mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

梅雨が明けたが、さて

2015-07-19 22:05:28 | 日記

 今日梅雨明けが宣言された。ありがたい。来週の山がどうなるかと、心配していたからだ。とは言え、先週月曜日の苗場山で負った日焼けのやけどが未だにひりひりする。そればかりか、皮がむけはじめた。両方の腕がきたならしいが、仕方がない。台風の名残の風が吹くのだろうか、お蔭で暑さがじかに響かない。部屋にいてクーラーもつけず、窓を開け放って、風を通す。外から熱くなった風も吹きこむが、夏だからしょうがないと、同じく外から響いてくる蝉の声と一緒に、じっとりと滲み出てくる汗を受け流す。最高気温36度という。この程度なら耐えられる体になりつつあるのかもしれない。頼もしいというか、すぐに慣れ親しんでしまうのね、何にでも。逆境に強いと褒めるべきか、現象追随的で節操がないと自省すべきか。

 

 昨日今日と、泊りの勉強会に行ってきた。「知性主義」「反知性主義」「教養主義」を取り扱う3回目。一区切りつけた。アメリカの「反知性主義」を紹介した森本あんりの解析が、いちばん私などの身体感覚に近い。他方で、笠井潔×白井聡『日本劣化論』(ちくま新書、2014年)は《反知性主義というのは、知性が不在だということではなくて、知性への憎悪です》と批判する白井は、「知性への憎悪」が意味することへは言及できていない。アメリカの「反知性主義」は大衆社会時代の「知性の頽落への批判であると位置づける森本の論展開は、確実に私の心に訴えてくる。「知性の頽落」とは、知性が制度化されて抑圧的に作用し、権力性をまとうようになることを指す。つまりアメリカの「反知性主義」は平等の原点に立ち返れという反権力の息吹を意味している。

 

 森本は「知性intellect」と「知能intelligence」とを区別して、「知性」が《自分に適用する「ふりかえり」の作業を含む》と、内省的な視線を組み込んだ思索を意味すると規定する。つまり、外部から己の姿を見て取る、超越的他者の視線を組み込んでいる思索関係を知性と呼んでいる。その結果、《その地が人間生全体に働いて影響を及ぼしている》とみるからこそ、知性を持つ知識人に「徳」を認めることをしてきたのであった。

 

 笠井潔は戦前とのアナロジーで、「軍部で言えば下士官が中間層である。大衆は啓蒙や知性には関心がない。そんな世界があることも良く知らない。基本的には無関心でした。半インテリである下士官や世話役といった中間層が知識層に反感を抱き、反知性主義に流れていく。だから反知性主義は教養や知性の対立物ではなく、その裏返し、あるいは劣化ヴァージョンなんですね」と切って捨てる。

 

 この笠井の言説には、知識人としての「自省」がまったく見られない。「知性の頽落」という事態が進行して、大衆から「憎悪の目が向けられている」ことへの自覚がない。森本いうところの「インテリジェント」な知識人のようだ。自らをどこか全体を俯瞰する「知性的高み」において、下士官や大衆を小馬鹿にしているだけではないか。私は、自らが社会の下士官として生きてきたと思っている。半インテリだと謗られれば、そうかもしれないと思う。高々私ごときの思索が、人類史的な蓄積の精華を体現しているとは全く思わない。だが、森本あんりがいうところの「ふりかえり」の要素を、感じとることができるだけのものの見方をもっていると自負している。

 

 だから、「反知性主義」を謗るよりは、「知性の頽落」を問題にする方に肩入れしたいと思うのだ。森本いうところの「インテリジェント」ばかりがはびこる状況のなかから、下士官も含めた庶民の「読み書きの仕方」を再構築することこそが、いま求められていると思う。梅雨明けのように、さて晴れ渡るかどうか。