mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ギリシャの問題は今の日本の問題にほかならない

2015-07-05 08:46:49 | 日記

 ギリシャの国民投票がいよいよはじまった。マスコミは面白がっていろんな評定をしている。投票結果がYESとでれば(たぶん政権は交代し)、ギリシャの財政切り詰め策が実行に移されよう。そのとき、当面のギリシャのデフォルトはEUのどこかからの資金援助によって、一時停止されることになる。だが、いずれにせよ次々と迫ってくる支払期限を、やりくりして凌がねばならないから、ギリシャ国民にとって苦しい道が続くことは間違いない。と言って、結果がNOとでたらギリシャは政権が思うがままに国内経済を動かすことができるかというと、そんなことはない。資金援助は停止され、支払いをどうするかという交渉がはじまるとともに、たとえ支払い停止になったとしても、財布が空っぽとあっては、緊縮財政になってしまうのは、これまた間違いない。給料も年金も支払がストップしてしまう。

 

 どうしてこんなことになってしまったのか。ギリシャの経済力がないにもかかわらず、ギリシャ国債を買って財政支援をする余裕が、ユーロの信用で行われてきたからである。つまりユーロをつかうギリシャ政府の財布が魔法のように、EU(ばかりではないが)の余裕資金をかき集めて使うことを可能にしてきたのだ。これは、ギリシャの問題というよりも、EUの、ユーロという共通通貨を使うことと財政政策を取り仕切る政治的境界とが別個であることに起因する。それは、統一通貨と、いずれ統一政策を実施するという「理念」の、後ろの方が放り出されたまま進行している、EU統治の不具合が露呈しているのである。

 

 ギリシャの公務員が25%に上るとか、公務員の給料が通常企業の3倍もあるといって、ギリシャの野放図な社会システムの経営状態が最大の問題と指摘するTV論調も多い。だが、もしそういうのを是正させようとするのなら、ユーロ圏からしめだせば、すぐにできる。ギリシャ財政は、すぐに破たんする。否でも応でも緊縮財政に進路を変えざるを得ない。つまりギリシャの財政は(国債発行を通じて)使える資金を調達できてきたから、現状のように負債が膨れ上がり、行き詰る結果を招いたのである。資金を融通しつづけてきた側も半ばの責めを負うべきだという論拠はここにある。

 

 通貨と政策決定との齟齬の根本原因はどこにあるのか。通過を支える経済力が、国・地域によって格段の違いを持っているからである。最高潮のドイツは、ギリシャが怠けていると非難している。ヨーロッパ連合のようでない各国が経済圏を共有するということは、異なった歩みをしてきた社会履歴と異なった力を持つ地域がそれぞれの歩み方と実力に応じて関わり合いを持つことである。力のあるものはあるように、ないものはそれなりに。その実力に応じたかかわりを持つ媒介を(経済面において)するのが「各国通貨」である。経済力のない国の通貨は、交換比率において安く評価されるから、国際取引においては不利になる。懐具合によって、思いのままの取引ができない。経済力のある国は、生産と取引によって富を集中集積する。その余剰がまた、金融取引を通じて富の集積を加速する。これは、経済力のある国が市場として経済力のない国を抱え込みながら、それらの地域から富をかき集めている姿でもある。

 

 ところがユーロというのは通貨を共有するせいか「共通の経済圏域」である。「共通の経済圏域」というのは、生み出された富が遍く行き渡ることによって市場が拡大し、いっそうの経済活動を刺激し、余剰の資金は(利潤を求めて)投資される。ギリシャ国債を買うというのも、そのひとつであった。共通の経済圏域であるからには、ギリシャの国債を購入している資金は余剰資金である(グローバル化の時代であるから、ユーロ圏以外の地域からも資金は提供されているが)。つまり経済活動によってかき集められた富であって、それが投資され失敗したとして失われることになっても、それ自体は「共通圏域」内でも出来事である。そうして、「経済」が「経世済民」に発するように、「共通の経済圏域」は、その中に暮らす人々の生活を成り立たせていくことが必要最低条件である。その「経世済民」の部分は各国政府の財政政策にゆだねて、生産と流通の部分だけ共通にして良しとするのは、以上経済に任せていれば見えない手が働いて自動調節されると前提にしているからである。だが、そういう経済論はもうとっくに機能しなくなっている。つまり「経世済民」は「圏域」を共にする人たちが「共通の再配分」を施さなければ成り立たない。ユーロとEUの矛盾の露呈しているのがギリシャ危機なのである。

 

 私たち日本人は、「ギリシャの危機」を「投資した人たちの危機」というふうにしか受け止めていない。だが問題は、日本という(ギリシャに比して)かなりの程度に閉ざされた経済圏においても、人口の集中する首都圏と地方という構図を描くと、ユーロとギリシャという構図が浮かび上がる。資本が集中して経済力があるのは首都圏、それに対して地方は(さまざまであるが、最悪のところは)ギリシャである。ただギリシャのように大騒ぎしないのは、通貨が同じであるだけでなく経済政策も金融政策も、一本化されている。つまり再配分機能がいくぶんかでも働いて、都会の収益が地方に配分されている。しかも、日本の国債の80%は国内資金が導入されているものだというから、そう簡単には破たんしないというわけである。

 

 だが実は「共通する経済圏」という意味では、首都圏が稼いだお金は全国に広く振る舞われてこそ、市場は活性化する。資本主義的な原則にのっとっても投入した資金相当が戻ってくればOKなのだから、そういう制約を受け容れることができれば、そこそこレベルの高い暮らしを実現することは難しくない。ところが近ごろの経済活動は、より多くの利潤を求めて、海外へと目が向く。収益も海外貿易からのそれをすぐに期待する。利潤追求はグローバル次元において展開の場を求め、「経世済民」は別次元のこととなっている。つまり日本の過疎地域を含めた地方は、経済活動の視野に入ってこないのである。経済の原則にのっとっていては、過疎地域にまんべんなく振る舞うわけにはいかない。だからこそ、政府という国家の再配分機能が作動しなければならない。

 

 地方の時代といって、盛んに地方の自律が求められているが、税収を含めた財源が付与されていないと、けっきょく中央集権的な力が残される。財源が唯一プラスである東京都は地方に財政資金を提供しているように思っているだろうが、じつは、支社や下請けや農林漁業などで地方に依存しながら利益部分だけが本社機能のある東京都に集約されている結果である。つまり東京都は、地方を植民地にしておきながら、あたかも自分たちのはたらき分を地方に分け与えているような、錯誤をしている。それを強化しているのが、行政の中央集権化だといえる。この対立構図は、ドイツとギリシャの対立構図と同じともいえる。

 

 ギリシャの立ち向かっている危機は、私たち日本人にとって対岸の火事ではない。グローバル資本主義経済の関わる領域と経世済民の関係する領域とのずれを補正するシステムを構築するか、政府がかじ取りして補正していく政策提起をしっかりしない限り、日本に暮らす私たちの見通しもまた、五里霧中なのである。ギリシャの問題は、日本の現在の問題にほかならない。