mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「美しい」人間の見失っていること

2015-07-07 08:17:14 | 日記

 ダーグ・ソールスター『ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン Novel 11, Book 18』(中央公論新社、2015年)を読む。村上春樹訳だから、この本を図書館に予約したのだろうか。きっとそうだ。

 

 ほんとうに妙な読後感が残る。社会全体の気風というような、文化のギャップがあるのだろうか。よくわからないと思うことが、わからないままに棚上げされた感じで、読み終わってしまった。訳者の村上春樹は「何が変かと言えば、まずその小説スタイルだ。いったい新しいのか古くさいのか、それすらうまく判断できない」と「訳者あとがき」に書いているから、私だけの感懐ではないのかもしれない。

 

 家庭を持つ有能な中央官僚が、惚れ込んだ相手を追って田舎に移り住む。仕事もその地方の収入役という、彼の経歴からするとおおよそ似つかわしくないものに就く。ノルウェイでの話。

 

 フランスでの結婚が「瓦解して」帰国した女性と恋に落ち、しかし彼女は「愛人であること」を承服できず生まれ故郷に帰ってしまう。2歳の子もいる彼は妻に「自分は愛を見つけたし、それを裏切ることはできない」と告げて彼女の後を追う。地方都市で市民演劇に加わって指導的な役割を果たして輝いている彼女をみながら、その一端に加わって過ごす。だが十数年経ったある日、落胆する。イプセンの「野鴨」を上演したときの彼女の演技における「裏切り」をきっかけにして、次のような結論に至る。

 

《自分が観客の行為を引き出せたことを嗅ぎ取って。わなわなとふるえるその膝、感極まった表情。自分のことで頭がいっぱいになり、胸を震わせ、安っぽい成功に酔いしれていた。……自己陶酔に浸るためにはいかなる代価をも支払う。それこそが彼女の生き甲斐なのだ。……彼女にとってのまさに栄光の瞬間に、彼ははっきり悟ったのだ。もうこの女と一緒に暮らすことができないと。》

 

 こうして彼は彼女のもとを去り、独り暮らしをはじめて、物語りは次の展開に向かう。その後の展開をここで話すのはやめるが、著者ソールスターの主題とするのは「美し」だと思った。大野晋は「美し・い」を次のように解説する。

 

《親子の間の(主に親から子への)、また夫婦、恋人の間の肉親的な非常に親密な感情をいうのが、もっとも古い意味。……仁・慈・恵・愛の行為をする意。……中世に入ると、美しい、きれいだの一般的な意でも用いられるようになる。》(『古典基礎語辞典』、角川学芸出版)

 

 大野晋はむろん、日本における語義を示しているのであるが、この大野が前段で意味している「美し」をソールスターは取り出して、ノルウェイにおける人の「かんけい」において見つめようとしているのではないか。この主人公が内心に抱く「美し」は、「フランス風の振る舞い」「演劇」「演技」「イプセン」「信頼できる友:散歩をしながら読んだ本のことを話す、その語り口が好ましい友人」におかれている。それに対して、主人公は難なくこなしていて陳述の視野に入ってきていないのが、日々のルーティンワークである。それはたぶん「美し」にはふくめることができない実存の領野なのだろうか。

 

 ノルウェイの人たちの「家庭」がどのようなことをスタンダードにしているのか知らないが、子どももいる男が、「自分は愛を見つけた」と妻に告げて家を出るというときの「愛」とはいったい何であろうか。2歳の子どもがいるということは、少なくとも3年以上暮らしを共にしてきているはず。それが別に「愛」によって支えられなければならないとは言わないが、そちらに何の言葉及ぶこともなく「愛を見つけた」と告げて家を出るというのは、わからない。

 

 そのようにして妻と子を捨てて追いかけ、その後十数年ともに暮らしていながら、若さを失い、自己陶酔に浸るためにいかなる犠牲をも払うことが見えたからといって、「もうこの女と一緒に暮らすことはできない」と見切るというのも、わからない。日常のルーティンワークとそれが保ってきた「かんけい」は、主人公の内心でどういう位置を占めているのであろうか。これも、わからない。

 

 その「わからなさ」が、最後まで読み続ける原動力になる。こうして、主人公が意図して「不可逆的」な事態に至るのだが、最後まで来てソールスターは、結論を読者にゆだねる。そこで放り出された読者は、あらためて自らの実存との上において、どちらの道を選び取るか考えるのであろうか。この最後の点がわからないのは、ノルウェイの人々がこの主人公の「美し」を共有しているのかどうかわからないからだ。

 

 ノルウェイ出身のイプセンという作家が(「人形の家」の作者で)、当時の社会規範をひっくり返すような作品をつくってきたという程度しか知らないから、この作家の「野鴨」という作品の上演がどのような重みを持ち、その「失敗」がどれほど「美し」とかかわるのか読み取れないこともあるが、1世紀をはるかに超える時間を置いて、同じ意味を著者が与えているとは思えない。でも、ちょっと視点を引いてみると、現代のノルウェイ社会に対するイプセン的な攻撃を仕掛けるのがこの著者の意図にあり、それが「失敗」に終わるかどうかは、読者にゆだねられている、と読み取れる。

 

 今のご時世、たしかに「美しい」日々こそが人間らしい暮らしとうたう声に満ちている。もっと美を、もっと若さを、もっと信頼をと上がる声に、ルーティンワークは金銭的な交換に持ち込まれ、サービス産業という「美し」さに置き換えられていこうとしている。そういう意味では、どちらの道を選ぶか、岐路に立たされているのは、私たち読者でもある。そこまで視野に入れているとするなら、作家・村上春樹こそがその選び取り方を描いて見せなければならないのではなかろうか。

 

 それにしてもヨーロッパ文学には、まだ柳宗悦も、宮本常一も登場していないということであろうか。