mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

いま日本のナイファンチはどうなっているか

2015-07-04 08:58:54 | 日記

 今野敏『チャン ミーグヮー』(集英社、2014年)を読む。これまでこの作家の警察小説を読んできたから、この作品は意外であった。のちに「唐手」とか「空手」と総称されるようになる、琉球の「手(ティ)」と呼ばれる武技がある。その達人の一人を追った物語である。これは面白かった。

 

 物語りそのものは、半ば伝記の概略のようでこれと言って気持ちをひくところはなかったのだが、「手」を習得していく過程の細部がみごとに剔出されていて、いろいろと考えさせられながら読みすすめた。「手」は琉球の武士が身に備えるべき技であり、父子相伝を基本としている。つまり、明治維新のころまでは琉球王国の守護者たるものの、身体性を意味していた。

 

 元服してのちにナイファンチという「手」の型を父から教わるところから始まる。その「教わり方」「学び方」がすでに、近代の教授―学習法と異なって(今読むと)興味深い。その時の主人公の胸中に去来する思いは、(今の)生徒たちが思い浮かべるのと同じ感懐から始まっているから、その転換点がどのようにかたちづくられてくるかも、子細に気を配って書き込んでいる。学ぶ方も教える方も、その言葉と振る舞いとが、静かに火花を散らすように行間に溢れる。

 

 このナイファンチは、西欧体育で「体幹訓練」と呼ぶ、身体の根幹をどうかたちづくり強化していくのかに通じる基本要素をすべて含むと言えそうだ。それを土台にして、分節化して身体各部を思いの通りに動かすことができるように、まさに鍛錬がすすむ。まず、腰に土台ができるように感じる。ついで、身体の真ん中に壁ができたように右と左を使い分けることができる。そうして、背中に壁が出来上がる。そうした何年も経る身体の変化を事細かく見つめながら、主人公の探求が歩一歩とすすむ。まさに己の輪郭を描きとるように内側に向かう視線が、同時に外の世界をかたちづくっていく。

 

 己の輪郭を描くというのは、単なる身体の修練によって果たされるだけでない。場におけるひと言の言葉が乾坤一擲の作用をなしている。言葉を介するというのではなく、修練によって体得していくときのこころに(父子相伝の)「口伝」のことばが働きかけて、なぜその修練をしてきたかが「学ぶもの」の心中に鮮明に起ちあがっていく。その記述をたどるとき、主人公の修練への執念とともに、作者の必死の形相が行間に浮かぶ。身体のはたらきというミクロの世界から、人の世の本質をとらえる慧眼が冴えわたる、と思った。

 

 つくづく思うのだが、私たちはほんとうに観念的に己の輪郭を、すなわち世界を描きとってきているように思う。今野敏の描く「手」は琉球王国の守護者たるものの身体性を表していると先ほど言った。それを敷衍すると、現在論議されている「国家存立の緊急事態」とは、身体性を失った「観念」だけでかたちづくられた国のアタマが、慌てふためいて身体を作り出そうとしているようである。だが、外へ向けての策術的な身体性が問題なのではなく、体幹がどうなっているのかから見極めて、作り直さなければならない。それをないがしろにして、一朝一夕に外へ向けて一人前の顔をつくろうとしても、腰が据わらない。ナイファンチができていないから(たぶん)ことあるときに、何か(アメリカという大国の戦略と戦術のようなもの)にすがる結果しか生まないであろう。そんなことを思わせる、面白い本であった。雨が続くとこういう本にも出会ってしまう。