mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

毎日がお祭りでは苦しくないか

2015-07-18 09:50:01 | 日記

 昨日、芥川賞の発表があって、芸人の作品が受賞したと大騒ぎしている。インタビュアーが受賞した芸人に、「これで作家としての環境がぐんと変わると思いますが、芸能活動はどうされますか」と尋ねている。作家を芸人の上に置いているのだが、当人は「芸能活動の合間に、(創作は)つづけます」と恬淡と語っていて、好感を持った。つい昨日読み終わった、角田光代『私の中の彼女』(新潮社、2013年)がそれを掘り下げた視点で書いている。

 マスメディアに乗るデザイナーとか作家といった活動と、仕事という生計を得る働きと家事という日常的な欠かせない繰り返しの作業とを、人が生きるという平面に並べたらどういうことになるか。それらを、輻輳する「かんけい」という立体的な環境に置いて考察すると、何が起こるか。そう考えて(たぶん)主人公を振る舞わせてみると、こんな事態になると、角田がたどっていたような気分で印ている。人間て、面白ろうてやがて哀しき、思いにとらわれる。

 それを反転させて我が身を振り返ってみると、どうして私は、マスメディアに乗って脚光を浴びる方向へ向かわなかったのだろうと、(別に芸人でもないし、脚光を浴びる機会があったわけでもないのに)我が身の裡へ視線が向かった。すぐそばに、何冊も評論本を書いて呻吟している友人がいて、彼はそれが自らの存在の証のようにとらえていたのだが、それにも魅入られることがなかった。出版するとかそれが売れるということが何ほどの喜びを創り出すのかにも、関心が持てなかった。

 サービス精神が欠けているのかなと思ったことはある。基本的に、私のアクションによって周囲にいる人が悦び、興奮し、あるいは深く考え込んで人生への洞察を深めるのをみると、いよいよ我が身の置き所を見つけたように思って精進する、という意味でのサービス精神である。今回芥川賞を受賞した芸人の芸能活動というのは、もともとそのサービス精神の塊のような活動である。それができてなんぼ、という。その跳ね返りが、自らの技を磨くのに作用し、その磨き効果がさらにまた跳ね返りの変化を生む。それが一対一ではなく、芸能活動の本筋場面は一つでも、その報道や報酬や他の芸人との関係や誘いかかる波紋を考えると、幾層にも関係は重なって跳ね返ってくる。そういう多項目相互変数的な「かんけい」が人が生きている実感へとつながるのであろうが、「生きている時間」というのは浮き上がるような成功体験ばかりではない。脚光を浴びるのはその上澄みの部分であって、当然ながら大半の要素は「重い実感」となって、自らの輪郭を描きとるのに作用をする。それは同時に、世界をみてとることに回路を開いている。

 つまり(角田が描きとろうとしたことと同じかどうかはわからないが)、目下の時代のマスメディアが拾っている「世界」は、注目を浴び脚光を浴びて、肯定的な成功体験を感じさせ、優れ秀でた資質と才能をほめそやし、賞賛を浴びせているが、それはひょっとして「世界ではない」と提示しようとしているのではないか。私たち(庶民)が感じている「世界」とは、日々たゆまず繰り返し取り組んでいる日常作業であって、それに連なる身体の習慣であり、心の習慣であり、社会の慣習である。それはじつは、愉しいとか悦びとか、自己実現と言った言葉で表されるような価値を含まない。坦々と繰り返される必要がある振る舞いなのだ。食べることもそう、寝ることもそう、掃除も片づけも、洗濯も、セックスも、付き合いも、それがいいことだからそうしているというよりは、そうする必要があるからしていることにほかならない。日常とはそういうものだ。

 

 それがどこからか、日常はつまらない(事実つまらないと感じればそう感じる)から非日常を求める。坦々と過ごすよりは笑いに満ちて楽しく過ごす。誰にも知られず生きるのではなく、自ら生きた証を残す。ふつうの人として埋もれるよりは、自己実現を図った才能を開花させ脚光を浴びる。そういう生き方が「ふつう」になって、そうでない生き方がますます「つまらない」ものにみえてくる。こうやって、1970年半ばころ以降の日本人は、大きな人生観の転換を迎えてきたのではないか。

 

 都会では街に出ると、毎日がお祭りのような「騒ぎ」である。どこから人がこんなに集まるのかと思うほど右へ左へと移動し、店頭には驚くほどの数のスウィーツが並び、彩もにぎやかに飾り立てている。おいおい、日常はどこに行ったのかと、むかしの庶民なら思うであろう。ここで私が「むかしの庶民」というのは、社会の(必要とする品物の)製造過程を支え、流通過程を担い、その最終始末を担当している人たちの振る舞いである。農民であり、職人であり、会社員であり、配送業の運転手であり、販売店員であり、主婦であり、年寄りであり、若者であり子どもたちである。

 

 ひところ「常民」と言われた人たちは、蒸発してしまったのか。そうではない。いるのだ。だが、陽の光を浴びることなく、バックヤードと呼ばれるところに秘かに匿され、目につかないようになっている。ときどきマスメディアに乗って目についても、それが優れた資質と努力を擁する「私たちの優れた才能を表す」という特段の扱いを受けることがらとなる。つまりそうして、ますます日常の「庶民」はつまらないこと(を致し方なくしているよう)になっている。

 

 なんだか、歩く道を間違ってきたようだね。どこかで、軌道修正しないと、街は日々お祭りの中で、浮き上がり、文字通り浮薄になる。年を取った私は日々身を「庶民」に浸している。浮き上がりたいとも思わない。ときどき山を歩き、お酒を酌み交わす非日常があれば、それで十分である。でも誰もが年を取らなければ、そういう心情にはなれないというのでは、困ったものだね。