、「色即是空 空即是色」だと、いわば、感性・認識の根底に立って初めて、「世界」を感じることができる。つまり、片山の逡巡を解きほぐすのは、彼自身がどれほどに自らの輪郭を描きとって「世界」をみているかから、はじめなければならないのではないか。

 

 言うまでもないが、彼の今日の論考にいちゃもんをつけているのではない。彼の傾きがあったからこそ、思い浮かんだ私の「輪郭」に、思いをいたしているところなのである。