mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

どちらに身を置いて世界をみているか

2015-07-10 15:32:11 | 日記

 カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』(早川書房、2001年)を読む。なんだ、これは? と思いながら読みすすむ。著者の描こうとする世界の全体像が、よくわからないのだ。

 

 自分の希(ねが)いを相手に託して、自分の将来世界を描き続ける。そのためには現下の日常の、細々としたことを否定しなければならない。それは、身の回りにいる、細々としたことによって自らの世界をかたちづくりつつあるものをないがしろにすることでもある。対照的に、伝統的世界の感性を十分身に着けて、そこから世界を読み取っている人もいる。その人からすると、自分の希いを他人に託して将来世界を語ることは、危なっかしくてみていられない。

 

 その両者が出逢う。舞台は戦後日本(とイギリス)。私は、子どもの自分と大人の自分の両者の目で読みすすめていることに気づく。それもそうなのだ。敗戦を迎えたのは高松市、そこで7歳まで私は育った。その時の雑多な世界の喧騒が、身体の裡から湧き起る。空襲で焼かれ壊された家と街、片付けの済まない道路とぬかるみ、港の音と匂いとがたごとと走る木炭自動車、うろつく野犬と進駐軍のジープ、高松築港の靴磨きや傷痍軍人、乗船下船の行き交う人々、物売りの声。それが何故にそうなのか、まったくわからないままに、世界として受け容れて体の記憶に刻んできた。その記憶が刺激されて蠢きだす。

 

 「不条理」と池澤夏樹は「作品解説」で書く。だが「不条理」というとらえ方は、「条理」によって世界が構成されると前提しているから紡ぎだされる言葉=世界の見方である。子どもの目で見てみると、それが世界なのだ。そもそも、何が何かわからないままにモノゴトが展開し、コトとコトとの相互性もそれが動き出している関連性もわからないままに、世界をとらえて我が身が奈辺に位置しているかをみてとらなければならない。大人だからといって、それが「条理」に整えられたそこだけと向き合うってわけにはいかないのである。つまり、「わかったつもりになっている」のが大人だということができる。

 

 「著者の描こうとする世界の全体像が、よくわからない」とはじめに書いた。それは逆に言うと、「世界の全体像が見てとれる」世界しか見ないと宣言するようなものだ。年を取ると、経験を積んで世界が見えるようになるというのは、視野が狭窄して、自分の条理にあわない世界を切り捨てている頑固な世界なのかもしれない。反省。そういうふうに、近ごろ本を読むようになってきている。

 

 どこへ向かうかわからない小説の運びは、しかし、読む者にとっては、ある種の「冒険」である。気がつくと、このところ、西欧の小説を立て続けに読んでいる。イギリスのカズオ・イシグロ『わたしを離さないで Never Let Me Go』も、ノルウェイのダーグ・ソールスター『ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン Novel 11, Book 18』も、読んでいて同じ著者だったかと思い間違うほど、私の世界との噛みあい方が似ている。

 

 これはひょっとすると、私の観念世界の傾きの平衡感覚が、壊れ始めているのだろうか。もしそうだとすると、何だかワクワクするような新しい世界の幕開けというか、門口に立っているのかもしれない。池澤は著者が影を潜めている文体と言っている。そう言えば、ソールスターも、作者としての世界提示を行わない。主義も主張も、勝手に登場人物が身に着けて振る舞い、著者がそれらについてどう考え、何を言わんとしているのかは、藪の中。「結末部分」を読み手に投げ出してしまう。これがひょっとすると、目下の西欧流の小説作法なのかもしれないと、思った。